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妻・夏目雅子と暮らした日々・六

 

スターダムへ 

夏目雅子(総格30画=大凶名:浮沈波乱の病弱短命運←永人)になってからは、それは驚くほどの勢いでスターダムに昇って行くのを応援しながら見ていました。

 再会したのは一年後くらいでしたが、今は失くなりましたが六本木の狸穴にある蕎麦屋でした。

 その店で私がかなり酒を飲んで帰ろうとしたら店の女将が駐車場まで来て、

飲んで運転しては困るから車は置いて行ってくれ」と言うんです。

 あの頃、飲んでも平気で運転する人が多かったんです。すると彼女が女将に、「私が運転しますから」と言い出して、送ってくれたんです。

 「免許はあるんですか」と聞くと

「無い」 と言われてびっくりしました。

「でもお父さんの車を内緒で運転したことがある」って

 その時彼女は少し痩せていて顔色もよくなかったんです。

「大丈夫ですか」と訊くと

「連絡するのでまた蕎麦屋に連れて行って下さい」と言われました。

 それから半年ぐらいしてまた再会しました。

 もう、“女優”さんでした。

 それでもスターぶったところが全然なくてパリで逢ったころと同じでした。

 私は“結婚していましたし、子供もいましたから”付き合うということはまるで頭にありませんでした。

 当時彼女は山の手の大きな邸宅に住んでました。

 私は学生時代の後半、横浜で沖仲仕なんかをやってましたからドヤ街の近くの焼き鳥屋や立ち飲みの酒場や、鮨屋に一緒に行きました。

 誰にでも気さくで天真爛漫でしたね。人を分けへだてすることがない。

 そういうことを知らないんだと思うんです。

 しかしそういう付き合いも長くは続きませんからね・・・

 マスコミに発覚して、クライアントが制作会社に事の真相をただしてきました。

 会社に迷惑があっては、と、その日に私は辞表を出して辞めました。

 マスコミにはひとつの記事でしかないでしょうが人間一人、職を失うこともあるんですね。

 しかしその会社は退職後も一年給与をくれました。犠牲にしてしまったという気持ちもあったのでしょうが、いい社長さんでありがたかったです。  七へ続く

 

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妻・夏目雅子と暮らした日々・五

モデル採用への決断

 最上階と言っても狭くて粗末な部屋でした。天井裏ですね。メインのモデルと違いますから、仕方ありません。その部屋の天窓から月明かりが差していたベッドサイドにちょこんと女の子が一人座っていました。

 女の子というより何か小動物というか、小鹿みたいな感じでした。

 振り向いた顔を見ると「ずいぶん古風な面立ちのモデル」を選んだんだな、というのが第一印象でした。

 その時十九歳になったばかりで女子大生に見えました。「パリも日本とおなじ月なんですね」そんな言葉を最初に聞いた気がします。

 「一生懸命頑張りますので、よろしくお願いします」とはきはき挨拶されました。

 その夜、食事の後で私はクライアントと制作の責任者に提案をしました。それまでモデルはすべて外人でしたが、

 「日本人女性のモデルでやってみてはどうでしょうか」

 「どこにそのモデルがいるの」

 「パンフレット用で来ている女の子はどうでしょうか」

 それで皆なして彼女にもう一度逢いに行きました。

 よく決めてくれたと思います。

 皆若かったのでしょうが、賭けてみようということになりました。

 それで撮影地もアフリカのサハラ砂漠にしました。

 大変な撮影でした。ラクダを集めてくれと注文すると三日三晩砂漠をかけてやってくるんです。

 朝テントを出るとラクダだらけ。

 彼女、初めてラクダに乗っての撮影も、もともと運動神経がいいんでしょう。難なくこなしていましたし、砂漠を走るシーンも炎天下で何度もトライしていました。

 頑張り屋でしたね。サハラからスペイン領のカナリア諸島、パリでの撮影・・・と強行軍の撮影を無事にやってくれました。一か月が過ぎると顔が変わってましたね。

 人の注目を浴びることでの変化というか、おそらく本来内に潜んでいたものが表出しはじめたんでしょうね。

 最後はフランス“ヴォーグ誌”の表紙になって撮影してもヨーロッパの一流のモデルと比べてもそん色ありませんでしたから。 六へ続く

 

 

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よろず世の中142・なぜ死を選んだのか・学歴立派な県議

よろず世の中・142

 なぜ死を選んだのか

学歴立派な県議

 (神戸大学法学部卒・筑波大学大学院修了)

 病院非難でブログ炎上の岩手県議が、6月25日、冷たい体で発見された。

盛岡市北山の小泉光男さん(56)だ。

着衣に乱れがなかったことなどから、自殺と見られているが、そこまで追い詰められていたのか?

