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医師・新開貴子 最終回 2人の子どもも医療の道へ『これからも患者に寄り添いたい』

医師・新開貴子 最終回
2人の子どもも医療の道へ
『これからも患者に寄り添いたい』

 「彼女は最初に予備校で出会った当時から『絶対に医者になる』という覚悟はどの生徒より頭一つ抜きん出ていました、ただ数学が本当にできなくて、正直、合格するとは思っていませんでした。
忘れられないのは研修医時代などに朝まで仕事の不満を聞かされたこと。彼女が人間関係をうまく築けないことが原因と思われがちですが、僕はそうは思いません。学閥など閉鎖的な慣習が多い医療の世界に、周囲の人たちよりかなり遅く、また普通の感覚で加わった彼女は、そのギャップに苦しめられているように見えました」

母親の代わりに子どもたちの弁当作りの大半を担っていたという充雅さん。現在3人の子らがそれぞれに医療関係を目指していることについては「幼いときは、運動会や参観日にも来てくれない母親を恨みもしたでしょうが、母が患者さんのために身を粉にして働いている後ろ姿や、医者を目指した最初の思いは、あの子たちにもしっかり伝わっていたんだと思います」

その我が子たちについて貴子先生自体はこう語る。
「長女は私立大学の薬学部の2年生で、長男はハンガリー留学中で医学部1年生、高1の次男は吹奏楽部で、今は音楽か医学かで悩んでいる最中のようです。
私の影響?それはないです(笑)。私の記事が地元の新聞などに出ると『いや違う』『恥ずかしい』なんて言っていますから」
そう話しながらも嬉しそうに母親の顔になるのだった。
「年齢やキャリアを考えても、私は大病院で手術をバリバリと、というタイプとは違います。ただ病気で困っている人がいたら駆け付けたい。
患者さんの肩もみをしながら会話するだけで、お元気になることは実際にあるんです。その原点はこれからも変わりません

 60代を目前にしながら、ギリギリの睡眠時間で患者に寄り添い続ける貴子先生の奮闘の日々は続く。  終り
取材・文・堀ノ内雅一


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医師・新開貴子⑨とことん話し合って離婚・体の不自由な母と同居

医師・新開貴子⑨

とことん話し合って離婚
体の不自由な母と同居

 更にインタビューを終えた数日後、こんなメールが届いた。
〈取材では、偉そうなことを言ったかもしれません。私が医師を目指したのは、父の死をきっかけに誰かを救いたいと思ったというのはその通りです。そして今、私は誰かのために診療していますが、実はその行為の中で、寂しさを感じている人と、かつての自分を重ねていて、一番救われているのは私自身なのだと思います。


「貴子ちゃんが幼いころ、私は本当に自分の仕事にかまけて放っておいたから、寂しい思いをさせてしまったという悔いがあります。だから、福岡でも名古屋でも孫たちの世話をしに島根から駆け着けたというのは、正直、当時の罪滅ぼしの気持ちもありました」そう語るのは貴子先生の実母の睦子さん(86)。昨年9月から名古屋市内のマンションで母娘の同居が始まったが、実はそれを機に貴子先生は人生の大きな決断をしていた。

「要介護1で、両膝も人工関節で歩行が困難になった母を島根から呼び寄せました。その時母が娘である私との二人だけの暮らしを強く望み、私もそうしてあげたいと思ったことから、夫婦でとことん話し合い、昨年3月に私が家を出る形で離婚し、旧姓に戻りました。時分わがままを押し通したことになります」
幼いころに失われた母と娘の時間を取り戻すために、貴子先生には必要な時間なのだろう。 
「決していがみ合って別れたわけではない」との言葉通り、現在は前島教育研究所代表の充雅さんもコメントを寄せてくれた。         続く
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医師・新開貴子 ⑧待っていた看護師からの嫌がらせ

医師・新開貴子⑧
待っていた看護師からの嫌がらせ

「でも、研修医となっての2年間は、いつもロッカー前で泣いていましたね。手術室で、大先輩の男性医師から、指示と違うからと、オペ中に『出ていけ』と言われたり。これは自分が未熟だからと耐えましたが・・・」

納得できないこともあった。
「理不尽だったのは、一部のベテラン看護師さんからの無視や、わざと足を踏まれることなど。若い男性医師と私の二人でいて、明らかに私が前にいるのにスルーされて、男性医師にだけ『先生、お疲れ様です』と。
“こんな年取って医者になってどうするの”と言う事の様でしたが、やっぱり落ち込みました。

