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何か変だぞ!

昭和35年5月24日朝7時頃家の前の北上川を何気なく見るとこれまで見たことが無いほどの速さで水が引いていき、川底が見える。そうかと思えば今度は速い流れで逆流し水カサが増してくる。3分位の間隔でそんなことが続いていたところへ、石巻市祝田浜から近所に嫁いで来た「宮本つるみ」さんという女性(私の親友
で中学までの同級生・宮本宣夫君の母)が『これは津波じゃないかな?』と言う。

津波というものを体験していない私は、それはどんな意味を持つのか解らなかったものの、何か恐ろしい雰囲気を感じ取っていた。川辺には三人ぐらいしかいなったが、誰かが大声で「あれは何だ!!」と叫んだ。川底が見えて殆ど水の無かった下流から物凄い水の壁が両岸一杯の幅で唸りを上げながら上流に土手の高さすれすれで迫ってくる。川辺りに建っている別棟に次兄が寝ていたので『津波が来たから逃げないと駄目だ』と言って兄を起こし、それから一人で50メートル程走って小高い山へ駆け登った。

ジャン、ジャン、ジャン、ジャンと半鐘の早鐘が鳴る。津波の第一波が来てどんどん川の上流に駆け上がり、油の入ったドラム缶、船の残骸,あらゆるゴミ等々、を巻き込んで運び、水はこげ茶色で不気味に渦を巻いていた。第二波、第三波と上流へ向かって押し波、下流へ向かって引き波と一日中繰り返えされたのだった。

殆どの学校は臨時休校となり、この津波は南米のチリで起こった大地震によって発生したものである、とニュースで知ったのは午後になってからだった。消防団、警察、など一日中、警戒に当たり、我が家は各方面に炊き出しをおこなった。長兄が魚の仕入れに北上川の下流部にある魚市場に行っており、非常に心配したが、買い付けた魚の一部を流されはしたものの、無事にオート三輪車で帰宅したのは昼近かった。

この津波による被害は塩釜、石巻、女川、志津川、気仙沼、大船渡などの地域に甚大な被害を与え死者は全国で140名を超え、大船渡だけでも56名に上った。波高は日本で6メートル、ハワイで10メートル、発生源のチリ沿岸部では20メートルだったという。自然災害の恐ろしさをまざまざと見せ付けられるに及んで、我々人間は万物の霊長などとはいうけれど「自然への畏敬の念と謙虚さ」を持たねば成らないと真剣に思い知らされた一日だった。

あの日から48年、今地球は飽くなき人間の経済活動で温暖化の現象を招き、確実に病み始まり、異常気象を引き起こして、かつて考えもしなかった悲劇の現実を目のあたりにし始めた。

全地球人が生存を懸けてこの星、地球を護らないと、未来は取り返しのつかない、本当の闇になってしまう。
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真夏の半オーバー

スイカ騒動の名誉挽回策に考え付いたのが店頭客の売り上げ倍増作戦だった。両手に荷物を一杯持った客が「これ以上に荷物が増えたらどうしよう!?」と買おうか、買うまいか迷っていると見るや、サッと駆け寄って荷物を預かり、「車で送りますからどうぞ!」と言う。「あらそう、悪いわねー」と言っていろいろと品数を買ってくださる。

買うか買わぬか客任せ、では駄目なのだ。更に一度家の場所が解れば、電話だけの注文でどんどん配達できる。これで助かるのが客なのだ。『これどうぞ食べてください』帰りに頂戴するチョコレート。お客様のこちらに対する感謝の気持ちだ!「ありがとうございます」

頂いたチョコレ-トは奥様に報告の後、店の皆に配る。原価が安いポテトサラダを買う客には一割づつおまけする。一人で買いに来ていた客は、いつの間にか隣近所の奥様達を連れて買いに来て下さる。「ありがたい、ありがたい。」誰の目にも客足と売り上げの増加は明らかだった。ところが、私が配達中に店頭に来た客が私の姿がないと帰って行く例が出てきた。