★★

 小泉光男(3・9・6・7)運気20点大凶名。

運気20点は相撲の位でいうと序二段です。

 ちなみに小沢一郎氏や小泉進次郎さんは運気100点で相撲の位で言えば横綱ということになります。

 天格・小泉  12画

人格・泉光  15画大吉

地格・光男  13画大吉

外格・小男  10画大凶

総格・小泉光男25画 吉

空虚無限の苦難多発、苦労困難、病弱短命運

 ☆★☆

 小泉さんは県立病院で受診した際に、番号で呼ばれたことに激怒し、6月5日、自身のブログに「ここは刑務所か!!名前で呼べよ」

 「会計をすっぽかして帰ってきた」と書き込み抗議殺到で炎上した。9日にブログを閉鎖したが、批判はやまず、「思慮に欠けた表現で世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」と謝罪した。

 「謝罪会見後も県議会事務局には『何で小泉をやめさせないんだ』といった比判の電話やメールが殺到、先週末までに762件も寄せられた。

 小泉さんは精神的に完全に参ってしまい、食事も喉を通らない状態だったんです。すっかり人目を避けるよになり、出席予定だった24日の議会運営委員会にも姿を現さず、家族も本人と連絡が取れなくなっていた・・・」(県議会関係者)そして6月定例県議会の閉会日だった昨日,“冷たい体”で見つかった。

 大志田ダム付近の川べりで、「鞄を枕にして横たわっていました。目立った外傷はありません」(捜査事情通)作家の乙武洋匡氏や、川越達也シェフのように、ツイッターやブログが炎上してもやり過ごせるタイプもいるが、小泉光男さんは、3週間余りで死を選んでしまった。

 地元では「何も死ぬことはない」という声もあるらしい。「小泉さんは神戸大学法学部卒、筑波大大学院修了で、住宅会社でサラリーマン経験を積み、二戸市民文化会館館長から、県議になったインテリですサービス精神が旺盛過ぎて余計なことを口走り,それで誤解を招くこともありましたが根は生真面目で、繊細なところもあった。

 プライドも高かったので、ネット上で散々叩かれ頭のおかしいクレーマーみたいに罵られることに耐えられなかったのでしょう」(前出の議会関係者)

 政治をやるには、余りにも線が細すぎたのか?

 否、人を毛嫌いし、人に毛嫌いされ、自律神経失調の要素が濃く、言語に圭角があり、社交上、事業上に重大な支障を生ずる“運気が示す通りの短い人生”だったと言える。 ―合掌―

 

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妻・夏目雅子と暮らした日々・四

馴れ初め

 彼女と初めて会ったのは、一九七七(昭和52)年の一月、パリでした。今もありますが、ノルマンデイホテルの天井裏のような一室でした。

 私は当時、広告制作会社のデレクターをしていて、その会社のメインクライアントが化粧品会社でした。その化粧品会社の夏のキャンペーンの製作で、私はスタッフよりも一足先にパリに行き、撮影の打ち合わせや、キャンペーンソングの制作にロンドンに出かけたりしていました。

 当時の化粧品会社(カネボウ化粧品←永人)の広告にかける費用は大変なもので私が契約していた制作会社では、そのキャンペーンに社員のほとんどがかかりっきりでした。

 眞夏のキャンペーンの制作を冬にするんです。前年から企画を提出し、その年も製作が受注できて順調に進んでいたのですが、モデルに起用した俳優とパリでの最終契約段階になってトラブルが発覚しました。

