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桜散る

経済運を強くする必要に迫られており、両親の了承を得て、戸籍名は『吉野武喜(よしの・たけよし)』のまま、『吉野永人』を使い始めた訳なのだが、ゆっくり説明しても彼には良く呑み込めなかったようだ「経済的な力が着くとか着かないとか、姓名に出てくる数字で決まるのですか?」『そういうことだよ』

「う~ん・じゃ僕はどうですか?」『伊藤君の場合は経済的にどうのこうのよりも、・・絶対的短命運・・という病気と寿命に気を配るべき、油断出来ない凶運気なんだよ!』「へえ~、そんなことあるのですか?」『信じられないでしょう?』「う~ん」『体調がおかしくなったら必ず私のところへ来なさいよ!』・・・

伊藤一男(6・21・1・7)天格・伊藤(27・藤は籐で21画)。人格・藤一(22画、大凶)。地格・一男(8画、大吉)。外格・伊男(13画、大吉).総格・伊藤一男(35画、大吉)。成功運:天七―人二(大凶:運命抑圧を受け、不伸、不満の結果、脳を冒(おか)され、健康を害す)。基礎運:人二―地八(大凶:常に迫迫害を受け、目下の脅威に逢う思いあり、呼吸器、神経,肺を冒す)。三才の配置:天七―人二―地八(大凶):第二型絶対的短命運・発狂、神経衰弱、肺病,脳病、その他、長患、難治の病症にかかり(罹り)、短命に終わる。・・・

天寿を全うしがたい凶運気なのである。以上を紙に書いて説明しても伊藤君は苦笑いしているだけだった。同じ市内にいながら何の連絡も無いまま、昭和58年4月上旬、石巻地方の桜が咲き始める寸前に、彼は35歳の若さで肝臓とすい臓癌のため逝ってしまった。私は言葉を失った。

『日本大学、桜の象徴、伊藤一男という男桜』は、かくも早くに散ってしまったのである。
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桜咲く

昭和41年4月私の母方の遠縁に当たる石巻の伊藤一男君が『桜咲く』の祝電を受け取ってめでたく日本大学商学部、会計学科に入学し、十条の私の叔母宅へ下宿した。将来公認会計士を目指したいという明るく真面目な好青年で、彼には3歳年上の叔母宅で働いていた姉が居た。二人はいつも仲がよかった。

さてこの一男君が三年生の時、夏休みで石巻に帰っていた。たまたま社会人になって盆の墓参りで石巻へ日産スカイラインという車で帰った私は母親の元で一泊し、「早目に帰京したいので乗せて行ってください」という連絡のあった一男君宅へ寄って彼を乗せ、夜10時に石巻を立ち、仙台から国道6号線を南下した。

福島県原町市を過ぎたあたりで、眠気が差し、運転免許を取って間もない一男君に『大丈夫です。僕に運転させて下さい!』と言われ、大げさに言えば『彼に命を託し』助手席でしばし仮眠させて貰った。松戸市付近で私と運転を替わり、早朝5時20分頃、無事、十条に着いた。・・・運転しながら将来の夢を熱く語る彼の話振りは頼もしかった。
 
さてその彼が昭和45年に卒業して石巻の会計事務所に入り、働き始めたが、私も46年12月に石巻へ帰る事になった。昭和49年4月、『千葉海事工業株式会社・常務取締役』と、今で言う『物凄く責任の重い、名ばかりの管理職』を務めていた。ある事情で私の兄弟から孤立の状態になりつつあった私は、伊藤一男君と、時々腹を割って話しをするようになっていた。
 
既に桜が咲いていた4月のある日、『吉野永人(よしの・ながと)』の姓名を使うようになっていた私は彼に『何故改名したのか?』と訊かれた。この時点で私の姉である千葉夫妻の事業の為に既に7億円の連帯保証債務を負っていた私は、・・・(桜散る、に続く)
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死刑廃止論の無責任

低年齢の少年達は何人殺しても死刑にはならない、或いは未成年だから、悪い事をしてもたいした罪にはならない、と最初からタカをくくり、意識して犯罪に手を染めている。今回の犯人も、『犬が歩いていて、可愛い犬とであったからやっただけ』と被害者や遺族を冒涜し、『18歳だから絶対に死刑にならない、』『無期懲役でも7年くらいで出て来て、幸せになりたい』等と知り合いに手紙を書いたり話していたそうだが、狂った弁護士達の入れ知恵なのだろう。