社長さんにお願いした。『私が居なくても多少のものはサービスして固定客につなげてください。私の客ではなく、「佐藤精肉店の客」でないと意味がありません。私は間もなく石巻に帰ります。このことは店員の皆さんに徹底してください。』と生意気な事を言っていた。やがて夏休みが終わり、一ヶ月の手伝いが終わった。

『ご苦労様。たけちゃんさえ良かったら来年卒業後当社に来てくれないか?』と言われたが、社長さんのその言葉が一か月バイトの私に対する通信簿だったと思う。奥様から五千円入りの茶封筒を渡された。固辞したがどうしても受け取ってくれと言われ、ありがたく頂いた。・・・仙石線で石巻へ帰り、両親に三百円のお菓子を買い、「暑い盛りの今、買い物をして得なのは何か」を考えたら『冬に着る半オーバー』だった。

一六銀行(質屋)から二千円で買った(洋服店で買うと新品で冬季に5000円位の品)。タクシーで帰宅し、残りの二千五百円は貯金に廻した.真夏の半オーバーを見て両親は苦笑していた。昭和37年8月高校生最後の夏休みが終わった。
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人間ねずみ

私の三番目の兄から「どうしても手伝って欲しい」と頼まれ、仙台市鉄砲町の佐藤精肉店に住み込みで手伝いに行く事になった。昭和37年7月、石巻高等学校三年生の夏休みの事である。進学を目指す者達にとっては受験の為の最後の追い込み時期であったが、私の場合、この時点では早稲田の文科系を受けるつもりで居たので、気持ちの上ではまだ余裕があった。

この精肉店は近隣はもとより、仙台駅前飲食街。国分町飲食街、デパートなどへの出店もしており卸売業も兼ねていたので、かなり繁盛していた。食事は三食とも、経営者の家族と同じ部屋で一緒に摂る決まりだった。ハシゴを昇って鴨居の上の畳一枚分くらいの空間を寝床と居場所にあてがわれ、下手に動くと頭が天井にぶつかるので静かに過ごした。

私に与えられた仕事は、午前中はコロッケとメンチカツの製造。当然ながら、店頭に来たお客様の相手もする。午後は昼迄の注文の配達、夕方は、午後から夕方にかけての注文の配達、6時半から7時まで後片付け、7時30分から夕食。8時から9時までに入浴する。余程の事が無い限り、この手順で一日が終わる。

私は兄の顔が立つように、一生懸命に働いた。こうして半月ほど経ったある日、なぜか普段よりも注文が多く、急ぎの配達等に追いまくられ、昼食抜きで飛び回り、奥様に『食事を摂るように』と言われたのを変にやせ我慢して働き続けた。午後三時頃、腹が減って、腹が減って、死んでしまいそうな気がしてきた。「何か食わなきゃ死んじゃうぞ」ともう一人の自分が盛んに言っている。夢中で肉の貯蔵庫に入った。『有った、あった!』真っ二つに割られたスイカの片側が赤い切断面を上に向けて置かれていた。

奥様が夕食のデザートに用意していたのだろう,ぐらいの事は容易に想像出来たが「後で買って来て戻して置けば良い」と、勝手に決め、スイカの真ん中に数回手を突っ込み、白衣に赤い汁が付かないよう気をつけながらも夢中で口に運んだ。八月の上旬、晴れて天気も良く、街中のビア・ガーデンも大盛況、串に刺したホルモン類も大量の注文に追われ通しだった。当然ながら配達も多かった。

「さーさ、みんな夕飯にするよ」奥様の一声で皆な揃っての夕飯を摂った。夜の8時少し前、「たけちゃん。冷蔵庫からスイカを持って来ておくれ」その頃の私は「武喜・・たけよし・・」で、店では「たけちゃん」と呼ばれていた。・・・「しまった!なんたる不覚!」スイカの穴埋めをスッカリ忘れてしまっていた。

