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心に染み込んだ「東 八郎」の言葉

 

心に染(し)み込んだ「東 八郎」の言葉

 初めの、いかりや長介の付け人時代、志村の困窮ぶりは半端じゃなかったという。

 貧乏も貧乏、本当に食べるものにも事欠く始末だった。他のメンバーが楽屋でラーメンを食べているときでも、付き人の志村はラーメンを注文する金もなかったので、一番安い「ライスだけ」を注文し、それを他のメンバーが食べ残したラーメンのスープに入れて食べていた。

 ある時、志村が例によって一番安いライスだけを注文し、となりの席でラーメンを食べていた加藤 茶がスープを残してくれるのをじっと待っていると、加藤はその日、スープまで残さずに平らげてしまった。

 志村は思わず「加藤さん!このライスの立場はどうなるんですか!!」と激怒したという。加藤 茶はこのときのことを今でも忘れずに覚えているという。

 ☆バカ殿時代に共演していた先輩コメディアンの

東 八郎に「東さんはいい歳になっても何故“馬鹿な演技”が出来るのでしょうか?」と尋ねた時、東から「芸人が、本当は自分は利口な人間なんだと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまいだよ」と言われた。

 志村は東 八郎のこの言葉に深い感銘を受け、東八郎にずっと敬意の念を抱いていたと何度も発言している。

 ☆志村が中学生の頃、家の前で交通事故に遭った

父は、後遺症による認識障害が出て、志村がドリフターズに入ることが決まっても別段反対するふうでもなかったという。この父は前述したが、志村が24歳で正式メンバーになる直前に亡くなってしまった。

 しかし、お笑い芸人を目指したきっかけが厳格で気難しい父の存在だったことから、「憲司」の「憲」から“けん”を芸名に選んだことで彼なりに父へのせめてもの親孝行を果たしたということなのだろう。

 母親の和子さんは踊りや芸事が好きで、志村は「自分は母親の性格を受け継いでいるのかも知れない」と語っている。

 ☆いま、志村は送迎用のロールスロイスを所有しているが、運転免許を持たない志村が自分で運転するはずがなく、多分志村のマネージャーが運転しているのであろう。

 ☆また日本中央競馬会の馬主として本名の「志村康徳」で登録している。

 アイ―ンベル

ケンエックス

ミツノアジ

トノノオナリ―・・・という馬を所有しているそうだ。

 20歳前後でラーメンを食えなかったほど極貧にあえいでいた男が、10年程のうちに爆笑王になって、専属運転手を雇い、ロールスロイスに乗り、中央競馬の馬主になり、一時期、150億円と噂されるほどの資産を所有するに至るのだから、花も嵐も、これぞ人生の不思議さであり面白いところでもある。 続く

 

 

 

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志村けんの始動

志村けんの始動

 図々しい付け人

 こうしていかりや長介の付き人になるが、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていたが、戻ってくるときは流石にいかりやの所へ行きづらかったので、加藤家に行って加藤 茶に頼みこみ、いかりやへ口添えしてもらったところ、「2度も弟子入りする奴は余ほどこの世界が好きなんだろう」といかりやは出戻りを認めてくれた。

 その後、志村は加藤 茶の付き人、兼加藤家の居候となった。

 志村康徳は運転免許を持っていないため、無名の付き人だったにもかかわらず、当時国民的人気者の加藤 茶が運転する車の助手席に「ふんぞり返ったまま」で帰宅。

 加藤を差し置いて加藤の母親に晩御飯を用意して貰ったり、加藤よりも先に風呂へ入る、などという、よく言えば「おおらか」、悪く言えば「図々しい」という“型破りぶり”を堂々と発揮していたのだから、並みの神経の持ち主でないことは確かだ。

 1974=昭和49年3月31日をもって荒井 注が脱退し、4月1日、志村康徳は正式にドリフターズのメンバーになった。志村はこれより少し前に亡くなった父親の憲司(けんじ)さんから、「けん」の名をとって芸名を「志村けん」としたのだそうだ。

