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魔女・細木数子

                魔女・細木数子

             運命の出会いは理想とは違って

滝沢は金にだらしがなく、よその組織に迷惑を掛けるというんで除籍になった。

一時期は稲川裕紘さん(後に稲川会会長・故人)と山川修身さん(稲川会副理事長・滝沢と兄弟分)が口を利(き)いて、稲川会に出入りするようになったけど、晩年には一線を退いていた。一時別居していた自分の女房の家に移り住んで,女房の姓,「鍛冶田」を名乗っていた」

細木数子はこうして稲川会・滝沢良治郎から小金井一家・堀尾昌志に鞍替えした。だが、堀尾は細木が言うような「すごい親分」ではなかった。堀尾昌志は九州の出で、若い頃小金井一家の新宿四代目・田中松太郎の若い衆になった。

田中松太郎は通称が「とんがり松」戦前・戦中にほぼ活動期を終えている。新宿駅西口から新宿御苑の前あたりまでを縄張りにしていた。堀尾の若き日については,地元の古老ヤクザの証言がある。

『田中松太郎』の跡目を取るとされた男は堀尾じゃない。堀尾は下っ端で、掘尾の上に有力候補が二人いた。だけど二人ともポン中(覚せい剤依存症)でヤクザ人生を棒に振ったり、シャブに手を出さなかった堀尾が新宿五代目になったわけだ。

堀尾は小金井一家では七代目総長,納谷富蔵の後を受けて八代目総長になったが、変な話が伝えられている。堀尾の服役中、次期総長の有力候補が堀尾の女房に手を出し、自分の女房にした。

これが表沙汰になり『他人の女に手を出すような男は』というので、堀尾に総長のイスが転がり込んだらしい。堀尾は周りの敵失でヤクザの階段を上がったよな人で、ヤクザとしては毒にも薬にもならん大人しい男だった。

女には持てそうだったけど,ケンカ出入りとか荒事はほとんど経験していないのではないか」堀尾はまた、二率会の会長代行にもなったが、二率会は小金井一家、八王子一家、親之助一家という博徒(ばくと)三団体から成っていた。

首都圏の博徒暴力団の親睦組織『関東二十日会』加盟団体でもあったが、二率会の組員は他組織に吸収されたりで、今二率会は存在しない。細木は強いヤクザを求めた。

だが、こと志と違って堀尾は『女依存型』のヤクザだったかも知れない。

「ヤクザ同志のマージャンで堀尾が打つ姿を何回か見た事が有る。ヤクザのマージャンだからレートが高い。負ければ三百万円ぐらい飛ぶ事はザラだ。あるとき堀尾が三百万円負けた。

細木数子は顔色も変えず三百万円の小切手を書いていた。女傑ですよ。こういう女がいれば、ヤクザも心強い」初代山健組の別の幹部)

住吉会の浜本政吉(同会常任顧問・故人:同会の呼称は時代によって変化するが,ここでは住吉会で統一する)が赤坂にナイトクラブ「あやめ」を開いたのは、1969年・昭和44年である。細木が同じ赤坂に『艶歌』を開くのは1971年・昭和46年頃だから、ナイトクラブ業では浜本が先輩である。

「浜本は『赤坂の天皇』と呼ばれ、同じ赤坂で他業種展開の『ハマ・エンタープライズ』もやってたし、住まいにもしていた。ここに細木が堀尾と連れ立ってよくやって来た。・・・

浜本に借りでも有るのか、細木は浜本から良く宝石を買わされていた」(関東の暴力団元幹部)。

小金井一家・堀尾と住吉会・浜本では勝負にならず堀尾は浜本の風下に立っていた気配(けはい)が有る。

晩年堀尾は五代目山口組若頭・宅見 勝(故人)と兄弟盃を交わしたようだが、これは両者が同格であることを意味せず、単に小金井一家に対する山口組の懐柔工作だったと見られる。

というのは、両組織間には血なまぐさい経緯があったからだ。

1990年・平成2年2月、市内のバーで鉢合わせした二率会系組員と宅見組組員の間でケンカ口論となり、一坦はおさまったが、その夜のうちに宅見組の組員二人が東京八王子の二率会系の事務所に押しかけ、逆に刺殺される事件が起きた。

五代目山口組はこの事件を好機として八王子を猛攻し、二率会系組員は他団体に吸収されたりで四散した。いわゆる八王子抗争である。

同会で残された主要団体は小金井一家だったから。とりあえず兄弟盃で『堀尾に華を持たせておく』のが大人の対応だった訳だろう。

堀尾昌志の晩年もまた寂しいものだった――。

(第四章:他人のふんどしで『占い師・細木』の土俵入り)へ続く

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釈尊のことば・33

                 釈尊のことば

             33:偉そうにならないように

「ホラホラ、自分ってすごいでしょう」と、そんな風に自慢する人にならないように。

口に出して露骨に自慢しない人も、態度や素振りで自慢することも有る。

「自分のこと、分かってよ」とばかりに、むやみに自分語りをする人にならないように。

ちょっと心が成長したからといって、偉そうにならないように。

そして知らず知らずのうちに偉そうになり、他人を傷つける言葉を吐いてしまわぬように。



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一日一言:する仕事

                  一日一言
                 11月30日
                  する仕事

させられる仕事から
する仕事に変わるとき、

苦しみは喜びに変わり、
生きがいに目を輝かせる。
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魔女・細木数子