「仕方がない、うんと怒られよう」そう思いながらもスイカを皆んなの前に持って来た私はテーブルに乗ったまな板の上に私が食して空けた穴を隠すように裏返しに伏せて置いた「何だそのおき方は。棚においてあったように置きなおしなさい!」と奥様の声、思い切って又半回転させた。中がえぐられて大きな穴が・・・「あらららー!!、何となんと、うちに『人間ねずみ』がいるな!」

『申し訳ありません。午後三時頃あまりにも腹が減ったので手をつけました。明るいうちに代わりを買って来る積りでしたがすっかり忘れていました。ごめんなさい。』とお詫びし『これから直ぐ買ってきます』と言って立ち上がったが、「いいから座れ!。あんたね、腹が減ったらいつでも言わなきゃ駄目だよ。この暑いのに倒れてしまうだろう。今、あそこの八百屋に電話するから取りに行っておくれ。」と諭された。・・・

昼間こっそり開けた「スイカの穴」が、夜にはすっかりバレて、本当に「穴があったら入りたい」思いだった。これからの半月間で、どう名誉挽回を図るか?このままでは終われない!あれこれ考えているうちに、疲れてすっかり寝入ってしまった。(「真夏の半オーバー」へ続く)
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政治の貧困

平成20年3月23日刃物を持った若い男に首を刺されて土浦市の山上高広さん〔27歳〕が亡くなってしまった。姓名の画数の組み合わせは〔3・3・10・15・・広は廣で15画〕の完全大吉名を構成している。
運気の強さ100点の彼が何故このような目に遭うのかを考えますと、「親の運気の影響を受けることに他ならない」と思考するのが妥当であります。

それはどういう事なのかと言いますと、高弘さんのご両親に逆難の運(子を亡くす。子に先立たれる運)が有ると考える訳です。即ち、2・4・9・10・12・14・19・20・という大凶数が姓(天格)を除いた部位に存在して、この様な悲劇を誘発するという事に成るのです。

高弘さんの父は「山上博明」.母は「山上光子」さんであるとその後のニュースで報じられておりましたが矢張り想像していた通り、父親には(博明・12と8で20画)。母親には(上と光・3と6で9画。光と子・6と3で9画)この両親の子を亡くす凶悪の運気が高弘さんの善運を凌駕してしまったと解釈するわけです。

先祖から親へ、親から子へ、子から孫へ「縦の流れで伝わる因縁」の典型的な例がたまたまこの事件に現れたものと解釈出来ます。それともうひとつの特異な例は、この事件を起こした犯人の金川真大も≪8・3・10・3≫の組み合わせを持つ完全大吉名者であるということ。

この場合も、両親と三人の兄弟、姉妹にも2・4・9・10・12・14・19・20等の凶画数があると思われ、金川真大という姓名画数のもたらす「後天の運気」を上回る「先天の運気」に強く支配されてしまっている。解りやすくいえば、彼の持つ脳に異常の要素を持ち、凶暴性を併有する人物を家族に抱える家庭のありようは、毎日毎日が地獄の思いの連続となる。

おそらく金川家もそのような地獄絵の様相を呈していたに違いない。彼は彼の存在に困り果てた家族に段々距離を置かれて次第に恨みの感情を持ち、数重なるトラブルの後、今回その家族をも殺そうとしたと思われる。
あらかじめ気配を察して家族が家を空けていたかは不明だが「何かが起きそう」との捉え方があったのだと思う。留守で凶災を免れたのである。山上家の皆さんは勿論の事、降って沸いた大きな災難であり、被害者として同情に余りあるが、犯人金川真大の家族もまた別な意味での大きな被害者なのである。

脳神経を主とする異常者に対する国家の管理が大分前から急がれているが、真面目に取り組む政治家がいまだに見当たらない。したがってこの種の犯罪は今後も増えて行く一方だ。見識ある政治家の奮起と行動を待つ!!
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人を見る目

昭和39年6月頃だったと思うが朝に下宿を出る前、たまたま学生服のポケットの中身をよく確認せずにカチャカチャという音だけをきいて『今日の昼飯代は大丈夫』と勝手判断し、電車に飛び乗って登校した。

