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石井幹子(世を照らす)

今年も今日で終わる。暗い世相に少しでも明るく、と思い、『あかり、即ち照明芸術で世の中を明るく照らし続けてきた運気100点、完全大吉名の女性』を紹介し大晦日の投稿を明るく飾りたいと思います。

職業は照明デザイナー。1938年、竹内悌三を父として生れ、竹内幹子・たけうち、もとこ・(運気10点)として成長し、

1962年東京藝術大学美術学科卒業。
1965年~7年にかけて、フインランドやドイツの照明設計事務所勤務の後、石井紫郎氏と結婚。

「竹内幹子」運気10点から
『石井幹子』となって運気100点の完全大吉名に変わった。

1968年株式会社石井幹子デザイン事務所を設立。

1975年沖縄国際海洋博覧会の照明デザインを担当したが、その後オイルショックにより、照明デザインは電力の浪費と受け取られ、不遇の時期を余儀なくされたが、照明による建物等の美を強調することで,“日本の美しさを世界に広める意義”を説得する旅に出て徐々に理解を得、
1980年、つくば科学万博。大阪市長堀シンボルロード。白川郷などの都市空間のライトアップ。
1989年東京タワーのライトアップ。大阪城。姫路城。東京駅舎。レインボーブリッジ。明石海峡大橋。横浜ベイブリッジ。六本木ヒルズ森タワーなどを次々に飾り、
オーストラリア。アメリカ。シンガポール。サウジアラビア。香港など世界各地で建造物の照明を数多く手がけた。

国土交通省、内閣府の審議会委員などを歴任している。

昭和54年:日本照明学会・学会賞

61年:北アメリカ照明学会・特別賞
平成2年:北アメリカ照明学会・大賞
4年:東京都文化賞

平成12年:紫綬褒賞を受ける。夫が石井紫郎ゆえ『紫・むらさき』にご縁が有ったのだろう。

また、娘の石井明理さんも、『明かり』に関係する仕事を選び、照明デザイナーとして、母親の後を追っている。

2009年が明るい年と成るように石井母娘で日本を、また世界を明る
く照らして欲しいものだ!・・・本ブログにお付き合いを賜りました皆様にはどうぞ良いお年を!と願って居ります。

この一年間誠に有難うございました。

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マタギの予感

阪神淡路大震災の時、地震の揺れの加速度は850ガル、新潟中越地震のときは1、720ガル、今年6月の「岩手、宮城内陸地震」は4,022ガルで過去の記録上では最大の規模を示したのだそうです。

今回の震源地域は専門家達の間でも「今後100年以内に地震の起こる可能性はゼロ」と言われていたそうで、そこへ震度6強、マグニチュード7,2。さらに観測記録史上最大の4,022ガルという強い加速度を記録したのだそうです。

東京ドーム54杯分の土砂が一気に崩れ落ちた場所もあり、正に山が一瞬にして陥没してしまった風景には本当に絶句してしまいます。

今、未知の断層帯といわれるものがいたる所に有るとすれば、日本国中強い地震は何処ででも起こりうると考えたほうが良いと言う事になります。『地震、雷、火事、親父』との順序で言われた“恐いものの代表”は、いつの間にか『親父』が失速したものの、矢張り、地震が断然トップである事を私達に再認識させてくれるものであったようです。

栗原市に住み、被災地に在って、長い間マタギをやってきた佐々木さんはクマ食堂を経営し、くまソバ、くまウドン、くま丼等のメニューを提供する方であるが、

今度の地震で店にも大きな被害が出て商売を諦めようとしていたところ、多くの愛好者、利用者、支援者からの継続を望む声に押され、励まされて少しずつ再開することに決めたということです。

この地区に終戦後60人も居たマタギは今たった三人に減ったという。このうちの一人の佐々木さん、この日(2008年6月14日)もいつもの通りに山に行って店で使用する食材を採取する予定で居たが、