 研修を終えると、自分の体験を生かせるとの思いから産婦人科を選択。その後は救急医療も行う基幹病院や自毛植毛を扱うクリニックなどを経てコロナ禍の22年には、医師不在となっていた愛知県幸田町の日高医院へ。
「薄毛治療の自毛植毛に関わったというのは、私自身がかつて抜毛症に苦しんだ過去があったからです。
やがて大病院から地域医療まで体験する中で、以前から関心のあった在宅医療への思いが強くなって、23年春に名古屋大学病院の研修登録医となりました」
 そして現在、平日は冒頭のクリニックを含め、3つの名名古屋大学病院の関連医療施設で勤務。

「土日のほとんども医療アルバイトの日々です。休んでいる時間はありません。未だ奨学金の返済の真っただ中で、ようやく半分を返せたところでしょうか。

ただ、以前と違うのは、子どもたちも自立して、自分のことを振り返る余裕も少しできました。
つくづく思うのは自らの役割に気付いて一歩踏み出すことの大切さ。年齢とか、子どもがいるとか、お金がないとか、成績が悪いとかは関係ないんです。夢を持ち続ければ、いつでも挑戦できるということをお伝えしたいと思って今回の取材も受けました」  続く

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医師新開貴子⑦ 3度目の挑戦で医師試験に合格するも・・・

医師・新開貴子⑦
3度目の挑戦で医師試験に合格するも・・・

「いつも頭にあったのはお金のこと。まず入学金が約800万円で、諸経費を引いた年間の学費が約600万円。学ぶために最低限必要な金額だけでも、我が家には全く余裕がありません。

子供も増えて、貯金もすでに底をつく状況でしたから、頼みの綱は奨学金。
島根県のへき地医療関係の奨学金を申請してもとても足りずに、結局、7か所の奨学金を受けることになります。総額ですか?その後の留年もありますから、全部で家3軒分となりましたね」

更に大学2年、42歳の時には高齢出産で次男が誕生。6歳、3歳、0歳と3人の子どもたちは皆最短の生後50日から保育園に預けた。このころ、充雅さんも退職して愛知で教育コンサルタントとして独立し、家族がそろう。

「私は朝6時に起き8時に子どもと保育園へ夕方7時ごろにお迎えに行って9時に寝かし付けると。それから大学で24時間開放されている学習室に行って勉強し深夜2時に帰宅して寝ていました。

ただ私の母も島根から、来てくれたり、義理の両親、夫の援助があったからこそ成り立った両立生活で、家族には感謝しています」しかし、本人御頑張りや周囲の協力も空しく、留年が続く。

「なぜかラストの試験で必ず落第点を取ってしまうんです。考えるに小中学生の時の先生に『お前はダメだ』と言われ続けたトラウマがあって、ここぞという試験でアガってってしまう。

 この悩みは、ヒプノセラピー(催眠療法)を受け解消できました。

 またこのまま国家試験に受からないのではないか、という不安が消えずに、うつ状態になって眠れなくなり、睡眠薬の量を増やしても効かない睡眠地獄に陥ったりも。この時は朝まで夫に愚痴を聞いてもらって、何とかしのぎました」そして53歳の時、
3度目の挑戦で医師国家試験に合格。

 医師を志して22年目の悲願達成だった。続く

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医師・新開貴子⑥搾乳しながら入試に臨むも

医師・新開貴子 ⑥
搾乳しながら入試に臨むも――

 何とか間に合ったとホッとしたのもつかの間、今度は健康診断書が要る、と。
実はその時二人目の子を妊娠していて、レントゲンを簡単に取れない。
都内を駆けずり回って、ようやく対応してもらえる病院を探し当てて提出しました。

そこまでやったのは、当時、点数は取れているのに年齢ではねられた女性受験者がいるというウワサを耳にしていて1年でも早く受かりたいと思ったんです」
結果は不合格だったが、後に有名医大が女性や年齢を重ねた受験生を入試で不利に扱っていたということが発覚。彼女の焦りも全く杞憂(きゆう)ではなかった。
「その後39歳で長男を生みました。ずっと妊娠、子育ての中の受験でしたから、試験の最中も母乳のせいで胸がパンパンに張って、休み時間にトイレに駆け込んで授乳したり、酷偽りで急激に5キロもやせて脱水症状にも陥り、3か月入院したりも。

そんな中でも頑張れたのは、1月のセンター試験という目標が有ったから。
とはいえ、もう受験直後の自己採点で、合格圏内にはいかないとわかるんです。

すると落ち込んで冬眠状態に陥り、もう誰にも会いたくないし、桜が咲いても見たくもなかった」

そして長女が3歳、次女が1歳になるという年だった。
「さすがにこどももどんどん大きくなりますから、今年ダメだったら諦めようと思っていました。そしたら受かったんです」