福島県喜多方市出身の友人「小野部長吉」君に昼飯代を貸してくれるように頼まれ百円貸したのである。自分も昼飯は友人と一緒に済ませ、午後の体育必修科目(空手道)に出て賢明に体を動かし午後三時頃に下校した。小田急線、梅が丘まで歩き、上り各駅停車の新宿行き に乗ったところ腹がグウグウ と鳴りだした。

空腹のままでは乗り物酔いを起こす心配もあり、とても下宿の有る十条までは持たないと思った。情けないが、下北沢で降り、ラーメンを食べて帰ろうと思った。念のため学生服のポケットの位置を外側から叩いてみた。
「カチャ」と鈍く小さな音がする。ポケットへ手を入れて硬貨をつかんで取り出し掌を広げて見た。

「あーなんと、30円しかない!」。ラーメンを食う為にはあと20円か30円足りないのである。こうなったら質屋を探すしかない!小田急線の線路を新宿へ向かって右手に見ながら2、3分ほどフラフラと歩いていくと丁字路に行き当たり、『小島』だったか『小沢』だったかどうしても思い出せないが、頭に「小」の字が付いている二文字の姓の質屋に行き当たった。

ガラス戸をあけて、中ヘ入った。『ごめんください』眼鏡をかけた26、7歳とおもわれる痩せて神経質そうな男が出てきて「なんでしょうか?」と冷たい感じで言う。『ソコの国士舘の学生です。明日持ってきますから、この腕時計で1000円貸してくださいませんか?』と言いながら左手から「祖父の形見の大事な」腕時計を外しその御仁に渡した。

私から受け取るとちょっと見ただけで「これでは貸せません!」『何故ですか?』と聞くと「これは価値がありません」という。私にとっては宝物だ。相手は私が三ヶ月返金しないと決め込んで話をしている。無礼ではないか?『では時計に学生証を付けますからそれで貸してください。』「それでも貸せない」と言う。

その時、奥から55、6歳の父親らしい、やはりやせて、更に神経質そうな人が出てきて、若い御仁から私の時計を受け取り、手にすると「これは使い物になりませんねえ」と言う。『時計と学生証(これが無いと、校舎に入れない)、それに運転免許証をつけますからそれで貸してください』と話し、更に500円に減額して頼み込んだ。それでも駄目だと言うのである。

私の住んでいる十条の質屋では運転免許証だけでも5,000円くらいは喜んで貸してくれる。『それでは品物を一切引っ込めます。私という人間に明日まで500円か1,000円を貸してくれませんか?』と頼んだがやはり駄目だった。

『あなた方は品物を見る目はどうか知らないが、人を見る目は持っていないな!!質屋はいったい何の為にあるんだ!!』と二人に言い残し、外へ出てやっと小さな石ころを拾い、あんまり悔しいから看板目掛けて投げつけようと思ったが、何と金網で看板もガラス戸のガラスもすっかりガードされていた。

以前誰かに割られた事があるのだろう。10分以上のやり取りで、更に体力を使い、辛うじて歩ける状態だったが、つぎに小田急線を跨ぎ新宿へ向かって左手に線路を見る位置に出た。途端に〔『質佐藤』〕という二階建ての屋根の上に取り付けられた大きな扇形のネオン入りの看板が目に飛び込んできた。

何故か『地獄に仏だ』と瞬間に思った。「薄情な質屋」と100メートルほどしか離れていない。そこへ『助けてくださーい』と入って行った。「おいおい面白い学生さんが入ってきたぞー」と芦屋雁之助によく似た40歳くらいの主人と思われる人がニコニコ笑いながら奥に向かって声をかけると、三歳くらいの男の子が出てきて「おじちゃん」と私を見てニコニコと笑っている。

