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十七・戸川京子・子役出身の人気女優の悲劇

 

子役出身の人気女優

16・戸川京子

(1964・8・13~2002・7・18)

84年デビュー組の悲劇

自宅で首を吊って自殺

明るいキャラクターでバラエティ―番組などでも活躍していた人気女優の戸川京子が自宅で死亡したのは2002年7月18日のことだった。

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戸川京子(4・3・8・3)

成功運(天7―人1)凶。運命抑圧を受け不伸、不満の結果、脳を冒され、健康を害す。

***

当日、待ち合わせ場所に現れない彼女を、不審に思った事務所関係者が自宅を訪ねてみると、家具にかけた紐状のもので首を吊って死んでいる彼女を見つけた。遺書などは発見されなかったが、警察は彼女を“発作的な自殺”と断定した。

 子役から長年芸能界で活躍してきた戸川だが、幼いころからぜんそくの持病に悩まされていた。さらに心筋梗塞を患っており、救急車で運ばれることも何度かあり、死の1年ほど前には、意識不明になるほどの重症だったという。

 「戸川自身は『仕事を少し休んで静養したい』と思っていたようですが、事務所が次々に仕事を入れるのでなかなか休業できなかったようです」(当時を知る芸能関係者)

 これも売れっ子タレントの宿命か、なかなか休むこともままならず、持病と闘いながら、それでも笑顔で仕事をこなしていたのだ。そんな辛い状況の中で、彼女はうつ病も抱えていたという。

 思い通りにならない自分の体と、忙しい仕事の間で悩み、次第に逃げ場を失い、追い詰められていったのかもしれない。

 実の姉である戸川純(歌手・女優)もかつて自殺未遂を起こした。1995年11月、所属事務所とのトラブルを苦に、自宅マンションでクビを剃刀で切り、自殺を図った。

 幸いにして純は、一命を取り留めたが、その7年後に妹の京子がほんとうに自殺してしまったのだ。歌手としては1984年に「悲しみはリアルすぎて…』でデビューした戸川京子だが、84年デビュー組には岡田有希子。河愛かずみ。松本友里(俳優・松平 健の妻で10年11月15日自室のドアノブに首を吊って自殺)となぜか自殺者が多い。これは単なる偶然だろうか・・・・

(自殺者は自殺を実行する、あるいは自殺に追いやられる運気を姓名画数に有していることが原因。したがって84年組だけに限ったことではないのである←永人)

 

 

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十六・古尾谷雅人・ 仕事が激減し借金苦で自殺した硬派俳優

いぶし銀のバイプレーヤー

十六・古尾谷雅人

仕事が激減し、借金苦で自殺した硬派俳優

古尾谷雅人(5・7・7・12・2)

天格・古尾谷19

人格・谷雅 19

地格・雅人 14

外格・古尾人14

●成功運・天九―人九 。素行修まらず、荒亡流廃す。浮沈極まりなく、泡沫夢幻の人生に終わる。

●基礎運・人九―地四 凶

急禍来たり、急変大災襲う。心臓、脳を冒すなど最も危険運なり。

●三才の配置(天九-人九-地四)・絶対的短命運。 脳溢血、心臓麻痺、危難遭難、災害自殺その他すべて急変の死を招く。

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2003年3月25日18時ころ、東京都文京区の自宅件事務所のマンションで、俳優の古尾谷雅人が自殺しているのを、外出から帰宅した妻(女優の鹿沼絵里=人格28後家運、凶。総画46凶。)

 古尾谷はベッドルームの洋服ダンスの洋服を掛けるパイプに、胴着の黒い帯をかけて、首を吊っていたという。すぐに救急隊を呼んだが、到着したときにはすでに意識不明で、警察が死亡を確認。遺書はなかったが、自殺と断定された。