『たった一つの大事な人命を殺人で奪った者は自らの命で償うのが当たり前の事』であり,この思考こそが社会の正義と秩序を守る大原則であることを皆が今度の裁判を通じて再認識すべきである。「死刑廃止の論理は社会を悪くするのみ」で効果はひとつもないと考えるものである。したがって死刑廃止をとなえるもの達の独善振りには無責任さと憤りを覚える。仮に死刑制度をなくしたら殺人事件は加速度的に増える筈である。

死刑廃止は『ブレーキの無い車を走らせるようなもの』であり、とんでもない事だと思う。死刑廃止を唱える事が『文化人であり』『時代の先端を行く者』との誤った認識をする者達の存在を特に憂慮するこの頃である。一部に犯罪の数が減ってきたと声高に言うものが居る。死刑制度を持って減らそうと努力しているからこそ減っているのであり、今死刑制度を廃止する理由にはならないことを銘記すべきである。

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当然の罰

愛妻と愛嬢を酷く(むごく)殺されて9年目,犯人に漸く、「死刑」の判決が下った。残虐な罪に対する当然の罰である。現行の制度では犯人側の弁護士達がすぐさま上告するのだろうと思っていたらその通りに上告した。この厚顔無恥で訳のわからぬ弁護士達(目的が金か、売名かその両方か?)のために、真面目な法曹活動を展開している数多くの弁護士先生方は又2-3年、不愉快な思いを強いられる事になった。

全く困った事だと思う。本村 洋さんはネフローゼに冒されており気が気ではない太変な歳月だったと思うが矢張り「社会正義は無くなっては居ないのだ」と実感されていたようでそのことはまず何よりだったと思います。・・・〔人の命は地球よりおもい〕と言われます。その重い命を奪っておきながらやれ18歳未満だから、やれ被害者が一人だからと、とんでもない理由で罪の清算を免れてきた事がおかしいのであって、『正当防衛』を除く殺人に対しては「中学生以上は原則死刑を適用」していい筈だ。

地球よりも思い人の命を奪い、自分は助かりたい一心で見苦しい弁解や、狂った弁護士等の作成した虚偽の新たな供述など、『まともな裁判官』は確りと見抜いていたようで、全面的に退けた事は大変良かった。この様にイカレタ弁護士たちにも『社会正義違反』という罰則が設けられ、適用されてもいい筈だ!(死刑廃止論の無責任)へ続く。
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母の忍耐

私が小学五年生(昭和30年)の冬頃から母は小さなリヤカーで魚の行商をしていた。時折雪が降りしきり、ゴム長靴の甲の部分を荒縄で縛って滑り止めにし、懸命に売り歩いていた。遠くにリヤカーを引いて帰ってくる母の姿を見つけると、走っていって家の前までリヤカーを押した。例え短い距離でも、そうする事が母を少しでも楽にする事で有れば、それが母を助け、母への「感謝を表す事に成るのだ」と本気で思っていた。

我が家の前の、川岸の石段を降りて、川の水で魚の行商に使った木製の箱(3~5箱)をタワシを使って綺麗に洗う。真冬の川水の冷たさで手が切れるように痛い。が、冷たい寒風の吹きすさぶ中、一軒一軒行商してきた母の苦労から見たら、『こんな痛さなどなんとも無い』と自分に言い聞かせて手伝ったものである。昭和38年正月、母にいつか訊きたいと思っていたことを訊いてみた。

『暑さ寒さの中、行商していて一番苦しかった事、つらかった事は何だったの?』
「ある夏の暑い日に、外に建てられている共同のトイレを借りて用を足していたとき、誰かに外側から鍵をかけられ、2時間ほど閉じ込められてしまったときは辛かった。リヤカーの魚は一部無くなるし,氷が解けて魚は弱るし、一度だけだったけどね。」『誰にされたかの見当は付いてたの?』「うすうす解るけれど、長い間の商売だからね。何も言わなかったよ、この先も言うつもりは無い。」

誰にされたか聞いたら、それから後、私はその人とその家族を恨んだかもしれない。母の行商は春夏秋冬を繰り返し、昭和45年頃まで続いた。母が他界して29年になり、この話を聞いて45年経過した今も、私の心に「人を相手にする商売の基本と難しさ」という意味で確りと残っている。それにしても『母の我慢強さと偉大さ』には、いまだ遠く及ばない自分を感じる。昭和54年7月22日。71歳の生涯だった。瑞祥院應福賢忍大姉

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忘れないが許す!

