日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
今年の研修旅行・最終回
今年の研修旅行
最終回
さいとう正美をトップで県政へ送ろう
*
「私の名前を観てもらっていいですか」
『どうぞ』
隣の女性はバックから手帖とペンを取り出した。
「髙橋邦子です」
『良くありませんね。家族の問題で苦労します。夫を持って夫で苦労、子供を持ってこどもで苦労しますよ。何事も途中で挫折してしまいます。夫婦として人生の途中で、相手と生死別は免れません。自分で運転なさるなら交通事故にも気を付けてください。事故死を起す典型的なパターンです』
「すみませんが息子を見てください。髙橋敏容(としやす)」です」
『大変ですね。大病しますよ。これは病気と縁が断てないので親としては苦労ですね』
「この子は3歳ころから大きな病気をしています、今小学校高学年です。専門家に名付けてもらったんですけど」
『その専門家という人は医者ならヤブ医者。あなたの運気が弱くて悪いからヤブ医者と縁を持ってしまったのでしょう。まあ、この旅行が終わったら話をしてあげますから電話番号をあとで教えてください』
宴会が終わり、座席を立って、部屋に帰ろうとしたとき、同部屋に決まった85歳で先ほど舞台で上手に歌を唄った方から、「吉野さんは歌が上手いなぁ」と言われて気恥かしかった。
石巻に帰って作詞者と作曲家を調べてみたところ
昭和28年作
作詞・吉川静夫
作曲・吉田 正
唄 ・吉野永人(12日の宴会の時だけ)
『吉』という“同文字の不思議な縁”であった。
この旅行の終わり、13日の午後3時30分頃、木の屋石巻水産の隆之さんから私宛に電話があったそうだ。丁度この時間に『高橋国子』の撰名を使う様バスの中で彼女に話していた時間だった。
15日朝、木村隆之さんから電話で「相談事が有るので10時から10時半の間に行きたい」と言う。
「どんな用件で来るのでしょう」と家内が言う。
『たぶん二番目の孫でもできたのだろう』と感じたままを言ったが、やってきた隆之さんは
「12月1日に2番目の孫が生まれるので、また親の希望する名前を木村に合う様、先生に付けてほしい」という内容だった。
『親の希望は?』
「どうやら女の子なそうで、“みさき”と付けたいそうです」。
『わかりました。木村に合ういい“みさき”があるはずです』
***
再来年10月に県会議員の選挙がある。石巻地区は定数4に対し6~7名ほど必ず立つ。
過去さいとう県議はトップ当選を守り続けて来たが、前回は2位での当選となった。
後援会は、次回の選挙をまたトップで当選させるべく、戦いの火ぶたを切ることになる。
その目標に向かって、来る日も来る日も、地道に後援活動を繰り広げるだけだ。時代はこれから先、復興から創造へと向かう。さいとう県議の健勝と益々の活躍を願うところだ。おわり。
祈念公園に・・・最終回
祈念公園に・・・
最終回
慰霊碑に刻まれて
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2011年3月11日、生涯忘れることのできない世界NO1級の大地震が発生し、未曽有の被害が発生した東北大震災。海岸線から約800メートル離れた中澤君の住居を高さ6メートルの津波が襲った。
中澤夫妻は家ごと流され、帰らぬ人となった。中澤征夫君は本来なら腹部の癌を発症してそれが死因となるはずだったが、それより前に奥様の優子さんの厄難遭遇の運気に左右される形で津波に巻き込まれたものと思う。
宮城・岩手・福島を主に広範囲にわたった被害の中でも私のもとで命名・撰名・改名し、使用していた者に犠牲者は一人も出ていない。むしろ奇跡的に助かった者がかなりいる。
もし中澤夫妻が撰名し、それを使っていたなら、津波を避けた何らかの理由で被災を免れたことは充分有り得た。
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涌谷出身の石山氏は大阪に工場と居を得ているが、涌谷にも生産工場を持つシャープを主力とする電子部品工場の経営者である。
そうして南余景に別荘を構えていた(中澤夫妻の自宅から300メートル海に向かった地点)が、最近長期にわたって滞在する機会が増えていた。
長男が大阪工場の責任者。
次男は涌谷工場の責任者をつとめている。
この石山家は全員撰名(呼び方を変えず、文字を変えて運気を改善する方法)を実行していた。
***
2011年3月11日、正午近く仙台空港に着いた石山夫妻は野蒜(のびる)宅に直行することを決めていた。
次男が工場長を務めている関係でその次男が空港へ両親を迎えに行き、軽い昼食後、当然野蒜に向かって車を走らせた。三陸道の北松島・鹿島台インターで降り、そこから12、3分で行けたはずの野蒜に向かうべきところ急遽鹿島台へ行先を変更した。
そこを通って隣町の涌谷の工場を先に見たくなったのだという。
そう決断したのは午後1時30分ごろだった。車が涌谷工場へ着いたのが午後2時20分ごろだったという。あの巨大な地震が発生する26分前だった。
その後の大津波で石山社長の野蒜の家は跡形もなく消滅した。
あの時予定通り野蒜に行っていれば間違いなく津波にのみ込まれた筈である。まことに際どい生死の分かれ目だった。
石山社長にも撰名後ここ一番の勘所で好結果をもたらす一種の予感的能力がついていたことだけは確かなようであった。
そこから300メートル陸地側の中澤征夫・優子夫妻はその時の大津波で家ごと流され溺死したと思われる。
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昨年10月、古希を迎えた同期会が松島の大観荘で行われたが、中澤君大震災遭難死の余韻を払しょくしきれていないかった私はこの古希同期会には参加しなかった。いや気分的に参加出来なかった。
このたび除幕された旧・野蒜駅前の大震災慰霊碑の野蒜地区で亡くなった犠牲者1099名の中にアイウエオ順で中澤優子・中澤征夫と並んだ標識を撫でてみた。
撰名者の中に一人の犠牲者もいなかったことを思えば、中澤夫妻をもっと積極的に特に『妻の優子さんを強く説得すべきだったのでは?』と今でも時々心が痛むことがある。
これからは、散歩などのその場を通る折に触れ、慰霊碑の芳名板を必ず撫でるように慰霊し、見護っていきたいと思う。
終わり