 志村けん(7・7・・3・2)運気10点

 天格・志村   14画

人格・村け   10画大凶

地格・けん 5画大吉(基礎運大凶故、を含む)

外格・志ん    9画大凶

総格・志村けん 19画大凶

 ●成功運・天(四)―人(十)大凶:時に大成功者あるも、多くは乱離、困窮、急禍ありて苦しむ。

 ●基礎運・人(十)―地(五)大凶:表面安定なるごとくにしていつしか不安に巻き込まれる。急変の兆しが多い。

 ●三才の配置・天(四)―人(十)―地(五)大凶

[第一型準絶対的短命運]

脳溢血・心臓麻痺・急難・災害・自殺、その他すべて急変の死を招く可能性を大とする。

 ●人格(村け)10画大凶:家族との距離を経験し、他人との関係がうまくいかずに悩むことが多く、勤め人には不向きなタイプ。まれに目を見張る成功を収める人物が現れることもある。

 ●外格(志ん)9画大凶:芸能や芸術の関係など特殊な分野での交際が広がるが、孤独運故、あまり長続きしない。

 地格(けん)5画大吉を含む:金運、財運、に恵まれ行動力を生かして広範囲にわたって活躍し、周囲の理解を得ながら、いずれの地においても、リーダー的な地位に就くが、基礎運の凶兆を受けて、後年には要らざる損失、精神的な不安定を生ずる。

 ●総格(志村けん)19画大凶:中年以降の運気急変により、バブルのように、崩壊する暗示がある。家族との別離を免れず、離婚、遭難、病難などの厄に遭い、

ほとんど天寿を全うできない。

 ☆

荒井 注が辞めた時、いかりや長介は、自分や荒井注と同年代のメンバーの加入を検討していたと言うが

加藤 茶の 推薦により若手の志村が起用されたのだ。いかりや長介の決断、加藤 茶の温情により、今日の「志村けん」が存在することになる。続く

 

 

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康徳少年の夢

康徳少年の夢

 1950=昭和25年2月20日、東京都北多摩郡東村山町(現東京都東村山市)のある夫婦に3番目の男の子が誕生した。父親は憲司といい、母親は和子といった。

 父親は日ごろ徳川家康を崇敬していて、この3男に「徳」と「康」の字「徳康」を入れ替えて

康徳(やすのり)と命名したのだそうだ。

 父、憲司は戦前陸軍の軍人であり、戦後は小学の教師を務め、教頭まで勤め上げて退職した。

 軍人上がりの厳格さで家庭を厳しく運営し、家の中はいつも緊張感でピリピリしていたという。

 この厳格な父が康徳の小学生時代、当時は珍しかったテレビのお笑い番組で、漫才や落語を視聴していた時だけは、康徳少年の緊張感がほぐれ、父に対する嫌な気持ちを忘れることが出来たのだそうだ。

 「その時だけ頑固な父親が必死に笑いをこらえながらテレビを見ていたからだ」という。康徳少年はそうした体験から「お笑い芸人の世界」に強い憧れを抱くようになったのだそうだ。

 志村康徳(7・7・11・15)徳はで15。

[副運(志徳22大凶)、後運(志村康徳40大凶)成功運(天・四―人・八大凶)運気20点]

志村憲司(7・7・16・5)[副運(志司12大凶)運気30点]

 志村和子(7・7・8・3)[副運(志子10大凶)運気30点]

 家庭の事情から、公立の高校なら行ってもいいと言われた康徳は、東村山2中から東京都立久留米高等学校を目指し、同中学校から16人の受験者の中でただ一人合格を果たした。

 高校時代はサッカー部でゴールキーパーとして活躍していたそうだが、並行してコントなどもやり、目指したお笑い芸人への目標を忘れることなく、高校卒業間際ドリフターズの付け人になった。

 初めは由利 徹の弟子になろうと思ったが、次いでコント55号かドリフターズのどちらへ弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968=昭和43年2月、「いかりや長介」の家に直接押し掛けた。

 いかりやが夜中に帰ってくるまで、雪の降る中を12時間も待ち続けたという。こうして1週間後に弟子入りを認められ、ドリフターズ・いかりや長介の付き人になった。続く

 

 

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原子力ムラの闇・最終回・腐れ縁の自民党と原子力ムラ

原子力ムラの闇

第20・最終回

 腐れ縁の自民党と原子力ムラ

 ――当選したら酒10本を持って行った?