                魔女・細木数子

            山口組五代目に秋波(しゅうは)を送る

「細木が滝沢の女だったって事は古いヤクザ者なら大体知っている。細木が男前の詐欺師に色仕掛けで共同経営を持ちかけられ、赤坂の『艶歌』を開いたものの、工事代金の未払いや売り上げの持ち逃げで借金を背負ったという話が有る。

この時滝沢が一部の債権を手に入れ,それを縦に細木を自分の女にした。堀尾が後にその一部を肩代わりすることで、細木を滝沢から譲り受けたって話が有る。

しかしこの話はどうかね。ちょっと疑わしい。と言うのは俺の知り合いで、当時細木から誘われたって男がゴロゴロいる。あの頃、細木は力のありそうなヤクザを物色していたのよ」

                   ★

細木は有力ヤクザと見ると、たしかに色目を使った様だ。彼女の言い分によれば,『艶歌』のダマシで細木を痛めつけたのは私設『銀座警察』、つまり住吉会系大日本興業の組員と見られるが、それとの対抗上も、大物ヤクザを情人に持ちたかったのかも知れない。

山口組若頭山本健一がひんぱんに上京する様になるのは1972年・昭和47年10月、当時の稲川組理事長・石井唯博(後の稲川会会長 石井 進)と兄弟盃を交わす前後からだが山健は当然『艶歌』にも出入りした。

前出、初代山健組の元幹部が証言する。

「細木はうちの親分を『カシラ、カシラ』と呼んで下にも置かなかった。あるとき親分に着いて艶歌に行ったら細木が『カシラ、これは縁起のいい番号なのよ。お守り代わりに連番で持ってて』と一万円のピン札10枚を親分に押し付けた。

紙幣には番号が打ってある。どこがどう縁起がいいのか忘れたけど、要するに細木は10万円を渡してまでうちの親分の歓心を買いたかったわけだ。

当時親分は、同じ赤坂のナイトクラブ『コパ・カバーナ』に女がいた。東京滞在中は毎日『コパ』に通っていたけど。その女がまた遊び好きで、『コパ』が終わると親分を誘って飯を食い、その後『艶歌』に繰り出す。だから艶歌も連日だったけど、親分は女と一緒だ。細木が一所懸命気を引こうと頑張っても目をくれるわけがない。

もっとも細木は若い衆の私には『歌手や女優の卵程度でいいなら、いつでも紹介するわよ。』と言っていた。こっちは細木の口車に乗るほど馬鹿じゃない。細木のお世話でそういう女と遊んだことはないね」

昔取った杵柄(きねづか)である。細木のポン引きや管理売春のクセは抜けていなかったらしい。しかも細木数子の大物ヤクザ好みは今なお続いている。

日本の暴力団で最大・最強と言えば当時も今も山口組だろうが。言うもでもなく、その山口組内での最強は当代の組長である。

関西の事業家が厳秘と言っていい事実を明かす。

「細木数子は山口組の五代目渡辺芳則(1989年就任2005年引退)に『私の面倒見てよ』と言ったらしい。

アンタの女にしてよ、という意味か、後ろ盾になって欲しい、という意味か分からんけど、とにかく細木は安岡正篤からせしめた掛け軸まで五代目にプレゼントした。

五代目は言ってましたね『あんな女は嫌いだ。アンタにその気が有るなら会わせるよ』と。そして2005年5代目が引退すると、細木は『あの掛け軸返してくれない?』と言ってきたらしい。呆れた。まさしく『女賢しぅて牛売り損(そこ)なう』って女が細木数子だ」

話を戻そう。細木はなぜ情人を稲川会・滝沢組・滝沢良治郎から二率会・小金井一家・堀尾昌志に換えたのか。前出の初代山健組の元幹部が赤坂『艶歌』での知見を披瀝(ひれき)する。

「堀尾さんと一緒の席になったとき、堀尾さんが言う訳です。
『滝沢から、“あんな女要らんから付き合いなよ”と言われた。それで貰った』と。これを聞いて、関東のヤクザは女のやり取りもするんだとビックリしました」

滝沢と親しかった前出の都内の事業家が語る。
『ご存知のとおり、競輪のノミ屋はレースの結果が出てから、客との間で金の受け渡しをする。おまけにノミ屋には地域ごとにヤクザの息が掛かっている。