 詐欺まがいのことに巻き込まれ、企画すべてが頓挫してしまい契約していた制作会社の社長が急遽日本からパリに来て、それは見事に事態を収めてくれました。

 ところが、事件がすべて解決した後でこう言われました「君もクリエーターなら制約のないものを一度は作りたいだろう。好きなものを作れ、ただし、ヒットしなくては許さんぞ」そう言ってさっさと飛行機に乗って帰りました。

 翌夕には大勢のスタッフがパリに来ます。

 起用しようとしてトラブルになったのは、フランスの男優のジャン=ポール・ベルモンドでした。

 女性化粧品に男性を起用するのが斬新だと企画が通ていたのです。一からやり直して、一晩でクライアントの担当とすべての企画を作りました。

 翌日パリのモデルエージエンシーでモデルのオーディションを始めました。

 ところがこれというモデルがいないんです。

 翌日も百人近いモデルを集めてくれるように頼みました。

  夕刻スタッフがホテルに到着しました。その中にキャンペーンのパンフレットや小冊子用のモデルとして

小達雅子(おだて・まさこ=人格28画、総格34画大凶名:万事行き詰まりの破滅・破壊運←永人)さんがいたんです。

 スタッフに連れられて彼女のいる最上階の部屋に挨拶に行きました。五へ続く

 

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愛する人との別れ・三

 白血病

白血病については日本は広島、長崎での被爆国ですから、その治療法、研究、情報では世界の中で先進している方ですが、アメリカの治療が圧倒的に進んでいました。

 今は日本も当時と比べ物にならないほど進んでいるそうです。

 そのときの習性か、今でも血液癌の医療雑誌を読むことがあります。詮方(せんかた)ないことですが、今日なら生還できたのではと考えることがあります。

 一九八五年の二月に入院して、梅雨に入る頃には二度目のアタックに入り、治療中は無菌室をセッティングするようになりました。

 少しずつ強い薬を使うようになり、アタック直後からの白血球がゼロ状態のときの感染症が一番危険なので、菌の侵入の防止のためです。

 私も消毒した衣服で入室していました。雨の多い五、六月でした。病院の裏手の焼却炉のそばで軒先から滴る雨垂れを見ながら、たばこを吸っていた記憶があります。

 病院での日々というのは、こちらも神経が昂っていますから普通の日々より速く時間が過ぎたように思います。ただ当人は退屈する時もありましたが、マスコミのこともあり、散歩にも出してやれず可哀相でした。

 性格が明るい上に、向上性というか。物事に興味を抱くと、それを実際に見てわかろうとするので、病室の日々には不満もあったでしょうが。でも不満は一度も口にしませんでした。

 私でしたら、とてもじゃありませんが、点滴を外して外に飛び出していたでしょうね。よく耐えたと思います。

 そうできたのは当人の強靭な意志でしょうが同時に私が仕事を休止して付き添っていたことで、頑張らなくてはと思ったのではと、後になって思いました。

 数日くらいは病院を飛び出して、「何が治療だ」という気分で好きな場所で思いきり好きなことをさせてやるべきだったのではと思います。

 その悔みは「“生還”にこだわりすぎた私の誤ち」ではなかったかと思っています。

 私には「生きる」とは何なのかまるっきり分かっていなかったんですね。若かったこともあるでしょうが、それ以上につまらない観念にこだわっていました。  四へ続く

 

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愛する人との別れ(妻・夏目雅子と暮らした日々)

愛する人との別れ

 妻・夏目雅子と暮らした日々

 

「あなたはまだ若いから知らないでしょうが、

哀しみにも終わりがあるのよ」

 一、

週刊誌からの原稿依頼

 女優、夏目雅子が亡くなって二十五年の月日が流れました。いまでも彼女の命日の前後には私の故郷、山口県防府市の我が家の菩提寺にある墓には、遠くから関係者の方やファンの方が墓参に来られます。ありがたいことだと思います。

  2010年初夏、週刊現代の編集長から「夏目さんの特集をしたいので文章を書いてもらえないか」と申し出がありました。

  どうして、と思いましたが同誌で一年前から連載を始めたコラムに一話だけ夏目雅子の死んだ当日の話を少し書いたのが理由だとわかりました。

 これまでほとんど彼女に関する文章も書かず、取材も受けずに来ていたのですが、そのときのテーマが人間の生死に関することだったので、その逸話が一番伝わりやすいと思って書いたのです。