 古尾谷は、03年1月からは俳優業を休業していた。渋い演技が光る硬派な役者として評価が高かった古尾谷だが、逆にそれが災いした。

 自らも硬派な役柄やシリアスな役柄にこだわったため、仕事のオファーを断ったことで、仕事量が激減し、借金苦に陥っていた。1億5000万円で購入した自宅マンションのローンの支払いが滞り、その他のものも含めて借金は3億円に膨らんでいたという。

さらに古尾谷は義母(父親の後妻)との間に遺産相続を巡って民事裁判を抱えていた。幼いころに両親が離婚し、父が再婚した継母との仲がうまくいかなかった古尾谷は少年時代から継母との不仲に悩んでいた。

そんな継母との裁判は古尾谷にとって大きなストレスとなったに違いない。

 仕事がない古尾谷は家にいることが多くなり、一日中酒びたりになっていた。

それでも気分の収まらない古尾谷は、妻の鹿沼に殴る蹴るの暴力をふるったりもした。

 そんな自分にいや気がさして、また酒を飲むという悪循環に陥っていたようです。そうした生活が彼を追い詰め、精神的に不安定になり、日常的に死ぬ話になったそうです」(当時を知る関係者)

自殺の3日前にも古尾谷は鹿沼に『死んだら俺の偉大さが分かる』と言っていたという。その言葉通りに自らの命を絶った古尾谷雅人。彼の死後、『役者・古尾谷雅人を惜しむ声は多いというが・・・

 

 

 

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十五・山城新伍 妻と娘に見捨てられたプレイボーイの最期

芸能界一のプレイボーイ

十五・山城新吾

(1938・11・10~2009・8・12)

妻と娘に見捨てられた孤独なプレイボーイの最期

80年代、山城新伍は絶頂にいた。

俳優からバラエティタレントへと転身した山城は

『アイ・アイゲーム』をはじめとするバラエティ番組の司会者として人気を博し、当時発表されていた“長者番付”にも名前が載るほど稼いでいた。

山城新伍(3・10・13・6)

地格19凶。外格9凶。

基礎運・(人)3-地(9)凶。

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女関係も派手だった。自ら『プレイボーイ』と名乗るほど、女好きだった山城は、、タレントから水商売女、さらに一般人まで次々と手を出しては愛人にした。

 結婚記念日や娘の誕生日も家族と過ごさず愛人と過ごし、愛人に貢ぐために、娘の学費保険の積立金に手を出したり、娘の同級生と知りながら肉体関係を結んだりもした。

 

***

 そんな山城のだらしない女関係に家族は愛想を尽かし、妻で元女優の花園ひろみとは離婚(一度復縁も再び離婚)、娘には二度と会いたくない、と絶縁宣言され、籍を抜かれた。

 2001年以降一人暮らしをしていた山城は、05年に糖尿病で入院、メディアに出ることもなくなり、事実上の引退となった。

 08年には『老人ホーム』に入居。糖尿病の悪化で車椅子での生活となり、老人性のボケ症状まで発症していたという。かつて白馬童子で一世を風靡し数々のバラエティ番組で活躍、「プレイボーイ」の名を欲しいままにした山城新伍の姿は、もうそこにはなかった。

山城が老人ホームに入居していることは、元妻の花園も娘も知っていたが、一切連絡はなかったという。

山城は家族に完全に見捨てられ、元妻と娘が山城を許すことは決してなかった。晩年の山城は孤独だった。09年8月12日入居先の東京都町田市にある特別養護老人ホームで山城は家族に看取られることもなく、一人さびしく死んでいった。

 葬儀にも元妻と娘の姿はなかった。「娘には会いたい」という願いも叶わず、芸能界一のプレィボーイは哀しく逝った。

(因果応報の典型を見るようである←永人)

 

 

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十四・島倉千代子・ 死の3日前のレコーデイング

紅白出場35回の「演歌の女王」

十四・島倉千代子

死の3日前のレコーディング

『島倉さんの紅白出場35回という記録はいわば演歌の無形文化財です。不世出の大歌手・美空ひばりとは同い年で親友でした』(音楽業界関係者)2013年11月8日に肝臓癌で急逝した島倉千代子(享年75)を悼む声は、今でも止むことはない。