「長い間商売しているが、『助けてくれ』と言いながらここへ入って来た人は初めてだよ。どうしたんですか?」『腹が減って死にそうです。ラーメンを食ってから下宿の十条まで帰りたいんです。どうか明日まで500円貸してください。』「あのね学生さん。うちも商売なものですから最低でも1,000円は借りてくれませんか?担保はいりません」と言う。

先ほどの〔薄情な質屋〕とは全て正反対の店だったのである。無担保で正式に「1,000円借りてくれるように頼まれ」、喜んでお借りした。
ご主人の言葉にちょっと訛りを感じたので『東北ですか?』と聞いたところ福島の出身だという。

福島出身の友人を助けようと貸した金がこの話の出発点だったが、最終的には福島出身の質屋さんに助けて頂いた事のめぐり合わせは不思議としか言いようが無いのである。

下宿に帰って叔母に今日のいきさつを話し『お礼に旭化成の旭味』の袋詰めにされていないもの、〔叔母は加工所を経営していて旭化成の下請けを荷っていた〕一斗缶をひとつ(約20キログラム入り小売なら相当な金額になる。)貰い、これを翌日、下北沢の佐藤質店へお礼に持参する事にした。

私は意気に感じると無鉄砲に突っ走る悪い癖があるが私の叔母はかなり度胸の据わった善人だった。

翌朝、シーツでくるんだ一斗缶を横にして帯で背負い、人を怪我させないようにラッシュ時間を避け、赤羽線、山手線、小田急線と立ったまま乗り継いで、下北沢へ10時半頃に到着した。駅前でケーキを1,000円分買い求め、佐藤質店へたどり着いた。

ご主人は驚いて、「貸した1,000円と利息の90円だけは頂くがあとの物は受け取れない、第一それだけの量はとても使い切れない」と言う。私は『親戚や知り合いへ、袋に入れて配ればいいでしょう!三歳の男児にケーキを、背中の1斗缶の〔旭味〕は助けてもらった事への御礼だから』と説明してやっと受け取って頂いた。

昭和53年春、用向きがあって国士館を訪ね、帰りに下北沢へ寄り、両質店を訪ねた折、『薄情な質店』は跡形も無く消えており、佐藤質店は繁盛していたのである。・・・

嫌な事を早く忘れようとしたせいか、貸さなかった質屋の姓は忘れてしまい、貸してくれた質店の姓は一生忘れないのは道理というものであろう。
それにしても、たった一つ、「ポケットの中身」という「確認の手抜かり」が後々自身に大きく影響するものである事をイヤというほど思い知らされた一件である。


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親の意見と

昭和38年4月のある日の訓話「親の長い人生経験から諸君に諸君を思うが為のいろいろな意見や注意、心構え的な話をすると思うが、そういう時は黙って静かに聞くのが礼儀作法というものだ。『親の意見となすびの花は、千にひとつも無駄が無い』といって、経験と体験から得た貴重な意見には真理と魂がこもっているものが多い。この事はよく心得おくように。

それから、『親孝行の第一は親に心配させぬ事!親を安心させる事じゃ!』したがって月に二回は親元にハガキなり手紙を書いて近況報告をすること。書くことが無ければただ『元気で居ます』それだけでいい。・・・

それから諸君も掲示板を見て承知と思うがまだ一ヶ月もしないうちに、校則違反の喫煙の科(とが)で数十名を退学処分にした。諸君はそのような過ちを犯すことのないように十分に心がけること!さあー元気を出してがんばろう!本日はこれまでとする。」

国士舘・舘歌
〔至心の焔〕
一、霧分け昇る陽を仰ぎ (きりわけのぼる・ひをあおぎ)
梢に高き月を浴び (こづえにたかき・つきをあび )
皇国に殉す大丈夫の (みくににゆるす・ますらおの )
ここ武蔵野の国士舘 (ここむさしのの・こくしかん )

二、松陰の祠に節を磨し(しょういんのしに・せつをまし)
豪徳の鐘気を澄ます(ごうとくのかね・きをすます )
朝な夕なにつく呼吸は (あさなゆうなに・つくいきは )
富嶽颪の 天の風 (ふがくおろしの・てんのかぜ )