 原稿を受け取った担当者も少し驚いて「これ掲載していいのでしょうか」と訊かれたので、「かまいません、彼女のことを文章にすることで家族〈妻のこと〉には前もって話しましたしどうぞ掲載なさってください。と話しました。

 そのコラムを読んだ友人から酒場で、書いたんだね.と言われ、もういいだろうと思ってね。と返答しました。

 この「もう」というのが正直な気持ちで、それが二十五年という歳月のせいなのか、周囲の状況なのかははっきりしませんが、そのコラムは敢えて書くようにしなくとも書けたので、感情を揺さぶられることもなかったのです。

 これまで彼女に対する取材、執筆の依頼を受けなかったのは、彼女の死後、私の父親と話して、どうしたいのか、と訊かれ、死んでからは静かに過ごさせてやりたい、と話したところ、父親も同じ意見だったので、葬式も納骨も一切マスコミ取材を断りました。

 今となってはそれが良かったのかどうかわかりません。大勢のファンの方に慕われていましたから,皆さんに送ってもらうのも一つの方法だったでしょう。

 しかし、入院中のマスコミの取材も度を超えていましたし、写真誌やワイドショーのカメラを止めるのに病室で苦労しましたから。(そういう取材が当たり前の時代だったんです)二へ続く

 

 ☆☆

 いつ死んでもおかしくないよ

 

白血病と宣告された時、医師は「いつ死んでもおかしくありません、明日にでもです」と言いました。

 ただ当人はいたって元気で入院の日も車イスに乗せると喜んでいるくらいで、そんな状態の若い人に、血液癌と伝えることはとてもできませんでした。

 当人への宣告はやめようと家族と決めました。

 “必ず生還させる”これが医師と私を含めての周囲の覚悟でした。

 医師からも「著名な方がこの病気を克服して社会復帰されると同じ病気と闘っている患者さんの励みになりますから」と言われました。

 その話を聞いた時は「そんなことまで背負わせることはない」と思いました。マスコミの取材を止めたのは、治療のクールが始まる時以外は当人が極めて元気でテレビ、雑誌を見たがるからです。

 そこで不治の病いなどと名前を出して報道されたらたまりませんから。ですから入院中の彼女の楽しみの大半は映画のビデオと読書でした。

 二百九日間の入院生活でしたが、当人は本当に治療に励んでくれました。生来の明るい性格もありましたが、泣き言を口にしたのは一度しかなかったように思います。

 私も仕事を休んで病室に入りました。其れが大人の男として取るべき手段だったかは今もよく分かりませんが、彼女の安堵になったのならばそれはそれでよかったのだろうと思っています。

 現在と違って二十五年前の血液癌の治療はずいぶんと遅れていました。日本での骨髄移植もほんの数例しかなく、その生存例も術後三年経過していませんでした。寛解治療を中心にして悪質な白血球細胞にアタックをかける治療が続きました。

 若いということは、

厳しい治療に耐えられる体力を持っている利点もありますが、同時に

悪質な白血球細胞の増殖が速いというマイナスもあるわけです。

 治療の薬は日本で開発されたもの、海外で開発されたものなどの効果のあった薬を先生が入手して下さり、第一クール、第二クールなど三か月に一度のペースでアタックが行われました。

 血液がんに限らず、一般的に癌を患った方とその家族が癌の知識、その治療法に詳しくなるのは当然で、私も血液がんに対してずいぶんと勉強することになりました。 三へ続く

  

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正月、父と母と話す大切さ・2

七十五

 正月、父と母と話す大切さ・2

 