 彼女は意外にも品川区出身の東京っ子、16才でデビューした歌姫。「デビュー曲『この世の花』は200万枚売れ、その後の3年間で、93曲という驚異的なペースで新曲を発表した。

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島倉千代子(10・10・3・5・3)

成功運(天10)―(人3)

***

 そして19歳の時、『東京だヨおっかさん』も150万枚の大ヒット。20歳で家を建てたそうですが、その後の人生は波乱万丈でした」(同上)

 観客席から投げられたテープが目に当たり、失明寸前になったのが23歳。治療した眼科医と後年交際したが、彼の手形の裏書きなどで膨らんだ借金が16億円に達したという。

 そこに近づいたのが、亭主を暴力団組長に持つ細木数子だった。「組長が大幅に任意整理してわずかに残った借金を肩代わりし、そのため島倉はその後のすべての芸能活動を細木と組長に拘束され、馬車馬のように働かされた。

 見かねたコロムビアレコードが、要求された数億円を細木側に支払って島倉の興行権を得、島倉はようやく細木の魔の手から解放された。

 そして1988年すべての思いが込められた『人生いろいろ』でカムバックを果たした。

「『人生いろいろ』はまさに彼女のために在った歌。

あの歌を歌いあげるために千代ちゃんはこの世に生まれたのかも知れない。それまでの過酷な人生もこの歌のために神様が与えた試練だったのかも、と考えています」(島倉を知る人物)

 2010年に肝臓ガンが発覚。自らの死期を悟った島倉は、死の3日前に病院を抜け出し、「最期のレコーディング」に赴いた。自宅でレコーディングした

曲名は『からたちの小径』島倉は最後の力を振り絞ってこの歌を3度歌い上げたという。生涯の持ち歌は何と2000曲。その声はいつまでも残っていくことだろう。

 

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十三・大原麗子 マドンナ的美人女優の哀しい最期

 

マドンナ的美人女優

十三・大原麗子

(1946・11・13~09・8・3)

美人女優の悲しい最期

病に冒され、自宅で孤独死

2009年8月6日、一世を風靡した美人女優の大原麗子が自宅で亡くなっているのが発見された。数日前から連絡が取れないことを心配した大原の実弟が、自宅を訪ねてみると、そこにはすでに死後から3日ほどたった彼女の姿があった。死因は『不整脈による脳内出血』だった。

 1964年のデビユー以来、大原は数多くの映画に出演し、「男はつらいよ」シリーズで2回マドンナを務めるほど人気があった。また80~90年まで続いた『サントリーレッド』のCMでは、妻役を演じる彼女の『少し愛して、長~く愛して』のセリフが大ヒットし、大人気CMとなった。

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大原麗子(3・10・19・3)

 。成功運。地格22

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しかし実生活の大原はというと、幸せな結婚生活とは縁遠かった。最初の夫の渡瀬恒彦とは5年で別れ、2度目の夫の森 進一とも4年で破局した。

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その一方で大原は病にも冒された。75年に神経疾患である『ギラン・バレー症候群』(体の自由が利かなくなる症状)を発症。その後、乳がんの手術も受けた。

99年には片二重だった左まぶたの整形手術をするも雑菌が入って別人のように腫れ、出演が決まっていた映画の撮影をキャンセルしてしまう。

 それ以降、大原は人目を避けるように芸能界の表舞台から姿を隠した。

  そんな大原が最後に女優として姿を見せたのが、元夫であり、生涯を通じて最愛の男だった渡瀬恒彦の『十津川警部シリーズ 東北新幹線『はやて』殺人事件』(04年放送)だった。

しかしこの時オンエアを見た大原は“老けて見える自分の姿”にショックを受け、以来二度と表舞台に立つことは無かった。

最期は自宅で一人、ひっそりと死んでいった大原麗子。生前の彼女の夢、『自分の生涯をドラマ化したい』が叶ったのは、死から3年後、ドラマ『女優・麗子・炎のように』だった。