三、区々現身の粗薪に (くくうつしみの・あらまきに)
大覚の火を打ち点し (だいかくのひを・うちともし)
三世十方焼き尽くす (さんせいじゅっぽう・やきつくす)
至心の焔あふらばや (ししんのほのお・あうらばや)
至心の焔あふらばや

柴田徳次郎舘長の訓話は、学生の[君が代の斉唱]で始まり「舘歌の斉唱」で終わる。
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仏の道

東京の片野さん。「たまには仏教に関する何かを」というお話がありましたが、今日はお彼岸でもあり、仏教という大げさな事ではなく,凡人としての立場から、私なりの思うところを綴って見ます。いろいろな人に会って悩み事の相談を受けていると「仏教とは何ぞや?」というような質問はまず出てきません。

・病気のこと・商売の事・家庭不和の事・などを中心とした身に振りかかった、差し迫った問題で相談者の頭の中は精一杯の状況だと思うのです。極端な場合、差し出されたお茶の味や、湯飲み茶碗の模様など『上の空』の心境だと思われるケースがほとんどだと思うのです。

撰名の後、物事がよくなって落ち着いてくると、世間話や、親戚の話、一般的な世の中の話題などが出てきて、その人の運気改善がはっきりと現れてくると神や仏の話題がぽつぽつと出てきます。

「先生は仏の道をどう考えますか?」『私はあんまり深く考えない事にしています。・仏の道は人の道・と勝手に思っています。たとえば、奥様が今晩のおかずをあれこれ考え、掃除や家事に汗を流した後、買い物に出かけ、あれこれ考えながら食材を買い込みます。家に帰って他の家事と平行しながら料理の下ごしらえをし、ご主人の帰宅時間に合わせて料理を完成させます。

帰ってきたご主人は何時も何時も黙ったまま、さっさと食事を済ませ、ご馳走様も言わず、台所、食堂を立って自分の部屋にこもってしまう。
このような状況があるとすれば、そのご主人は、・仏の道に背いた行動・をとっていると解釈するわけです。

この場合、奥様の立場であれば、誰でも腹が立ち、情けなくもなってきます。こんな事が繰り返されれば夫婦喧嘩を通り越して、家庭破壊につながります。先述の様に、・仏の道は人の道・ならば、このご主人は、奥様の労をねぎらい、まず、「いただきます」。から始まって「美味しいよ。少し辛かったかな。今度こうするといいね」などと会話をしながら、感謝の思いを込めて、楽しくいただく。

 勿論、終わったら「ご馳走様」と奥様に言う。出来たら自分の使った食器を洗い場に運ぶ。・・それが仏の道つまりは人の道・・と言う事だと思いますよ』
要するに、私たちの日常の中に仏の道があるのだと解釈しています

。親が子を大事に育てる、これ仏の道。子は親を大切にする、これも仏の道。困っている人を助ける。旅先でもごみを捨てない。公共の物を大切に扱う 。政治家は国民のために良い政治を本気で行う。事業家は金儲けのために偽装表示をしない。徳に叶う商いをする。
 
数え上げればきりが無いほど、仏の道は私たちの生活の中にあるのだと思います。一人一人がいま自分の行なおうとしている事が 「仏の道、人の道に照らして、どうなのか?」を考えて行動するなら、世の中はどんどん良く成って行くのですがね。
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前味、本味、後味。

3月19日11時30分に石巻を発ち、三陸道、仙台東道路、南道路を通って山田インターで降り、秋保の「木の家」へ。
 相変わらず閑静な和風レストランで、ガラス越しの30メートル程下方に名取川の小さな流れを望む風情はそれだけで有料の価値があるのだが、このレストランでは無料で眺めさせていただけるので誠にありがたい。