「当時はおおらかだったから。それが常識だった」

 ――候補者の出陣式に出るのに公用車を使った?

「選挙は半分仕事見たいなものだからね」

 「動燃俊青会」OBのB氏にも聞いた。

 ――集票の数字がかなり細かく出ているが?

「それは組織で働いているから出てくるよ。

業者がまとめていたものをもらっていたと思う。

 それを塚原さんの秘書に渡すんだよ」

 ――公務員に準ずる職員が、特定の候補者を応援するのはおかしくないか?

「昔は当たり前にやっていたんじゃないか」

なぜ動燃はここまで選挙に入れ込んできたのか。本誌が接触に成功した冒頭の動燃元最高幹部はしぶしぶ、その内情を明かした。

 「我々は国の研究機関であり、金脈は政治に握られている。組織の利益を考えれば、自民党に最大限の協力をするのはよいこと。政治家に一番効果があるのは選挙支援。だから票を集めもしたし、パ―ティ―券なども職員が個人でたくさん買っていたよ」

 こうした選挙工作について、東海第2原発の廃炉を訴える東海村の村上達也村長にファイルを見せると「いまも似たようなことはやっている」と語り、こう続けた。

 「脱原発の世論が盛り上がっている現在は『原発ムラ』の非常時。だからますます盛んに『工作』している。

体質は変わりませんよ。私の発言もすぐJAEAに筒抜けになり、監視されていると感じていた。まるで軍事警察国家ですよ」

 JAEAは本誌の取材にこう回答した。〈原子力機構においては、総務大臣からの『衆議院議員総選挙における国家公務員の服務規律の確保について』

 などを踏まえ、公職選挙法を遵守することは勿論、国民の疑惑を招くような行為をすることのないよう、徹底している。なお、旧動燃時代については現時点ではわからない〉

 また梶山弘志氏の事務所に当時のことを聞くと、「1993年当時のことであり、詳しく承知しておりません。有志の皆様が、自発的に応援してくれたのではないかと思います」とのことだった。

 額賀氏の事務所からは期限までに回答はなかった。昨年末の衆院選で政権に返り咲いた自民党は民主党の「原発ゼロ」方針を撤回し、「10年間でエネルギーのベストミックスを構築する」としている。

 だが、選挙を通じて「原子力ムラ」と蜜月の関係を築いてきた自民党に公正な判断など期待できるだろうか。

 原子力ムラは「国会の中枢まで」浸食していたのである。―完―

 

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原子力ムラの闇・第19回、選挙工作は「全国規模」

原子力ムラの闇

第19回

選挙工作は「全国規模」

 〈額賀福志郎代議士は、自由民主党代議士の中で原子力エネルギー利用推進を図る若手有力旗手として活躍されており、我々の立場をよく理解しておられます〉

 〈額賀福志郎代議士は、広く関係者の意見を傾聴することに意を注いでおり、我々の意向を理解した上でその政治的活動を遂行してくれるものと期待されます〉

 動燃は味方とみなした権力者には、露骨なまでにすり寄っていたのだ。資料を読むと、動燃の「組織ぐるみ選挙」に対する考え方がよくわかる。

 〈いわれない誤解を避ける配慮が必要であることなどの観点から、現在の所上記呼びかけを行う範囲から大洗い工学センターの組合員層は除外している〉

 〈当然のことながら、会員は有志から構成されており、

動燃の組織自体とは無関係のものとなっている〉

 当時社会党の候補者を推していた労組は除外し、動燃本体と無関係の「有志」の団体と主張する・・・こうしたロジックで「組織ぐるみ選挙」への批判を避けようとしたのだろう。