前日の6月13日

『温泉の湧き出し口の湯が濁っており』、この様な事は初めてなので

『なにかがある!?』と思い、また熊が食してから出している“クマ笹の葉の糞”が見当たらず、

『この近辺からクマが何らかの理由で立ち去ったのだろう』と思ったそうです。

これらの事から、嫌な予感がして翌日の

『早朝からの山歩きを中止にした』ところ、あの大地震が起きたのだと言う。しかも、

『行く予定の場所』が大きく沈み込んで、『山が消えた』と言われた場所だったそうであり、行っていれば確実にあの山崩れに遭って居たはず。マタギとして長い間『熊に支えられてきた生活』が土壇場でまたまたクマの行動に教わって命拾いした事が本当に不思議でならないという。理由はともかく、『マタギの予感は的中』してマタギ自身を救う事になった訳です。

佐々木さんは熊に対していつも感謝の気持ちを込め、
『熊さん有難う。あなたの命を私共のために使わせていただきます』。という謙虚な方なのだろうと思います。

そうでなければ、熊たちの魂は、6月14日当日、佐々木さんを予定の場所へ導いたかも知れません。

来年佐々木さんにお会いして、その辺のところを伺ってみたいと思って居り、勿論犠牲者のご冥福を祈りながら供養のためにも“熊うどん”を食べて来たいとも思っています。(合唱)




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五百昌夫

岩手県陸前高田市で1947年に生を受けた阿部健太郎青年は、水沢第一高等学校を中退し、一時期、北海道の岩見沢市で同卿の知人が経営する左官業の左官職人の見習いとして働いていたが、その後歌手志望を諦めきれず上京し、遠藤実のもとへ1965年に弟子入りした。

芸名を『千昌夫』と名乗った彼は翌年に発売された『星影のワルツ』で歌手生活に入り、1972年にアメリカ人歌手のジョーン・シエパードさんと結婚したのである。

夫婦二人でいろいろなコマーシャルに出て稼ぎ、仲の良い夫婦を演出していたし、多くの視聴者にもその様な印象を与えていた。その意味で彼らのコマーシャルは成功していたと言える。

ところで、恩師遠藤実は非常に奥さんを大事にしたが、弟子の昌夫は、恩師のそうした生き方とは全く違う生き方だったようで、女性問題がこじれて夫婦の間に亀裂が生じ、アメリカの裁判所で離婚訴訟を起された結果、1988年に離婚が成立した。

個人預金の半分、50億円と広尾の豪邸など、噛み着かれたシエパード前婦人に『全財産の半分』を持って行かれた。人も犬もシエパードというのは賢いものだ。間もなく駄目に成る千昌夫の下りに転じる運気を鋭く嗅ぎつけたのかも知れない。

このとき『千昌夫の財産が半分で五百昌夫になった』と、盛ん(左官)に揶揄(やゆ)されたと言われている。

本名:阿部健太郎:大凶名。運気5点:阿の阝(こざとへん)は阜で八画。部の(おおざと)は邑で七画。従って阿は13画。部は15画。天格八―人格六―地格九(第一型の絶対的短命運:脳溢血、心臓麻痺、急難、災害、自殺、その他全て急変の死を招き、短命の人生に終わる)

しかしながら、彼は殆ど千昌夫で生活しており、この芸名:千昌夫の運気がその後の彼を支配することに成る。

千昌夫{(一)・3・8・4}:運気10点。地格:昌夫で12画:大凶・無理に伸びんとする象(しょう)・薄弱無力を顧みず、不相応の企(くわだ)てを為(な)してかえって失敗す。物事不足勝ちにして家族縁薄く、孤独、遭難、逆境、病弱(肝臓、胆嚢、脳神経、心臓、脳血管、消化器、等を冒(おか)される)、困難を生ず。また、意外の厄難に襲われ、天寿を完(まっと)うし難き悲運に陥る事あり。