――元気でやっています。

――仕事もなんとか頑張っています。

と顔を突き合わせて語ってくれれば、それが本当に元気なのか、仕事が順調かは親にはわかる。子供を見てきた年数が違う。

 この四、五年、一人暮らしの男の為(な)す凶悪犯罪が目立つ。後で男たちの事情を知ると、共通している点が一つある。

 それは彼らが何年も実家に挨拶に帰っていないことだ。

 実の親はテレビの取材に、子供の悪業を詫びながら、この数年会っていないと言う。

 一人前の大人が為したことを親にまで詫びさせるマスコミの報道のやり方にも腹が立つが、

 “親のことを考えない子供が増えている”ことも事実である。

 父が亡くなる直前の正月、一人で庭をじっと眺めていることが多くなった父を心配し、母が私に言った。

 「父さんこの頃静かなので少し話しかけてあげてくれませんか」私は父のそばに座り、昔話やら、自分のことを話したが、父はうなずくだけでほとんど話をしようとしなかった。

 それがある人の名前を出すと、堰を切ったように当時の話を語り始め、顔に生気が戻った。そのときの母の喜びようはなかった。

 家というものは様々な事情を抱えて、正月を迎える。

外から見る他人の目には本当の家族の心の底は決して写ることはない。

 善きにつけ、悪しきにつけ、それが家族であり、正月は家族の姿が如実に出る数日である。

 まだ二十代のころ一人東京で正月を過ごさねばならぬ年があった。

 それを知って友人が家に遊びに来ないかと誘ってくれた。尋ねるといきなり家族での麻雀に入れさせられた。

 すぐそばで友人の姉と妹たちが双六をしながら小銭をやりとりしていた。

 途中、トイレに立つと、開け放った離れの部屋で友人の祖母さんと母親が間に座布団を敷き、花札を真剣な目で引き打ちしていた。

 ――どういう家族なんだ?

 いろんな家族の正月の風景がある。終わり

 次回〈妻・夏目雅子と暮らした日々へ〉

 

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七十四・正月に父と母と話す大切さ

七十四

(75-74)

 正月、父と母と話す大切さ。

 

私は正月を生家の、母の傍で過ごす。

三年前までは父も健在だったので、三人で過ごした。

 家人は二匹の犬の移動が大変なので仙台で彼らの面倒を見てもらう。

 まあ、正月くらいは彼女にも休みを差し上げる方が良かろうという気持ちもある。

 生家には大抵大みそかの夕刻に着く。だから私は毎年大晦日の午後は駅のプラットホームか空港のロビーにひとり立っている。二十五年あまりそれを続けている。

 生前の父は、正月に子供たちの姿が一人でも欠けていると不機嫌になった。姉や妹が嫁いだあとは私だけは必ず帰省した。一度私が帰らない正月がありその年の正月の父の不機嫌さは凄じかったらしい。

 怒りはすべて母に向く。それを知ってから私は正月は家に帰り、父のそばにいるのが自分の役割と決めた。

 黙ってそこにいて、父の酒の相手と来客への相手をすればそれで済む。だから正月の旅行というものを一度もしたことがない。

 それが家の事情というものであり、それぞれ家族が引き受けるものだと考えている。

 三年前父は九十一歳で亡くなった。正月の松の内が明けてほどない冬の日だった。

 次の正月は母は寂しそうだった。しかし母はその手のことは口にしない。自分の感情を他人にも家族にも言わないし、言ったことを一度も聞いた記憶がない。

 そういう生き方をしてきた人である。最初は父の不機嫌と母の辛さを思って正月の帰省を半ば自分に義務付けていたが、十年、二十年と続けて行くと、子供たちの、息子の様子を年の初めに自分の目で確かめておきたいという父の気持ちが少しずつわかるようになってきた。

 親にとって子供は何歳になっても子供である。

 ――きちんと生きているのだろうか。

――何か憂いはないだろうか。

――本当に健康だろうか。

 それを自分の目で確かめたいのは親の心底にある愛情以外の何物でもない。七十五へ

 

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七十三・大人が葬儀で見せる顔・2

七十三

(75-73)

 大人が葬儀で見せる顔・2

 先日兵庫県の武庫川に出かけた。講演である。講演はほとんど受けない。私の話なんぞ面白くも何ともないし、聞きに来た人が良かったと思うようなことを話せるわけがないからだ。