残念ながら自分で主役を演じることは出来なかった・・・

 

 

 

 

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十二・横山やすし 昭和の天才漫才師

昭和の天才漫才師

 横山やすし

(1944・3・18~96・1・21)

最後の無頼派と呼ばれた天才芸人の壮絶な散り様

70年代を代表する漫才師であり、80年代前半の空前の漫才ブームを牽引した昭和の天才漫才師、横山やすしが急死したのは、1996年1月21日。この日の夜、外出先から帰宅した妻の啓子夫人が、自宅(大阪府摂津市)で意識を失い倒れているやすしを発見、すぐに病院に搬送されたがすでに死亡していた。病院の診断も

警察での司法解剖でも、死因はアルコール性の肝硬変だった。

横山やすし(16・3・3・3・1)

外格20凶。

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以前からやすしは酒で体を壊していた。死の10年ほど前には、仕事先の徳島で吐血、医師からは『このまま酒を飲み続ければ10年で死ぬ』と宣告されたが、やすしは医師の忠告を聞かずに酒を飲み続

け、その医師の予告通り、10年で逝った。

 やすしは、死の前日にもビールを大量に飲んだが、すぐに全部吐き出してしまい、『体の調子がおかしいから病院に行かなあかんなぁ』と言っていた矢先の死だった。

 やすしの人生は酒とトラブルの連続だった。泥酔状態でテレビに出演し、共演者に絡んだり、タクシー運転手を殴ったり、飲酒運転で人身事故を起したり・・・・

 度重なる不祥事で、吉本興業からも愛想を尽かされ解雇。それでも酒を辞めずに晩年は酒漬けの日々を送っていたという。そしてついに酒で命を絶つことになる。

  『やっさんの死には不審な点がある。自宅で倒れていたやっさんの顔面は、激しく殴られた跡があって、ボコボコになっていた。しかし、この日泥酔したやっさんが帰宅するときに乗ったタクシーの運転手の証言によれば、

 やっさんの顔は普通で殴られては居なかったそう。だとすれば、タクシーを降りてから自宅までの間に暴行を受けた可能性がある。一説によればボート(競艇)好きだったやっさんが、ボートがらみのトラブルに巻き込まれて暴行されたという噂もあります』(週刊誌芸能記者)

 やすしの死は、肝硬変ではないのか・・・?

最後まで破天荒な生きざまを貫いた昭和の天才漫才師の壮絶な死に際だった。

 

 

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十一・松田優作

伝説のカリスマ俳優

十一・松田優作

(1949・9・21~89・11・6)

役者魂!を貫き通した男の壮絶な死

『何じゃこりゃー!!』松田優作の出世作となったドラマ『太陽にほえろ!』で優作演じるジーパン刑事が死ぬ最期のシーンで、自らが撃たれたことを知り、叫んだこのセリフは、今だに伝説のシーンとして、語り継がれている。

 **

松田優作(8・5・17・7)

人格22

***

優作の死はジーパン刑事の死と同様に壮絶な最期だった。

映画『蘇る金狼』『野獣死すべし』での優作は、すさまじい狂気ともいえる演技で見る者を圧倒し、『家族ゲーム』『陽炎座』と言った作品では静の演技に秘められた迫力で存在感を示した。

 志半ばに40歳の若さで膀胱がんに倒れた松田優作は常に自分の役に魂を注ぎ込み、自らの命を削りながら演じていたのかもしれない。1988年国民的女優の吉永小百合との共演作、