 だが幹部を割り振り、業者票を積み上げるといった露骨な「選挙協力」が記された内部資料を見る限り、こうした理屈は破たんしている。

 そもそも集票の途中経過などを示した資料には「東海事業所総務課」など明らかに部署名で作成されたものがある。

 「静山会」「俊青会」の二つの団体への管理職の振り分けについては、

 〈臨時部長会を開催し、原則管理部一任で仕切る〉という記述まであった。これが「組織ぐるみ」でなくて何なのだろうか。

 「組織ぐるみ選挙」を示す資料は、ほかにも無数にあった。東海村村議選や勝田市長選など地方自治体の選挙もあれば、前号までの舞台だった岡山県の人形峠事業所で数々の「工作」を手がけたX氏が関連したものもある。選挙の「工作」は全国で行われていたのだ。

 情報収集にも余念がない。国会議員と地元の県議、村議などの人間関係を表した「人脈図」もあり、

〈○○(文中は実名)村議は塚原陣営に移った模様?〉などというローカルな情報が書かれていると思えば、

 〈東京サミット後自民党若手(?)宮沢首相に退陣要求?〉などと中央政界の話も。まるで「選挙のプロ」だ。勤務時間外の余暇で作ったものとはとても思えない。 

 さて、これらの資料について当事者はどう語るのか。

「動燃・静山会」OBのA氏に聞いた。

――なぜ静山会を作った?

 「自民党の先生に当選してもらい、我々の研究を進める環境を作った方がいいと考えた。

 企業の側としては両方に勢力を分けて、どちらも応援している体制を見せないと、その後が大変だからね。」

 ――業者に名簿の提出を依頼したと資料にはあるが

 「なるべく協力して下さいということ。業者の総務が気を利かせてやってくれた。原子力に予算がつかないと業者も困る。持ちつ持たれつだった」・・・最終回へ続く

 

 

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原子力ムラの闇・第18回仕事が欲しければ・・・

原子力ムラの闇

第18回

 仕事が欲しければ・・・

 「安推協は、動燃から仕事をもらっている業者の集まり。原発関連からガソリンスタンド、書店まで、ここに名前がないと動燃では仕事ができない。契約高を書いているのは、企業への圧力のため。

 『仕事が欲しければ、言うことを聞け』という意味ですよ」(前出の動燃関係者)

 地元有数の大企業である動燃からの「協力要請を断れる業者があるだろうか。「国策会社」の地位を背景にした“強要”だ。〈関係企業在任者リスト〉と題した別の資料ではもっと露骨に、企業ごとの「票数」をカウントしていた。原発関連企業として有名な電気工事会社K社は「15票」、放射線管理で知られるA社は「3票」などと会社別に数字が積み重ねられ、合計として「1154」という数字が書かれている。

 「これは各企業の選挙区内の在住者がどれくらいいるかを調査したリスト。これを基に国政選挙の票を計算するわけです」(同前)

 投開票日の5日前の1993=平成5年7月13日に作成された〈衆院選状況報告(第3報)〉には,茨城1区の集票の途中経過が書かれている。

 〈額賀 職員218 業者1500計1718〉

 〈葉梨 職員57 業者908  計 965〉

 〈中山 職員31 業者821  計 852〉

 3人の合計3535票のうち、業者票は3229票。いかに業者票が重要で、実に細かく積み上げられていたかが分かる。

 額賀氏を支える謎の組織「志萌会」

資料を見ていくと、こんな記述がある。

〈職員については、上記選対が中心となり集票中である〉

 自民党候補者3人にそれぞれ、動燃内部で、「選挙対策委員会」を作っていたのである。葉梨、中山の両候補については「選対」の担当者として管理職の名前が記されているだけだが、額賀氏には「志萌会」という謎めいた組織名が書かれていた。