『夫婦仲を良くしてこそ金は貯まるもの』と言われているのだが、

『苦しい時代を伴に頑張った妻』の存在をないがしろにし、別な女性に走った

『千昌夫』の因縁のツケは、財産を半分にした『五百昌夫』どころか、大きく3000億円以上の借金をして

“歌謡界きっての借金王”となり、1991年のバブル崩壊でアベインターナショナルも遂に沈没するに到った。だが本人はいたって明るく、自己破産もかけることなく頑張っているのがせめてもの救いだ。今年の大晦日の紅白歌合戦に彼が出ないのは淋しい感もするが・・・(完)



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朧月夜

遠藤 実の作曲の原点は小学校時代に教室で唄った

『朧月夜』だという。

菜の花畑に入り日薄れ
見渡す山野端かすみ深し
春風そよ吹く空を見れば
夕月かかりて匂い淡し

校舎の窓から外を見ると,歌詞に出てくるような風景が心に焼き付いて、そのときに感じた雰囲気が生涯の作曲の基本になっているのだという。

また流しをやっていた頃の話だが、いつもの店にいつものお客さんがいても、お客さんの顔色や、表情を見て、唄う歌の雰囲気を替える。悲喜こもごも、喜怒哀楽の雰囲気を察知するのである。そういう人情の機微を掴(つか)み取る事は、その後の作曲に大いに活かされるところとなった。

彼は、最愛の妻にどうしてもオパールの指輪を買ってあげたくてある店のショーウィンドウの中にある品を気に入り、必ずアノ指輪を買おうと、店の前を通るたびに、ウィンドウのガラスに自分の額をぴったりとつけ、まるでガラスに額の跡がつくほど、何度も何度も眺め続けたという。

島倉千代子の歌った“からたち日記”の大ヒットにより、やっと纏めて入った印税でそれを買ったという。一時、節子さんはその指輪を掛けていたらしいがいつの間にか掛けなくなり、64歳で癌で亡くなった後、箪笥の奥深いところに大切に包まれたそのときの指輪が出てきたという。妻のために買ってから36年ぶりのことである。

節子さんは本当に出来た妻だったようだ。誰よりも夫の作った曲の『世界中で一番のファン』だと言って彼を励まし、『夫の作った曲は皆大好きだ』と言っては夫にやる気をおこさせ続けたのである。こういう妻がいると夫は俄然励みになって良い仕事をするものである。

遠藤節子さんの闘病生活の最後、遠藤はベッドに腰を降ろし、そっと静かに、やっとの思いで看護士に支えられ、半身で起きた妻の節子さんを抱えた時、妻の体を物凄く軽く感じたと言う。

妻の旅立ちを悟ったかどうか知らないが、胸に顔を埋めた妻に

『長い間有難うね。今日までやってこられたのはみんなお前のお陰だよ』と言ったがその時、彼女は首を横に振り、

「それは違う。みんな世間様のお陰ですよ」と静かに言い、
「私は幸せ者でした」と言って眠るように旅立ったという。

遠藤実はしみじみと言う、『自分よりはるかに大きな器量で、非常に人情味のある人だった。節子さんあっての自分だった』と。2008年12月6日、節子さん他界の15年後,戦後歌謡界の偉大な作曲家遠藤実は節子さんのもとへ旅立った。・・五百昌夫へ続く。

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カツ丼

17歳で上京し、三曲100円でギターでの流しを続けていた青年はネオンの街で出逢う流しのギターの紐が、背広の肩へ「食い込む深さ」の様子を見て新米の流しか、ベテランの流しかが解ったという。

なかなか鋭い観察眼である。二人で組んでの流しではあったが、生活が楽にならず、街の食堂に入り、じーっと“カツ丼”の蝋で出来た見本を眺め、

『ああー、カツ丼を食べたいなー』と思いつつ、最低の定食を注文する。おかずは小さい焼きサンマ一匹と向こうが透(す)けて見えるような薄く切ったたくあん三切れのみ。来る日も、来る日も、それの繰り返しだったそうである。