『華の乱』の撮影中に、優作は自分の体の異変に気付いた。

 激痛を伴う排尿で、尿が出なくなり、下腹部はパンパンに腫れあがっていたという。

診断結果は「膀胱がん」。そのときすでに膀胱の壁から骨盤に向かって、進行していたため、すぐに手術が必要だったが、優作はこれを拒否した。

  念願のハリウッドデビュー作品『ブラックレイン』の撮影が1か月後に迫っていたのだ。優作は自身の命より撮影を選んだ。

 撮影中の優作は自分ががんであることを隠し通し、激痛と闘いながら撮影をやり遂げた。

 『ブラックレイン』は大ヒットし、冷酷で残忍な日本人ヤクザ・佐藤を演じた優作の鬼気迫る演技は『彼はここ10年で最高の悪役だ』と、ハリウッドでも絶賛された。

 優作の演技はまるで迫りくる自らの死と闘うようでもあった。

 『俺は何か、あるものを未来に伝える一つのアンテナみたいなもんじゃないかな』死を目前にした優作はそう語ったという。松田優作という俳優は、自らの命を懸けた演技を通して、その強烈な生きざまを我々に伝えてくれたのだ。

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十・ 勝新太郎  破天荒な昭和の映画スター

破天荒な昭和の映画スター

十・ 勝新太郎

(1931・11・29~97・6・21)

最期まで破天荒な生きざまを貫いた“役者バカ”勝新

勝新太郎は昭和が生んだ稀代の映画スターだ。その豪放磊落な一生はまさに勝新劇場と呼ぶにふさわしい名演で、映画以外の場面でも、人々を魅了した。

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(一)勝新太郎[(1)・12・13・4・14]

外格19。総格43凶。基礎運凶。

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1990年ハワイのホノルル空港で下着に隠していた大麻とコカインが発見され、現行犯逮捕された勝新は帰国後に行われた記者会見でこう見栄を切った。

『もうパンツは履かない!』確かにパンツを履かなければヤバイ物はもう隠せない。さすが勝新言い得て妙である。

 この騒動から少し経った頃、勝新が銀座のクラブにふらっと現われた。

その時、麦わら帽子のような素材のシャレた帽子をかぶっていた勝新は、入り口で黒服に、

『コレは“麻”じゃないから』“ヤバイもんじゃない”と言って笑う勝新は、根っから人を笑わせることが好きだった。

 銀座あたりで飲んでいると、勝新に気づいて近寄ってくる客をみんな引き連れてハシゴをする。もちろん支払いは勝新持ち。そんな豪快な飲みっぷりが出来るのが勝新の勝新たる所以だ。

 ****

 96年7月に下咽頭がんを発病。手術はせず、抗がん剤と放射線治療を行うために、入院していた最中も外出を繰り返しては酒を飲んだ。その後に行われた記者会見の席でも勝新は魅せてくれた。

 「医者から言われてタバコはやめました」。そう言った端から勝新は、火のついたタバコをスーッと一服吸って見せた。まさに勝新劇場の真骨頂。命を懸けた一世一代の見せ場を演じて見せたのだ。

大統領や、総理大臣には代わりがいるが、勝新太郎の代わりはいない

かつてそう言った勝新は、97年6月21日、自ら勝新劇場に幕を下ろした。

 役者バカ、勝新太郎は、あの世でも“勝新”を演じていることだろう。

 

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九・ポール牧 指パッチンで一世を風靡したコメデイアン

 

“指パッチン”で一世を風靡したコメディアン

九・ ポール牧

(1941・8・2~2005・4・22)

やがて悲しき喜劇人の衝動的な飛び降り自殺

コメディアンポール牧が東京西新宿の10階自宅マンションから飛び降り自殺したのは、2005年4月22日の早朝だった。

 浅草芸人出身のポール牧は、コントラッキー7を結成し、指パッチンで一世を風靡。テレビの演芸番組を始め、舞台バラエティ番組などでも売れっ子人気芸人として、スポットライトを浴びていた。しかしそんな彼も新しいお笑いの波には勝てず、やがてテレビから姿を消し、世間では忘れられた存在となっていった。

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 ポール牧

[(1)・8・5・1・2]