「五目うどん」を頂いたが余程つゆの味を研究したと思われ、これまた最高の旨さであった。食後の飲み物サービスなどもなかなかの心配りで大満足した後、棟続きの店で食卓の小物を買い、二口の奥へ向かって車を走らせ、秋保大滝を観た後茶屋で甘酒を注文したが、余りにも甘すぎて飲むのを止めてしまった。
 
更に奥へ向かい、野尻という地で「木と漆の工房、ウッディ・ポエム」という工房で主人と名刺を交換、家内のお気に入りを一点購入し、塗り師である「奥様にご挨拶したい」と話したところ、『今日は妻の誕生日で東京の兄弟姉妹のお祝いを受けるため上京したので留守です』と言う。又、『妻は美恵子が本名だが、画数が悪いので、紀子と直してもらって使っている』と言う。

私から見れば、鈴木美恵子と紀子どちらも悪い。ご主人の「鈴木 亨」は絶対的短命運の大凶名である。初対面の人にソコまで言う事も無いので黙っていたが二人とも長生き出来ない筈だ。ただ奥様は 昭和22年3月19日生まれ、生まれ年こそ違うが月日は同じ、これこそ奇遇である。

午後三時を過ぎたので再会を約し、Uターンして今日の目的地である『ホテル瑞鳳』へと向かう。正面玄関ヘ着くや、すかさず若い男性が車の脇に来て、『予約のお客様でしょうか?』「はい、そうです」『では向こう側の駐車場の空いてる所へ御駐めください』ときちんと対応してくれる。
 
ここはいつきても気分が良い。フロントの前ではかなり混んでいたが、若い女性が空きそうな窓口へ笑顔でサッと誘導してくれる。本当に感じが良くて爽やかな気分になる。
『前味合格!』部屋は1111号を用意された。フロント前の椅子で休んでいたところ、見違えるように元気そうに成った川地ご夫妻がわざわざ部屋へご案内するとの事でおいで頂いた。「やー先生、お蔭様ですっかり元気になりました。妻もこのとおりです。」奥様も〔川地アユミ〕の撰名をつかうことで体調もすこぶるいいと言う事だった。

「今こうして撰名を使っています。」と出された名刺には〔ホテル瑞鳳取締役・総支配人代理・川地由人〕とあった。10分位話した後、恐縮ながら部屋へ案内いただいた。
5時30分からのバイキングで夕食と成ったが、どの料理も見た目の豪華さ、味付け、摂り良さ、運びよさ、卓と椅子の絢爛豪華さ、室内全体の立派さ、などなどどれをとっても、王侯貴族の仲間入りしたかのような気にさせられる全体の気配り、従業員の清潔感と醸し出す温かい雰囲気.『本味合格!!』。

驚いた事に誕生日のお祝いということで川地ご夫妻が私共のテーブルへ参り、私宛の手紙を添えた花束を頂戴した。更に記念写真のプレゼントを頂戴し恐縮の連続だった。翌朝、朝食後、みやげ物を買い、広く天井の高い豪華なラウンジで超豪華なテーブルと西欧ムード溢れる椅子でコーヒーを飲み、10時にチエックアウトしたが、最後まで心のこもったお見送りを受け、『後味のよさ抜群』の感謝の思いと近いうちに又来ようとの念を強くしながら、帰途に着いた。

経費節約にこだわる今日、ここの瑞鳳のような『前味、本味、後味』の三拍子揃ったホテルは少ない。
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やっと36歳!

昭和20年3月19日生まれの私は今日で63歳になります。随分多くの人達に支えられ,助けられながらその恩に報いようと頑張ってきた感があります。ところでこれまでに、自分と同じ生年月日の人との出逢いが無いと思っていたのですが、たまたま10年位前に一家三名で撰名なさった仙台市宮城野区の伊藤嘉努子〔戸籍名・伊藤勝子・いとう、かつこ〕様が自分と同一の生年月日であることがつい最近になって解りました。