滝沢はこのノミ屋も利用した。滝沢はでっかく賭ける。

ある時、予想が外れて、負けても掛け金を払わなかった。実際には払いたくても払えなかったんだけど、これが組織で問題にされた。
                  
                    (運命の出会いは理想とは違って)へ続く


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釈尊のことば31

                釈尊のことば

            32:快楽の刺激を求めない


たとえ褒められても、脳内で生まれる『アー、気分がいい』と言う快感反応に溺れることなく快感の中毒にならないでいるならば、評価されたからといって偉そうに振舞うことはない。

快楽の刺激を追い求めない時、あなたの態度はやわらかくその場その場に応じて柔軟に言葉を返す事ができるだろう。

このように心が深く落ち着いているなら、特定の宗教や人を信仰する必要もなく、いまさら『心を落ち着けなくては』と頑張る必要もない。

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一日一言:謙虚な人

                 一日一言
                11月29日
                 謙虚な人

尊いもの
美しいもの
善なるもの

みんな謙虚な人のところへ
集ってきて
その人のものとなる
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魔女・細木数子

               魔女・細木数子

      第三章 小金井一家・堀尾昌志との深く永い契(ちぎ)り

             初めてのヤクザとの逢瀬(おうせ)

細木数子が小金井一家総長・堀尾昌志の実質的な女房,姐さんになったことで、細木数子の現在の暴力団人脈が形成される。

堀尾昌志の存在は現在の細木数子に直結している。

細木は1971年・昭和46年ごろ赤坂でサパークラブ『艶歌』を開店する。堀尾は店の客となり、細木と知り合う。細木は例の『女の履歴書』で堀尾は一本七万円のブランデーを五万円に値切った上、客になった。

見栄っ張りの客が多い中、(こういう堅実な遊び方をしてくれるお客が今の『艶歌』にとって一番大切)とほほえましいことでもあるかのように記している。

が、当時の『艶歌』を知る『遊び人』は細木が披露するエピソードに顔をしかめる。

「『艶歌』は大した店じゃないのよ。どんなブランデーだか知らないけど、一本七万円なんかで出せる訳がない。当時ブラン
デーを置いていたかも怪しい。ただし、堀尾に金が無く、男気もなかったことは事実だ。気風がいい点では細木の方が上だったからね。

堀尾がカネに窮して男が立たない時、自分のしている指輪を外して『じゃ、これを質にでも入れてさあー』と言い出すのは細木だったよ。細木は堀尾を『お父さん』と呼んでいた。

『お父さんが賭博を開帳すると開帳図利でパクられるから、あたしがやる』って大股おっぴろげてやる口だったからね。型どおりヤクザの姐さんだった。』

しかし堀尾昌志は細木が最初に関係を結んだヤクザでさえなかった。堀尾の前に稲川会の滝沢組組長・滝沢良次郎(一時稲川会から除籍・故人)が居た。

堀尾の存在は事情通の間では知られていたが、滝沢の名を明示するのは本書が始めてだろう。

滝沢良次郎とはどういう男だったのか。滝沢と親しかった都内の事業家が語る。「堀尾は昭和3年生まれだけど、滝沢も昭和一ケタ、同じ様な年恰好だ。

体も大きく170センチちょっとあった。恰幅が良く男っぷりも悪くない。こういう点も滝沢は堀尾と似ている。

もともと競輪の予想屋で、兄弟で予想屋をしていた。商売で大声を出していたからしわがれ声で、関東じゃ、『予想屋の滝沢兄弟』といえば有名だった。

この滝沢良治郎を稲川会の井上喜人(初期の稲川組で四天王のひとり)が可愛がり、自分の若い衆にした。横浜駅の西口を任せたりしたが、晩期には川崎の方へ移ったんじゃないか。井上喜人の人脈は稲川会では本流ではなく,晩年は主流派から外れていく。

しかし滝沢は森田祥生(一時、稲川会常任相談役)と同格だから稲川会では大幹部だった」

滝沢良治郎は関西でも知られていた。
山口組三代目組長・田岡一雄時代の若頭に山本健一(初代山健組組長・通称山健)が居たが、初代山健組の元幹部が言う。

「滝沢さんはいわば『車券師』だ。車券師だと言ったって、八百長を組む訳じゃない。あの人の競輪は『先行一車、逃げ切り』にしか張らない。先行一車にヒモをつけて車券を買う訳だがそんなレースはそうそう有るものじゃない。

それで若い者を全国に散らし、岐阜が日本の中心だというので岐阜に競輪専門の事務所を設け、レース開催の一日前に全国の競輪予想紙を入手できる体制を創った。それこそ若い衆を飛行機で飛ばしていた。