 前掲の茨城1区の集票途中経過を見ても、職員票、業者票ともに額賀氏が突出している。当時まだ40代だった額賀氏だが、動燃にとって特別な存在だった。

 《7月10日~7月11日志萌会電話作戦》と選挙期間中に電話を使った選挙運動をしていたことを示唆する記述まである。「志萌会」とは一体何なのか。

 〈志萌懇談会の発足について〉と題された1989=平成元年11月作成の書類に、そのヒントがあった。この書類、作成者は「T・N」とイニシャルで記されており、本誌が前号で報じた「K機関」と同様、“秘密組織”といった雰囲気である。

 

会の目的は額賀氏の「政治的活動」の支援だという。

書類は額賀氏への賛辞であふれていた。続く

 

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原子力ムラの闇・第17回

原子力ムラの闇

第17回

 社員を2分し「支援組織」。サクラも動員

 選挙運動は、動燃が内部に立ち上げた、二つの支援組織が中心となった。

 梶山静六陣営は「動燃・静山会」

塚原俊平陣営は「どうねん・俊青会」である。

 両会の名簿を見ると、副所長以下、東海事業所の幹部がほぼ同数に割り振られ、所属や内線番号が記載されていた。また総務課が作成した資料には、〈管理職員 梶・塚2分割〉という記述もあった。

 前出の動燃関係者がこう説明する「集めた票を配分して自民党候補を2人とも当選させるためです。幹部をはじめとしてヒラの職員まで2陣営に振り分けました」後援者の集会に職員らを“サクラ”として動員することも頻繁にあった。

 1993=平成5年の資料でも梶山氏、塚原氏の出陣式などに

〈動燃静山会 50名動員予定〉

〈動燃俊青会 50名動員予定〉・・・とある。それぞれの陣営について

 〈持参品 酒券(10本分)〉という記述もあった。

これは定番のようで、他の資料でも

〈当選祝い  酒10本〉などとある。

 酒券とは清酒券のことで、10枚で2万5千円相当になる。国の研究機関が堂々と「金券」を渡してもいいのだろうか。そのカネはどこから出ているのか。

 「カネの力」を背景に地元企業を動かす。

 「組織ぐるみ選挙」のもう一つの問題点は、地元企業まで巻き込んでいることだ。前掲の〈過去集票実績〉をもう一度よく見てもらいたいが、業者票は職員票の倍近い数字だ。

 水戸市などを中心とした中選挙区時代の茨城1区の資料を見ると、そのカラクリがよく分かる。

 動燃内ではこの選挙区を受け持ったのは、大洗町にある動燃大洗工学センターだ。

 1993=平成5年の衆院選,茨城1区からは3人の自民党候補が出馬した。後に財務大臣などを歴任し現在は派閥の領袖となった額賀福志郎衆院議員と葉梨信行氏(現在は政界引退)、中山利生氏(2004年に他界)である。

 この選挙区でも「組織ぐるみ選挙」を示す資料が多数、確認された。1993年7月1日作成の〈マル選・状況報告〉は、選挙戦の途中経過の報告だ。そこにこう書かれていた。

 〈取引業者については安推協、および調達課、工務課が中心となり、年間取引額500万円以上198社に協力要請中である〉

 大口の取引先を中心に、自民党候補への投票を呼び掛けていたのだ。

 ここにある「安推協」とは動燃の下で働く業者でつくる「安全推進協議会」のこと。資料の中には、50社以上の社名や連絡先が書かれた一覧表もあった。

 従業員に東海村在住者がいる企業のリストだという。

それぞれ契約高や、従業員数、動燃内に派遣している従業員の人数も記載されていた。 続く

 

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原子力ムラの闇・第16回

 

 

原子力ムラの闇

 第16回

所長が車で駆けつけ、“激励スピーチ”

 

これまで繰り返してきた通り、

動燃は国が出資する特殊法人で、その運営は税金で成り立っている。そんな「準国家機関」が、組織ぐるみで与党を応援していたことになる。

 元検事の郷原信郎弁護士が指摘する。「官公庁は勿論ですが、特殊法人等の公的団体も特定の政党や政治家の当選のために活動してはならない。公選法に触れる可能性があります」もっとも動燃側も違法性を自覚して、内部で検討していたフシがある。