8度目の受験、チャレンジで、ようやく、“サクラサク”の報が届く。
40歳になる直前だった。

愛知県名古屋市の藤田保健衛生大学
(現・藤田医科大学)に合格した瞬間から、喜び合ったのも束の間、夫婦の深い苦悩が始まる。   続く
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医師.新開貴子⑤ 受験を通じて知り合った11歳年下の夫。

医師・新開貴子⑤
受験を通じて知り合った11歳年下の夫。

「まず近所の個人塾に入って、因数分解どころか、中1の計算問題から始めました」
その後、松江市の予備校に行くようになり、ここで後に夫になる前島充雅さん(47)と出会う。
「彼は横浜国立大学数学科を中退して医学部を受け直すという、つまり、医者になるという同じ目標を持っていました。ただ歳は私の方が11歳も上で、正直、恋愛感情はありませんでした。数学を教えてもらおうという下心で(笑)私からアプローチしたんです」

 ところが同じ目的に向かって共に学んでいく中で、互いに惹かれ合うようになる。予備校2年目には、志望を変更した充雅さんが九州大学工学部に合格。これを機に34歳と23歳で結婚して福岡での新婚生活が始まった。一方貴子さんは目指す国公立大学医学部に合格できずに家事をしながらセンター試験を受け続けていた中で、長女を出産。36歳にしてママ受験生となった。

「実は前年に流産していましたから、子どもができたのは、本当にうれしかった。医学部受験をするからと言って、子どもを諦めようとは思いませんでした。自分がさみしい子供時代だったから、賑やかな家庭も欲しかった」

やがて九大を卒業した充雅さんが王子製紙に就職して北海道苫小牧市での勤務となり、家族で転居。貴子さん自身も、全く歯の立たない国公立だけでなく、私立大学も受験するようになっていた。
こんなこともあった。
「社宅から市内の書店に行ったとき、偶然都内の大学医学部の願書が目に留まるんです。『当日受付有効』とあり、その期限が明日と知った途端、ベビーカーの長女を連れて千歳空港から羽田行き飛行機に飛び乗っていました。                  続く


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医師・新開貴子④医師を目指した直後に最愛の父が

医師・新開貴子 ④
医師を目指した直後に最愛の父が
 東京女学館短期大学では辛うじて好きだった英語を専攻した。「周りはお嬢さんだらけで自家用車での送り迎えもある中、多分、自転車通学は私だけ。

 家賃9000円のアパート。弁当販売店でのバイトなど苦学生の生活だったが、家族のわずらわしさから解放されて充実した毎日だった。卒業後は東京でレナウンの海外事業部に就職し、3年後には日本航空に転職し、羽田空港でグランドホステスとして勤務する。

「大好きな高倉健さんのチエックインを3回ほど担当したのは、忘れられない思い出です」
しかし短大を出て社会人になって、順調に過ごしているように見えるが実際は違っていた。
「もう上京してすぐから拒食と過食を繰り返す摂食障害が始まっていました。一時は体重も一気に15キロぐらい落ちてしまって」
心身に限界を感じ、帰郷を決意した。そして「摂食障害に成ったり。人間関係をうまく築けない自分の心の正体を知るために、心理学を学ぼう」そう思い、26歳の時に島根大学にOA入試(総合型選抜)で入学。以降実家の薬局を手伝いながら臨床心理士を目指した。

「勉強を続ける中で、私の根っこには“母に見捨てられた”という消化できないままの感情があると改めてわかってきました」

座学に加えて2年間にわたり、アルコール障害や摂食障害のセルフミーティングに関わる中である思いに至る。
「私の理想とする医療をやろうと思ったら、自分自身が決定的な判断を下せる立場にならなければできないのではないか、と。その時初めて医師になりたいという思いが芽生えました」

32歳の決心を「応援するよ」と誰より喜んでくれたのが、父親の邦洋さんだった。

 当時、邦洋さんは近所で中華料理店を営んでいた。
しかし、そのわずか半年後の1997年9月半ば、貴子さんは顔見知りの酒店店主から、父の店が2日間も閉まったままだと聞かされる。
「胸騒ぎを覚え、合いかぎで店に入ると、父が厨房の血の海の中で倒れていました。救急車を呼びましたが私は意外に冷静で、もうダメだなと思っていました。
その後警察により、自殺と判断されました。60代半ばだった父は、持病の糖尿病があった上に酒浸りだったし、何より私や家族と離れて一人で暮らす寂しさも大きかったのでしょう」そして貴子さんは思う。
お父さんが苦しんでいるのに、私は何もしてあげられなかった。父のように病に苦しみ、自ら死を選ぶ人を救いたい。患者さんに寄り添い、体も心も支えたい」最初から始めたのは中学の数学からやり直すことだった。続く
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医師-新開貴子③ 両親はいがみ合いの後離婚