とある日の事、例によって見本のカツ丼を見た後、いつもの定食を注文したのに、目の前に湯気の立っているアノ憧(あこが)れの“カツ丼”が出された。

自分は注文した覚えがないのに、「どうしたんだろう?」と目の前に運んできた女性の顔を見ると彼女は右手の人差し指を自分の口に当て、『しいーッ』と言った後、男の耳元へ小さい声で『私のおごりよ』と囁いた。

その・カツ丼・のうまい事、涙で丼がかすんで見えたが、ありがたく、嬉しく、人の情けをいやという程、感じさせられたのだ。

この女性は米田節子といい、この年、節子21歳、男18歳で二人は結婚生活に入った。この男は流しを続けながら、独りで作曲を学び、24歳で漸く世に認められる事になった。

デビューは『藤島桓夫』が唄ってヒットした『お月さんこんばんは』の曲である。昭和32年4月のことだ。

翌33年、11月島倉千代子の歌った『からたち日記が』が大ヒットし、ここに遠藤 実という新進気鋭の昭和歌謡の作曲家が誕生したのである。遠藤は昭和7年7月6日生まれだから、このとき25歳であった。・・・・朧月夜へ続く。


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頭上の雪

静かに静かに雪が降っていた。昭和30年、12月24日の夜、小学四年生の冬休みに入ってのことだった。外国ではクりスマスといい、イエス・キリストの生誕を祝う日の前夜祭なのだそうだ。

理由は何であろうと、口の中に入れたら美味しくて気が遠くなりそうな、例の「クリスマスケーキ」を食べさせて貰えることが何よりも嬉しかった。我が家では前年もそうだったが、直径20センチくらいのデコレーション・ケーキを13人(祖父母、両親、兄弟姉妹9人)家族ゆえ、13等分したものを一人一切れずつ食する事になるのである。

「あー、うまいなー」と大感激しているうちにあっという間に無くなってしまった。「お菓子屋に生まれたらよかったのに・・・」と本気で思いつつ、いつの間にか3軒となりの「新栄堂」というお菓子屋の前に立っていた。

先刻食べたケーキの味を思い出しながら、ショウケースに入れられたショートケーキを端から端まで眺め、それらのひとつひとつがどんな味がするのか想像しながら見つめていた。夜7時半頃だろうか?

「これ!何をしてるの?風邪ひくよ!」と母が自宅前の道路に出てきて私に声をかける。「さきほどのケーキの量では物足りずに」降りしきる雪の中、お菓子屋の前にじっと立って店の中を見つめているわが子を見て、母はあきれ果てたように何も言わずに家の中に入って行った。

「母に惨めな思いをさせたのではないか?」何となく「後ろめたい思い」をしつつ、我が家へ帰ろうと思ったら、頭の上に二センチ位の雪が載っていた。昭和20年3月19日、太平洋戦争の末期、いかに食べる物の無い時、不足の時代に生まれたとはいえ、私自身の食べ物に関する執着心は、他の兄弟を圧倒していた感がする。

「いつか大人になったら、ケーキを死ぬほど喰おう!」そんな気持ちで布団に入ったのを覚えている。・・・いまその気になれば、ケーキは何時でも食べる事は可能だが、大人になって嗜好の変化からあまり食べたいとも思わないし、糖尿病を避けるために、食べる事をも控えてしまう。

特に子供の頃など、食べたい時に食べる事の出来る状態を「幸せ」と言うのかも知れない。だとすれば、今の飽食の時代、子供達は存分に食べる事が出来る分だけ皆幸せなのだと言えるかも知れない。

それにしてもアノひもじい思いをした幼児期から昭和32年頃までの戦後12年とても貧しかった日本のアノ時代が懐かしく思い起こされる。食べるものも少なく、生きるか死ぬかの時代だった。