 マル秘印が書かれた1987=昭和62年9月作成の「課題」と題された文書には〈企業ぐるみ選挙公選法違反の疑い〉との記述があった。違法行為の危険性をも示唆する書きっぷりだが、それもそのはず、続く記述には、

〈資金面での援助〉

〈団地内見張りの可否〉

など“きな臭い言葉”がちりばめられているのだ。

 では現場ではどんなことが行われていたのか。動燃側の意識がにじみ出ているのが、1986=昭和61年の衆院選で東海事業所の所長が梶山氏の出陣式に駆け付けた際のスピーチだ。当時の原稿によれば、所長は冒頭「原子力施設を代表致しまして、一言ご挨拶を述べさせていただきます」とあいさつ。梶山氏と「運命共同体」であることを、露骨にアピールした。

 「梶山先生は原子力施設と国会とを結ぶ太いパイプであるし、また、指導者でもあります。従って梶山先生に国会で活躍してもらうことが原子力の発展につながると我々は確信しております。今回当選の暁には大臣の声がかかると言われています。原子力の発展のためにも、ぜひそう願いたいものです」

 当時を知る動燃関係者がこう解説する「動燃といえば茨城の原子力業界でも最高峰で、『原子力ムラ』の集まりではもっとも上座に座る。選挙戦のあいさつはトップで『原子力ムラ』を代表する重要な役目だった。

 出陣式は『原子力ムラ』の存在感を示す晴れ舞台。それを示すように、式には事業者から所長、副所長を含む6人の管理職が出席した。見過ごせないのが、

〈公用車待機  水戸送り〉

〈公用車待機  事務棟もどり〉

 といった記述だ。幹部は事務所から公用車で乗り付けていたのだ。組織として堂々と「選挙」に邁進していたことになる。幹部がこの入れ込みようなのだから、現場の職員たちは大変だったようだ。西村氏の妻で元動燃職員でもあるトシ子さんはこう振り返る。「選挙が始まると職員は気もそぞろ自民党を応援していました。私も梶山さんが社宅近くに来た時に動員され。演説を聞きに行くよう指示された。

 主人は政治に熱心で、自民党議員の事務所前を通りかかった時など、挨拶に立ち寄っていました」ちなみに梶山氏の息子で地盤を受けついだ梶山弘志衆院議員は元動燃職員で西村氏の部下だった。

 「以前の話ですが、選挙の時に、弘志さんが東海村の社宅まで訪ねてきたことがある。普段ならお客さんは家にあげて話して行くのに、その時は玄関先ででヒソヒソ話をしていた。あとから「選挙の話だ」と主人が言っていました」  続く

 

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原子力ムラの闇・第15回梶山静六と額賀福志郎

原子力ムラの闇

第15回

梶山静六・額賀福志郎

 梶山静六3931票、額賀福志郎1718票、――衆院選を舞台に、旧動燃は原発推進派の自民党候補を応援するため、茨城県東海村で徹底した選挙戦を繰り広げていた。数百人の動員に電話作戦、そして下請け業者を使った票の積み上げ、「西村ファイル」第3弾は、原子力村が仕掛けた「組織ぐるみの選挙の動かぬ証拠を公開する。

 村一つ分に匹敵する「巨大集票マシーン」

 旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力開発機構)の元最高幹部の一人は苦々しげにこうつぶやいた。「選挙や政治家の資料もあるのか…なんてことだ。我々が一番書かれたくない部分だよ」本誌はこれまで2度にわたり、独占入手した西村フアイルを検証し、原子力ムラの暗部を暴いてきた。

 今回紹介するのは、「選挙」に関するファイルだ。「取扱注意」「マル秘」と書かれた文書も多く、動燃の元総務部次長・西村成生氏が従事させられた「秘密の業務」の中でもとりわけ重要だったことが分かる。