医師・新開貴子③
両親はいがみ合いの後離婚

「物心ついたころには母がクラブや薬局を経営していて、すごく繁盛させていました。父はもともとバーテンダーで、その後は母の仕事を手伝ったりしていました。
1965年(昭和40年)3月17日、島根県松江市に生まれた貴子さん。
「自宅1階がクラブで、その2階が私たちの住居でしたが、両親は何時も不在で、私と一つ年上の兄は生後3か月から近所に住む子守のおばあさんに育てられ、しつけもしてもらいました」
幼稚園から小学校、中学校と、島根大学の教育学部付属高校へ。
周りは、親が大学教授や医師など教育熱心なご家庭ばかりの中、、射ちは勉強に集中できるような環境ではなかった。
『水商売の家の子とは付き合うな』と親から言われている同級生も居て、私はつらくて、母に『クラブをやめてくれ』と訴えたことも。

先生からもほったらかしの私は、クラス42人中の41番か42番の成績で、もう一人の男子といつもビリを争っていましたね」
家庭にも学校にも居場所がなかった。

「劣等感と孤独に苦しみ、4歳ごろから始まった自分の毛を抜く癖がずっと続いていました。後に、“抜毛症”という病気だと知るんですが。きっと母が夜も居なくて寂しかったんでしょう」

中学校卒業後は周囲の同級生たちが進学校に進む中、「偏差値が足りず」に私立の女子高へ入学。両親の離婚はその直後だった。
「母は家にはおらず、父も外に女の人がいたりで常にいがみ合っていたので、娘の私でも離婚は当然の結末と思いました」
高校を出ると、地元での暗い生活を何とか断ち切りたいと思って、上京します。とにかくあの家から、島根から出たかった。続く

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医師・新開貴子さん② 成績最下位の劣等生だった少女時代

医師・新開貴子さん


成績最下位の劣等生だった少女時代
医師を目指した直後に最愛の父が




 女性患者の顔から当初の不安気な表情が消え、笑顔で続ける。『診察も丁寧だし、何でも話せる貴子先生が大好きだ
よ』
その後も血圧測定や服薬の指示など一時間ほどの診察を受け、「また来ますからね、お大事にしてください」

 往診用のカバンを手に車まで向かいながら貴子先生が言う。「私が話しやすいというのは、きっと娘さんと同世代だからでしょう。私自身も、自分の母親と会話するような気持ちで向き合っています。今日のように、患者さんが元気になる姿に接するたびに、ああ医師になって良かったと思うんです」
快活な口調で話す貴子先生は、異色な経歴の持ち主だ。
58歳にして、医師歴まだ5年というキャリアがその事実を物語る。

医師を目指したのが32歳の時。

 その後7浪して40歳で医学生となり、3人の子どもを育てながら、53歳で医師免許を取得した。最初に医師に成ろう思ったとき、一番身近で背中を押してくれた父はその半年後に不慮の死を遂げている。

 当時を振り返って言う。「小中学校を通して成績もずっとクラスで最下位だった自分がまさかお医者さんになるなんて、夢にも思っていませんでした」
以外にも少女時代の貴子先生は「劣等感と孤独感の塊だった」というのだ。          続く
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人間シリーズ・32歳で一念発起・54歳で夢をかなえた医師-新開貴子

シリーズ人間
女性自身
2024年3月5日号
医師・新開貴子・58歳
32歳で一念発起
22年目に夢かなう

 貴子先生――。そう呼ばれるようになって彼女はまだ5年足らず。でも醸し出す雰囲気はベテランの風格がある。人生経験と医療への情熱だったら、だれにも負けない。

 なんせ21年も思い続けてようやく医師に成れたのだから。
劣等性だった少女時代、7年の浪人生活。3児を抱えた医学部時代・・・。
そんな苦労が彼女を患者に寄り添う優しい医師に育てた。

落ちこぼれの少女が貴子先生になるまでの物語――。
「こんにちは。お体の加減はいかがですか?」
「それがね先生。2日前に歩行器に手をかけた途端にダーッと転んでしまって、腰が痛いのよ」
1月末の月曜午後2時過ぎ。愛知県春日井市で一人暮らしをする84歳の女性宅。要介護2で呼吸器疾患の持病もある女性は訪問医の到着を待ち侘びていたかのように、一気にしゃべり始めた。やがて医師は横たわる女性患者の隣にしゃがみこむと「めまいはどうですか」
「やっぱり立ち上がる時が遺憾。でも、今日はめまいも腰も少しラクになって、大好きなラーメンを食べられたよ」
「寒い日は温かいラ―メンがおいしいですよね」聴診器を胸や背に当てる間も会話を途切れさせることなく診察するのは、医師の新開貴子さん(58)。今日も所属する勝川よろずクリニックから、看護師と二人で車で20分ほどかけて在宅診療にやってきた。続く
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