今「100年に一度の不景気」と政治家が脅かしているがアノ頃に比べればまだまだ「いい世の中」である。

我々は自身を持って頑張らなければならない。

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追記

世に生死のわからない行方不明者は相当数いる。そうした中で,友田晴子さんは完全大吉名ながら、周囲の無理解から、刀折れ、矢が尽きて、早い旅立ちを選んだ。しかし、完全大吉名なればこそ,友田善大君を友田家に残し,東京という居住地の近い場所を出発の地に選び、長期にわたる行方不明ということで捜索の手間をもかけることもなく、晴海埠頭の沖合いに冷たくなった姿を見せたのである。

12月25日早朝海面上に遺体発見ということは冬の東京湾の水温から判断して(14~15度Cくらい),胃に残された内容物にもよるが、
体内にガスが溜まって海面に浮上するのは約一週間と思っていた。

12月17日夕暮れの4時頃子供を嫁ぎ先に預け、そのままの足で夜5時以降すぐに東京港へ身を投じたと思われる。これでは連絡が取れないのは当然だった訳だ。

完全大吉名者が覚悟を決めた時は、残された者のことをも考えながら旅立つものであることを友田晴子さんの行動で確りと感じさせられた。もしも、友田春子のままであったなら、子供を道連れにしての無理心中に及んだかも知れない。あるいは母子で未だに消息不明だったかも知れない。

親がいなくても育つ強い運気を持った完全大吉名の友田善大君は、母親が亡くなった後も、彼の地で高校一年生になっていると思う。本人に命名書が渡っている以上、何時の日にか、私を訪ねて来るかも知れない。

まさしく「人の生き様、死に様」にはその使われる姓名の画数と一致するものがあることを、友田春子、友田晴子で私たちに照明して見せてくれたのである。

友田勇一さんの優柔不断さを見抜いた私は,友田のご両親に会って撰名の説得をしようと試みたが、その試みも勇一さんから丁重にことわられたイキサツがあった。

結果論だが、強引に会って、撰名させるべきだったのか、今でも悩むところだが、本人が自主的に使うところに成果があがる事は言うまでもない。

世の中には姓名の画数が原因して頑固一徹となり、人の意見に耳を貸さぬ御仁が大勢存在するのである。

「生活助言者」を自負する私は,友田晴子さんの件について自らの力不足を嫌というほど思い知らされた。最後の最後で「先生さようなら」とも言わずに逝ったのは「吉野に頼ってもどうにもならなかった」という、彼女の無念さが有ったのではないか?と自問している。

二人目、三人目の友田晴子さんを出さないように、今後も精一杯相談者の為に精進する事を誓って、当時51歳の「私の非力」のお詫びに代えたいと思っている。

2008年12月25日、13回忌にあたり、そのことを友田晴子さんの御霊(みたま)に改めて誓いたい。・・・

皆様には本ブログを最後までお読みいただき、心から感謝申しあげます。誠に有難うございました。(合掌)

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伴に歩む人(十三・最終回)

善大君を義母の元へ置いて行った事で彼女は「二度と友田の家に戻らない覚悟」をはっきりと示している。四方八方手を尽くして探しても何の手がかりも無かった。

21日になってからアノ新潟の父親が私に電話を寄越した。

「三嶋です。大変困ったことになりました。娘から何か先生には連絡がなかったでしょうか?先生は『良く当たる』そうですが、今娘が何処にいるかわかりませんか?」

よく言うよネ。前回の電話では「吉野!」と怒鳴っていたが、今回は「先生」と言っている。だが、蚊の鳴くような声である。自分の横暴で妻に去られ、今、たった一人の娘も失おうとしている。例え姓名の画数から来ている人間性とはいえ、哀れな人である。これを“自業自得”という。