滝沢さんは予想紙で先行一車のレースに目星をつけ、張りまくっていた。勿論大儲けする時もあったし、大損かぶるときもあった。

こういう滝沢良次郎がどこでどう細木数子と結びつくのか都内暴力団の元幹部が証言する。・・・続く

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釈尊のことば:31

                釈尊の言葉
        31:他人からの評価による快、不快は、しょせん幻

他人から批判されたり、マイナス評価を受けたりしても、
「どうせ自分なんて・・・・」と劣等感を刺激されて、
うろたえることのないように。

他人から褒(ほ)められたり、賞賛されたりしても,

「やっぱりわたしって能力が有るでしょう、やっとわかってくれた?」

とばかり、鼻持ちならぬ優越感を刺激されて傲慢(ごうまん)になることのないように。

他者からの評価により生じる快・不快など、脳内で生み出される幻に過ぎない。

ゆえに褒められたいというケチな欲望を取り除き、貶(けな)されるのは嫌だという怒りを取り除くこと。
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一日一言:涙

                 一日一言
                11月28日
                   涙

知識人とか言われる人達は、
庶民の喜び、悲しみ、涙、人情などを
冷笑する風潮が強い。

「涙」は根源的な命の噴出。

理屈も、学問も、イデオロギーも手出しの出来ないもの。
又、それゆえに、「いのち」を根源的に
ゆり動かす力を持っているもの。
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魔女・細木数子

                魔女・細木数子

              『10億円負債』もまたウソ


首藤 守は設備業者などの支払いに3ヶ月の約束手形を切っていたが、その手形が落ちず、債権者たちが『艶歌』に押し寄せていた。

この騒ぎで首藤は『銀座警察の息の掛かった詐欺師』と分かった

。細木は艶歌だけで2億円の負債を、更に首藤の口車に乗せられて買った軽井沢の別荘など、計10億円の負債を背負うことになったという。

(わたしが真相を明かそうものなら命はいくつあっても足りないでしょう。警察は警察の思惑、ヤクザはヤクザの思惑で動き、債権を取り立てたい工事会社なども半端ではない組織を使って圧力をかけて来ました。

詐欺師の首藤 守と意を通じ合った銀座警察の仕上げ屋グループに追い込みを駆けられ、債権者からは責め立てられ、暴力団には脅しをかけられた上、警察からも目を光らせて監視される状態が一年近くも続いたのです。

わたしは自宅を手放した後、青山の裏通りに四畳半と六畳の二間のアパートを借りて、身を隠していました)細木数子はこう記すが単なる詐欺事件としては不可解な事件である。

別のページでは二派の暴力団の争いに巻き込まれたとも、
『艶歌』を再開するため『暴力団幹部に会いに行った』とも記すから、彼女自身が未だに公表をはばかる『特別の理由』があったのかも知れない。

首藤こと佐藤を知る前出の金融業者は、事実は違うと断言する。

『10億円近くの負債なんて、細木数子のデタラメ。1971年・昭和46年当時、どこの世界に10億って金が転がっていたんです?

彼女の借金なんて1億円だって怪しい。首藤と彼女は金でズブズブに成るくらいだから出来てたんだろうが、要するに、ケチな男に騙されて、その程度の金額(数千万)で細木数子が打ちのめされたってだけの話。

それに青山の住まいはアパートではなく一軒家だったんじゃないか。確かあそこは銀座の渋川正一さん(前出)がお世話して細木数子と一緒に住んでいたと思う』

どうやら10億円の負債は細木が『話しを劇的にするための誇張』らしい。細木数子は転んでもタダでは起きない。

こうした苦境の中で1971年33歳の細木は、歴代首相の指南役であった易学者・安岡正篤(まさひろ=1898~1983年)の『易と人生哲学』をページが擦り切れるまで繰り返し読んだ、としている。

安岡は後に細木にとって特別な『師』となる。

要するに細木は。『安岡正篤が占い師細木の原点だ』と言いたい訳だが、彼女ともあろう女傑が底の割れやすいウソをつくものである。

安岡が近畿日本鉄道の要請に応じ、幹部社員に『易と人生哲学』を講じたのは、1977年・昭和52年5月から1979年・昭和54年1月までであり、同名の書物として竹井出版から最初に刊行されるのは『1979年・昭和54年』である。

従って1971~1972年ころ、細木が首藤に騙されたころ『まだこの世に出ていない本』が細木数子に読める筈がないのである。“細木のウソといい加減さを物語るもの”である。

      だが、ここで細木にホワイトナイトが現れる。

小金井一家八代目総長・堀尾昌志(ニ率会=にびきかい・会長代行)というヤクザが『艶歌』の客になるのだ。

堀尾は背広のエリに『○に二本線のバッジ』(ニ率会の代紋)をつけていたため細木は最初傘の商売でもしているのかと思い、堀尾は下駄屋のマークだ、と答えたという。・・・続く


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