日本と米国の太平洋戦争に従事し、互いに命をかけて戦った兵士達の生き残った人達の一部がハワイに集まって野球の親善試合をしたという。NHKとBS2での放送を二度に亘って見ることになった。戦場で銃を持っての戦いは、野球場でボールとバットを持っての戦いへ。殆ど80歳以上の人たちで、互いに戦死した仲間達のことを思いながら、本当に本当に長い間、互いを憎みあい、自身はそれぞれの心に大きな傷跡を抱えたまま、67年の歳月を生きて来た。・・・

互いに球場で逢ったら、冷静で居られるだろうか?互いに思ってきたことを話せるだろうか?・・・体験した者にしか知りえない心の底ではある。延べ三日間の親善会で初日は真珠湾の記念塔を慰霊の訪問、日米双方の戦士達で献花、二日目、野球の親善試合、14-2でアメリカの勝利。始めはぎこちなかったが、互いにベンチを訪問し合い,長い間言えずに来た心のうちを語る機会を得、「今日これに参加してよかった」と一様に話していたのが印象的だった。

互いに上官の命令に従って戦闘を交えるしか無かった双方の戦士達は一生懸命に戦った結果生き延びて今日の再会を迎えたという。95歳の米人が80歳の日本の選手に向かって「まだまだヒヨコだ、お互いに頑張ろう!」と言っていた姿に共感を覚えた。

とはいえ、どうしてもわだかまりを消せずに、ハワイへ向かう3日前に参加を取り消した米国人も居たと言う。例え67年たっても思いは複雑なのだろう。三日目は自由時間、心打ち解けて話し合った米国の選手達は「真珠湾を忘れはしない」だが「真珠湾の事は許す」と言っていた。

ある米国選手の奥さんはハワイから帰ったご主人を車で迎えに行ったが
「何もかもに大満足だった」と言うセリフを残してハワイから帰ったその夜に、寝ながら静かに逝ったという。奥様は「何もかも」の中身を尋ねたがご主人は答えなかったと言う。

今回を『冥土の土産』と言っていた日本のある選手は、ハワイから帰って戦友たちの霊前に報告し、今回は80歳の背番号81で参加したが、俄然やる気が出てあと「10年頑張る」と背番号90のユニホームを新調したという。(91ならいいのだが)・・・

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新入生

平成20年度の東京大学の入学式が去る4月11日に行われたが、大学側からの父兄出席自粛要請を意に介さず、新入生3、200名に対し5,600人の父兄が出席した事が報道されていました(東京新聞)が、私は、この事は「子を甘やかす親の存在」と、「親から自立する気概の薄れた子供達」とで作り出された最近の『先行きを憂うべき社会現象』なのだと思います。

一人の新入生に四人も付き添って出席した父兄もいたそうで、衝撃を受けてしまいました。新入生の中には当然父兄の出席を断った者も居ると思いますが、全体として学生のひ弱さは否定し得ません。高校生まではある程度、親の傘の下で生活せざるを得ず、親を頼りとする精神面の弱さにはやむを得ない要素も有りますが、大学生ともなれば、精神的には完全自立の気概を持たなければ成らないし、親もその様な方向付けで子供を指導すべきであります。

その意味では入学式は自立の大きな第一歩として、格好のチャンスとして捉らえ、『一人で行って来い!』と送り出す気構えが必要だと思う。この日、私は、川口市の孫宅に居たが、この日は孫の幼稚園の入園式が執り行われ、孫の父親が国家公務員で、国連へ向けて4月13日まで出張中であり、孫は母親に連れられて二人で行ったが、東大生は両親の他に兄弟など2~3人を引き連れて行ったというから「私の孫より精神的に弱いのではないか」と驚く。

前述の『先行きを憂うべき』という事の一つ目は、大学側の事前要請を無視する学生と父兄の精神構造。二つ目は、将来、社会の上層を構築して国民の常識と乖離した政治と経済の舵取り(今もそうだと言えるが)をするだろうという事に於いて、将来に安心を持てないのであります。・・・

事前の大学側の父兄出席自粛要請を受け東大の入学式に父兄の付き添いゼロ!!という日が来た時にこそ日本国と国民は本当に良くなります!?。
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違いと間違い

庖丁の柄を持って、刃を使い、野菜を切る。(正しい)
包丁の刃を持って、刃を使い、野菜を切る。(間違い)
鰹と秋刀魚は違う魚である。(正しい)
鰹だけが魚であり、秋刀魚は魚ではない。(間違い)