『私は全く解りません。三嶋さん、“そちらの先生”に聞いたら解るんじゃありませんか?・・・私のほうで何かわかったら直ぐに連絡しますから・・・』

と言って電話を切った。娘から小遣いをもらっていたので、娘がいなくなってこれから先は困るので・・・その様な自分本位の心境なのだろう。

晴子さんは東京に居れず、故郷の新潟へも帰れない、
『生き場所と行き場所がない。そこで覚悟の上の行き場所は・・・』

相手が如何に薄情な父親であっても、あれ程嫌っていた私に困って電話を寄越したのである『娘さんはもうあの世へ行きましたよ』とは言えなかった。この時点では『私がそう感じているだけ』の話で、まだ彼女の生死については何もわかっていない段階であった。

これより先、12月11日に彼女から便箋7枚の手紙をもらっていた私は、7枚目の最後の行に、

「なにもかにも疲れてしまった中でようやくこの手紙を書き終わりました」という文章に何か彼女の覚悟を読めた気がしたのだ。

12月18日夫の勇一さんから私宛の電話で私なりにいよいよそのことを確信し、後は・『何時(いつ)』・『何処で』・『どのような状態で』・・『冷たく物言わぬ彼女』・が見つかるか、それだけが気がかりになっていたのである。

12月24日、クリスマスイブに友田さんに電話をかけた。勇一さんが出た。

『まだ連絡はありませんか?』幼児の泣き声がする、善大君であろう

「無いですねぇ。善大も母親が居ないのに気付いて3日前あたりからママーッ、ママーッと泣き叫ぶようになりまして・・・」

翌日の12月25日午前九時頃、友田勇一さんから電話があった。

「今朝8時30分頃晴海ふ頭の岸壁から50メートルくらい沖で・妻の遺体・が見つかったそうです。先ほど海上保安署から連絡がありました。これから現場へ会いに行ってきます・・・」

『そうでしたか・・・ご愁傷様でした。取り込み中にわざわざ連絡をいただいて有難うございました・・』後は言葉にならなかった。“話す言葉”が無かったのだ。

生まれた家で身の置き所が無く、嫁ぎ先では毎日息の詰まる思い、伴に歩むべき夫が頼りなく、関係者いずれも、勿論私も含めて彼女の強い味方になりきれなかった事情の中で、彼女なりに精一杯努力し、生き果てた結果の「人生の終幕」だった。

友田勇一さんは優柔不断により、最も大切な妻を亡くすことになった。
どんな男性も、妻を悩ますことなく、四人の親との協調を図るべきであり、心してかからないと、ほんとうに大事なものを失ってから悔やむ事になる。

本日、12月25日は、友田晴子(戸籍名友田春子)さんの、『黄泉の国へ旅立ちの日』から13回忌にあたる。・・完(合掌)




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伴に歩む人(十二)

新潟のお母さんへ撰名書を送ったあと、間もなく師走に入った。もうこの一年も終わるのかと思うと、光陰矢のごとしを実感せざるを得ない。友田勇一さんは相変わらず「友田勇一」のままらしい。

とにもかくにも友田晴子さんは晴子さんなりに懸命に頑張ってきた5年である。一部に神経衰弱の症状も見られるとあって,余り周囲から『頑張れ頑張れ』と言うのも控えなければならないと思っていた。

平成8年12月18日夜、友田勇一さんから電話があった。
「こんばんは・・・友田です。先生につかぬ事をお聞きしますが、『うちのやつ』から先生あてに最後に連絡が行ったのはいつ頃か教えていただけませんか?」

『確か今月に入って直ぐですよ。・・新潟のお母さんの病状に大きな変化は見られないから一先ず安心してください・・と言われたのが最後でしたが、何かありましたか?』

「昨日午後四時頃母の元へ善大を預けて、それっきり何の連絡も無くなったのです。もしかして先生のほうにもなにか連絡でもあったかと、お電話してみたんです。もし何かありましたら私に電話なり頂ければありがたいのですが・・・」