外格4。成功運

***

すっかり過去の人となった彼が、再び脚光を浴びるきっかけとなったのは、ビート武志である。浅草の後輩芸人であった毅は、『お笑いウルトラクイズ』などの番組に彼を起用し、「ポール師匠」と呼んではお笑いを振った。

 得意芸の指パッチンも復活し、人気コメデイアンとして再ブレークしたポール牧だが、2000年に銀座のホステスから『セクハラを受けた』と週刊誌に告発されてしまう。

 これに対しポールは『僕のヒーリングパワーを彼女に送った』と釈明したもののイメージダウンは免れず、これを機にテレビ出演や講演などの仕事が激減。またもや表舞台から姿を消すこととなった。

 さらに01年には離婚。02年には茨城県鹿嶋市に司友山一道寺(本名、榛澤一道・はんざわ・かずみち・から採ったものか←永人)を創建し住職に就任するも資金繰りの関係で、運営に行き詰まっていたという。

 死の前年には鬱病による病院通いをしていたポール牧。抗鬱剤と睡眠薬を常用し、死の前夜には酒と一緒に飲んだという。

 当然これは判断力を鈍らせる最悪の服用法だ。おそらくはやりきれない思いから酒に走ったのだろう。そして判断力を失った彼は突発的、衝動的にマンションのベランダを乗り越え、自らの死を選んだのだった。

 『ドーランの下に涙の喜劇人』生前のポール牧は、色紙にサインと共にこの句をよく綴っていた。喜劇人の悲しい最期だった。

 

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八・牧 伸二  一世を風靡した昭和のウクレレ漫談師

一世を風靡した昭和のウクレレ漫談師

八・牧 伸二

(1934・9・26~2013・4・29)

“あ~、やんなっちゃった”と橋から投身自殺。

2013年4月28日、その日牧伸二は、午後1時半から自身が会長を務める東京演芸協会主催『お笑い演芸会』に出演、15分ほどの舞台を演じた後、東京・浅草の『東京館』に向かい、楽屋入りした後、一人で行きつけの喫茶店に向かった。

 しかしトリの出演予定の牧が一向に戻ってこないため、スタッフらが探しに行ったが牧の姿はなく、さらに公演後に行われる牧が出席するはずだった同協会の理事会にも姿を見せなかった。

  当時、牧には東京演芸協会の使途不明金疑惑がかけられていた。

 歴代会長から受け継いで牧が管理していた500万円以上の資金が不明になっており、会員の間からは、牧の責任を追及する声が高まっていた。会員からの追及に牧は昨年(2012年)の暮れに、「来年5月30日の総会までに500万円用意する」と約束した。

 それを受けて行われる2013年4月28日の理事会で使途不明金について追及されることになっていたのだった。

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●(一)牧 伸二[(1)・8・7・2]

地格9凶。

三才の配置・天九―人五―地九・・・凶

絶対的短命運(第一型)・脳溢血、心臓麻痺、急難、災害、自殺、その他すべて急変の死を招く

***

 牧は体調に不安を抱えていた。02年に(67歳)に脳出血で倒れ、リハビリを経て復帰したが、歩くには杖が必要だった。

  さらに死の数年前から年齢からくる認知症の症状に悩んでいたともいう。死の2年前にはその影響で、タバコの不始末が原因での自宅でボヤを出したこともある。

 理事会から姿を消した翌日、29日午前0時15分頃、大田区と川崎市を結ぶ中原街道の丸子橋の欄干を乗り越えた牧は、多摩川に自ら身を投じた。病院に運ばれたがそこで死亡が確認された。

 橋の欄干には牧の遺した杖が主無きまま、立てかけてあったという。

****

『あ~あ、やんなっちゃった』のフレーズに乗せて鋭い社会風刺、政治風刺でテレビをにぎわせ、大衆を笑わせた牧 伸二は自らの人生も

あ~あ、やんなっちゃった』と投げ出したのだろうか。

 昭和の演芸界で一世を風靡したウクレレ漫談師が自ら命を絶ったのは、奇しくも「昭和の日」だった。

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