 ファイルを開くとすぐにこんな記述が目に飛び込んできた。

〈票田の仕切り〉

〈票の提出〉

〈茨城2区については東海事業所で全面バックアップしていく〉

 残された資料は動燃が選挙を通じ、自民党と蜜月の関係を築いていたことを示す、動かぬ証拠だったのである。

 舞台は茨城県東海村。現在,日本原子力研究開発機構(JAEA)が本部を置くこの地は、動燃の前身の原子燃料公社が、1957=昭和32年から拠点とし1981=昭和56年には日本初の核燃料再処理施設が稼働した。

 同村は云わずと知れたJCO臨界事故(1999=平成11年)の現場であり、日本原子力発電の東海第2原発がある。いわば、「原子力ムラ」の「牙城」だ。

 資料の多くは1993=平成5年の衆院選の時のものだった。宮沢喜一首相(当時)が率いる自民党が惨敗し、細川連立政権が誕生。55年体制が崩壊した歴史的選挙である。中選挙区制だった当時、東海村がある茨城2区は

自民党幹事長の梶山静六氏(2000=平成12年に他界)

後に通産大臣となる塚原俊平氏(1997=平成9年に他界)の二人の自民党議員が票を分け合っていた。動燃は二人のために猛烈な「集票工作」を行っていた。

 そのことをハッキリ示しているのが、動燃東海事業所総務課が1993=平成5年6月に作成した〈過去集票実績〉というデータだ。

 1990=平成2年の前回衆院選の集票実績としてこう記されている。

 

梶 (梶山氏)

約 3900名

職員1384名

業者2547名

 塚 (塚原氏)

約2300名

職員784名

業者1495名

 実に合計6千票以上の票を集めたというのだ。

最終的にこの選挙の二人の獲得票のうち東海村票は、

 梶山静六氏が4273票、

 塚原俊平氏が3717票、

 動燃は、強大な集票力を誇っていたのである。 続く

 

 

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原子力ムラの闇・第14回・ほじくればいろいろ出てくる。

原子力ムラの闇

第14回

ほじくり出せばいろいろある

 ――「数千万円程度」の予算は接待などに使ったのか?

「数千万円!? 考えられないな。そんなにかかる筈がない。接待も何もしていない」

 ――やらせ投書は?

「いろいろやるんですよ・・・古い話はしたくないのが本音。電力業界はどこの企業も、ほじくり出せばいろんなことがあるかも知れないが」

 Z氏の話に出てくる、「Kさん」とは、1995年のナトリウム漏れ事故直後から、「もんじゅ」の所長を務め、その後、理事となった人物だ。そのK氏にも直撃した。

 ――資金をプールするとは裏ガネの意味か?

 「プールっていうか補正予算みたいなものだからね。年度の最後だから、新規に何かやるなら(各部署からカネを)集めるしかない」

 ――タレントを使い「洗脳する」との記述もあった。

 「資料を書いたYがしたいと思ったことを書いただけじゃないか。彼は現地の先鋭部隊ですから。そういうのをコントロールするのが私の役目。やりすぎな部分は止めますよ」

 ――ノルマのある「やらせ投書」の指示もあった。

「それは、はっは(笑い)。行き過ぎじゃないかと思う。そんなことあったかな、本当に。してないと思う。どこの地方でもメデイアに反対意見を投書するのは大体マニアで、そういう人たちとの論戦は必要。

 職員が一般人として投書することはなにもおかしくないし、それなら、このときだけではなくていろいろなところでやっている。人形峠の回収ウラン再濃縮試験は、最終的に計画通りに行われ動燃が燃料サイクル開発機構と名を変えた後の2001年まで続いた。

 「Kチーム」の原案を作ったY氏は2005年に主任研究員に就任するなど、JAEA内でもそのまま出世している。JAEAはしきりに動燃からの「生まれ変わり」を強調するが、到底鵜呑みにすることはできない。

 実は「西村ファイル」には「原子力ムラ」と政界の関係の本質に迫る資料もある。

 自民党が絶対に「脱原発」を決断できない理由を次回に明らかにしたい。 続く

 

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