この場を借りて「伊藤嘉努子様。改めてお誕生日おめでとうございます!。」さて、伊藤嘉努子様、この63歳という年齢をどう感じておられますか?。私は「まだやっと63か?」と思うようにしてギアを前進に入れています。「もう63にも成ったのか!」では前進の力が湧いてこないはずです。ボツボツ「社会人としての見習い期間」も終わりに近づき、「これからが本当の社会人」として充実した活動をしようと思っております。

基本的に家内もそのように考えて居るようです。先日(3月4日)、石巻市の60歳以上の人を対象にした陶芸の講習会に家内が参加したいと「みなと荘」に申し込みに行きましたが、受付の窓口で「あのですね、申し訳ありませんが60歳以上じゃないと資格外になるんですが」、といわれ、家内は「60過ぎてますから資格者です」と言ったところ二人居た係りの女性が二人とも『えーっ!!』と飛び上がるほどビックリしたそうだ。

続けて「去年の10月で63歳です。」と言ったら『うっそーっ!!』と驚いていたそうですが、気持ちを若く持って、明るく笑う生活をしていれば周りから若く見えるのかも知れません。また、私は還暦を過ぎてから数字を取り換えて自分に言い聞かせて居りますから今年は三年目なので『やっと36歳!』ということに成ります。35歳の息子よりもようやく1歳だけ年長に成れた訳です。

今日は一昨年撰名された川地営業担当取締役ご夫妻の働いておられる秋保の『ホテル瑞鳳』へ、家内のおかげで誕生日を迎えられた事への感謝の気持ちをあらわしに行って来ます。
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舘長訓話

週に一度、国士舘・舘長、柴田徳次郎先生の訓話を正座して聴く。大抵は二時間に及ぶが、学生は訓話の要点を聴きとって纏め,それについての自分の意見を書く。其れを『所感文』と称し(わら半紙1枚)二日以内に担当の学生監に提出する。これを「実践倫理」科目としてこの成績が悪いと、他の学科目がいかに高得点を挙げても「落第」させられた.以下は入学式翌日の訓話である、『諸君、今日はこの国士舘の生まれたいきさつを説明する。・・・そういうわけで国を興し、人を救う即ち「興国救人」を実践する人物の養成を目的に、国家主義者,篤志家、実業家、世間では右翼の源流などと言っているが、頭山 満。三井の大番頭、後の衆議院議員で立憲政友会副総裁の、野田卯太郎。日本資本主義の父、渋沢栄一。言論家、徳富蘇峰(徳富蘆花の兄)自由党総裁,緒方竹虎。陸軍中将,三浦梧桜。愛国の政治家、中野正剛などなど、多くの先生方の賛助を受けて大正6年〔1917年〕東京青山に・国士舘義塾・として創設されたものである。本学は文武両道の研鑽に基づき・心・技・体の健康な精神と体力を身に付けた「国士」を養成するために存在する.四年間は短い故「死んでからゆっくり寝よう風邪引こう、生きてるうちは学びに学べ!」という気で勉学にいそしんで欲しい。「知識の教と人間性を育てる育」で教育じゃ。この国士舘は諸君に真の教育を施す。それから本日全員に(・タバコの害・)という本を渡すゆえ、読後の所感文を担当学生監に出すように。諸君の親御さんはみな額に汗して学資を送ってくださる。その大変さも解って居るから本学は寄付金も取らん。それをじゃ、酒やタバコなど害のある物に浪費するなどもってのほか!従って学舎の内外を問わず、酒もタバコも禁止にする。それから学生運動も一切禁止とする。この学則を破る者は即退学処分にする。この方針を異とする者や,ついて行けないと思う者は今日中に申し出でせよ。納入金は全額返すからよそへ移れば良い。わしは銀行じゃ、諸君は預金、四年経ったら預金者である諸君の親御さんに国を背負って立つ立派な人物に育ててお返ししなきゃならん。これが利息じゃ。』・・・とに角ここは学問的な優秀さだけでは駄目なのだ。実践(じっせん)を重んじる頭山  満(とうやま・みつる)翁の精神に貫かれた「筋金入りの人間養成所」なのだと腹をくくった。
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