『わかりました・・・ところで、ご主人、あなたにお聞きしますがやはり撰名は使わなかったのですね?あなたのやり方を観ていると、妻子を守るという本気さを全く感じられませんでしたからね』

「親が撰名の使用を嫌がるものですから・・・」

『前にも言いましたが、私は頼まれればあなたのご両親に会う気でいましたよ。それもあなたに断られましたがね・・・』

「そのこともやっぱり親が嫌がったんですよ・・・」

何たる事!この人は女房の悩みに耳を貸さず、未だに特に母親の言いなりなのだ。これでは奥さんを守れないはずだ。

『もう奥様は・・あなたとあなたの家族(両親)に絶望した・・と思います。私はヒシヒシと奥様の覚悟を感じます。もう駄目かも知れません。あなた方も・相応の覚悟をしたほうがいい・と思います。それでも若し連絡があったらあなたにお教えしますよ』・・これだけは言うまいと思っていたが晴子さんの無念を代弁するつもりでついに言ってしまった。

「・・・・・・」

『友田さん!聞こえていますか!?』

「・・・はい」

『仏の顔も三度と言いますが、あなたに何度も忠告し、進言したのは解っていますよね!・・・』

「はい・・・」

その人にとって大切なものが何なのか。大抵の人はそれを失って初めて解るのだが、それが手にあるうちは、なかなか気付かないでいる例が殆(ほとん)どである。

この友田勇一さんは12月17日午後四時以降になって奥様の晴子(戸籍名春子)さんが連絡を絶ってから初めてその容易でない事態を感じ取り、“慌て、うろたえ、困り果て”私のところへ電話を寄越したのだ。・・・十三(最終回)へ続く。




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伴に歩む人(十一)

「わかりました。話してみます・・・」と彼は言うものの、声が弱々しく何となくシャキッとしない。―もう駄目だな!―

「自分の親と妻の親、“この世にたった四人の親”は自分が面倒見るぞ!」、というような覇気(はき)や勢い,あるいは自信というべきものが彼からはまるで感じ取れないのである。

やっぱりこの五年間『友田勇一』そのままで暮らして来た様だ。

『もうはっきり言いますが、あなたがちゃんとしないと奥さんは・あの世を選ぶ・事になりますよ!そこまで追い詰められてしまうのだという事を確りと頭に入れてくださいよ。奥さんはあなたのそばに居るしかない人なのですよ。あなたが守るしかないでしょう!。お願いしますよ!』

10月末になって突然彼女から電話連絡があった

「先生、私、新潟に来ています。母が腎臓ガンといわれ、今病院から帰ってきたところです。近いうち手術を受ける事になります。」

『大変だね、お父さんはなんと言っていますか?』

「・・・今月の初め・・・両親はもう離婚しました」

『ああ、やっぱりねぇ・・・そうでしたか』

「母の癌も先生に予想されていましたよね、それで私なりの覚悟はしていましたから・・・」

以前に晴子さんに話していた母の癌発症予想(体のどの場所かはわからなかった)など完全に外れて欲しかったのが私の本音だったが・・・実生活の中でお母さんは夫から受ける長い間のストレスが発症の一番の原因だった筈である。

「母は新しく借りた小さな部屋へ移ったばかりです。大した荷物も有りませんので引越しもあっという間に終わりました」

『重ね重ねの心労だと思いますが私の立場ではただあなたに・頑張るように・と励ます以外にどうしようもないです。もう離婚したので
お母さんがその気なら私から旧姓の撰名か改名を提供します。それを使い、肌着に書いて着用し、病と闘っていくしかありませんがどうでしょう?』

「ありがたく頂戴します。母も理解してくれています。よろしくお願いします」

『あなたも体を大切にしてくださいね。撰名か改名を使ってもらえばお母さんの元気は取り戻せると思いますが、私の心配しているのはあなたの身体のことです。くれぐれも無理をせずに自愛してくださいよ』・・・十二へ続く。


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