 それでも依頼は来る。講演料を現金でもらって飲むか打ちに行く。その理由だけで人前で恥をかきに行く。

 大阪の宿から会場に向かっていてここが作家の黒岩重吾さんの家に近いことがわかった。

 そうとわかっていれば、仏前に線香をあげに行ったのに、と思った。

 H夫人にも挨拶が出来る。命日も近かった。去年和歌山にある黒岩さんの墓参に出かけた。

 海の見える美しい墓所だった。墓前で手を合わせると、

「伊集院、ちゃんとやっとるのか」と声がしそうで緊張した。

 犬なんかもそうらしいが、最初に調教を受けたり、叱られた人に対しては生きている限り緊張し、怖れを抱くそうだ。

 本当に世話になった。

 「黒岩さん、作家というのは、どんな正月を送るもんですかね」

 「阿呆言うな。作家に盆も正月もあるか、書いて書いて死んで行くんや」

 「は、はい」

 ラジオ番組でインタビューを受けた。久世光彦さんの特集だった。向けられたマイクに思ってることを話した。

「この頃、久世さんを思い出すことが多くて、聞いてみたい。打ち明けてみたいことがあるんです・・・

いや本当にダンディーだったな」

 どちらの葬儀も出た。盛大だった。

 葬儀に出席したら大人の男はどんな顔をしておくのか。式の長い短いの差はあるが、その間中、故人との思い出をじっと思い起こしておけばいい。

 嘆くもよし、笑うもよし、それが人を送ることだ。

 通夜は早く行って早く引き揚げる。それでなくても家族は疲れているのだから。残されたものを労(いたわ)る

 相手はもう死んでしまっているのだから。七十四へ

 

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七十二・大人が葬儀で見せる顔

七十二

 大人が葬儀で見せる顔

 銀座の“寿司どころ K納」が店を閉じた。店主のKさんは福井を出て、若い時から鮨の修業一筋でやってきて銀座に店を構えて三十年が過ぎた。

 私はさして付き合いは長くないが、前の店から顔を出していた。

新店からは、銀座に出かければ寄った。

これが銀座の鮨だ、という店であった。

 ――伊集院さん。これが銀座の鮨、とはどういう鮨なのでしょうか。

 ウーン、一言では言い難いが、“すべての物が一流である”といえばいいのかも知れない。

 銀座は日本で一番の街である。昼間も、日本で一等の品物を揃えた店が並ぶ。衣服から装飾品、文房具まで一流の品物を出して店を構えている。

 品物も一流なら、応対する人間もそれを要求される。昼食を出す店にしても、これが日本で一等というものをこしらえる。

 昼には昼の銀座がある。私は昼間の銀座にはほとんど足を向けない。もっぱら夕刻以降、夜の銀座だ。

 食事をして酒場を回る。それだけのことで他には何もない。

 以前は銀座に向かうとき、タクシーの運転手に「ナカに入ってくれ」と言ったものだ。

 銀座が東京の唯一、街のナカで、後の街は皆ソトなのである。

 銀座のフレンチ・イタリアンは講釈が多いので避ける。食通と称する輩が奨めた店もいっさい行かない。

 あの連中がつまらない日本語を店の中で喋り続けて、壁やらカーテンに唾を吐き散らしたと思うとドアも開けられない。

 一番は和食だ。その中でも鮨が圧倒的に多い。

 鮨はうまくできている、もともとが屋台であったのだから速くて勢いがある。味の違いが歴然としている。“寿司処 K納”に入るとまず花を見る。

 ニオイのあるものはない。葉だけのものが多いが四季は十分伝わる。

 あとは座れば握りがスグに出て、酒を飲み、ひとりなら普段考えが及ばぬことをあれこれ思いながら、つまんで、飲む。

 季節で変わる主人の背後にかかった額の作品をぼんやり見る。

 ――去年はこの絵をあいつと見たナ。頃合いで立ち、酒場に向かう。

 私はこの店を知り、主人の鮨を知ったことを好運だと思っている。

 鮨の味はよくは分からない。自分の体が主人の鮨に合って行ったのかもしれない。

 ミッシュランなるものが、滑った転んだとタイヤを転がすようなことを言っても、私は主人の鮨が銀座で一番だと思っている。

 味は人である。味も格もピカ一だった。

 先日、一人で出かけ、礼を言った。

仙台に戻り、閉店の案内状を読み直すと、おや、小さな店をやってくれるかも知れないぞ、文章の中にそんな気配があった。

 いい予兆であればいいが・・・七十三へ

 

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