うどんはパンを間違っているとは言わない。又ミカンはほうれん草を間違いだとも言えない。夫々は「違った」存在ではあるが「間違った」存在ではない。
こんな幼稚園の生徒でも簡単に理解できる論理が、大人の世界では夫々の違いを認めず、相手を間違いだと決め付け、複雑にもめ、なんとも救いようの無い、悲劇を作っている。

その上に為政者達の「権勢欲」、「名誉欲」、「金銭欲」、「利権」等が絡み、国益が絡み、思惑と思惑がぶつかって解決を困難ならしめている。これに宗教が絡んで来ると、たちまち「きな臭く」なり、或いは武器を取っての殺し合いに発展する。各々が論理を正しく理解し、自己を認めてもらうが、自己もまた他を認めるという原則に立ち返るなら、世界の惨(むご)たらしい、事件や紛争は無くなるはずで有る。

この様に、「違い」をよく見極め、「間違い」の無いように対応しなければならない。繰り返すが、人間の肌の色、言語、習慣、信仰等は「違い」であって「間違い」ではない。特に宗教の世界にあっては、指導者達が違いを認め合う事もせずに間違った思想信条を振りかざして互いに相手を攻撃し、その存在すら認めずに互いに流血騒ぎさえ起こしている。或いは国家間の紛争の根本を作っている。

我々はえてして、謙虚さと感謝の気持ちが薄れてくると、間違いを犯しやすく成る様だ。自分が信用する事以外は一切信用しないという横着さや、横暴さ、自分の信ずる事を無理やり相手にお仕着せする、という事もあってはならないのだ。うどんはパンを間違っているとは言わない。ほうれん草はミカンを間違いだとも言えないのである。食べ物と言う共通の中にあって互いに独立した存在なのだ。

人間も基本に返って互いの存在や、思想信条の違いを認め合い、共存の原則を守るなら、無駄な流血は無くすことが出来ようし、無くさなければ成らないのだ!
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実直さ

宮城に比べ東京の暖かい冬を気に入った私は、冬休みは東京で過ごそうと思っていた。しかし、叔母の家業を手伝おうにも、車の運転ができず、普通車免許取得を図る事にした。そこでひとまず、古いゴム長靴を紙袋に入れ、仙台行きの始発下り急行列車に飛び乗った。約5時間後に仙台駅に到着、ついで、仙石線宮城野原駅へ行き、そこからゴム長靴に履き替えていかにも「いなか風」を印象付けようと配慮した。

静かに、大人しく、謙虚に、そして何よりも『実直さ!』を心がけ、必死の思いと慎重さをアピールしようと努めた。試験場のコースをめぐる、試験の為の制限時間一杯ぐらいで走り、慎重すぎるぐらいに慎重にと心がけて走り終え、スタート地点に車を戻した。長靴姿の私を見て前回とは別な試験官は『見かけよりも安全が大事、底がゴムの長靴は安全でいい』と言われ、合格に自信を持った。何よりゴム長靴を履いての受験をよりよいものと認めてくれた試験官の存在が嬉しかった。

試験車両は前回と同じのトヨペット・クラウン。5ヶ月前には「貰った免許証を一番初めに誰に見せようか?」等と浮ついた気持でいたが、今回は全く冷静に発表を待った。例によって、掲示板に合格者の番号が張り出されたが、間違いなく私の番号が有った。ハンドルを握る事の責任の大きさから、あの頃は経験を積めば上手くなる技術よりも、性格や、人間性をより重視していたと思われます。ゴム長靴に敬意を表し、かつて長靴を履いて通学していた友人を思い出しながら石巻までずーっと履いて帰った。

あの当時、免許証は現住所地に一週間くらいかけて郵送されて来たが、今回の受験については誰にも話さずに居たので、実際に免許証が届き、合格を告げても家族の皆に『本当か?』となかなか信じては貰えませんでした。費用は前回の失敗で700円、今回の成功で1800円の合計2500円で済んだと記憶しております。この免許証取得により、学生生活は大いに助けられる事になったのです。
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上手すぎる

昭和38年7月下旬、初めての夏休みに住所をそのままにしていた宮城県で(満18歳になったので)普通車運転免許を取ろうと思い『まだ早いのでは?』と言う長兄の心配をよそに帰郷の途中、宮城野原にあった、宮城県自動車運転試験場に立ち寄った。自動二輪の免許があったので学科試験は免除され、実地試験のみ受ける事に成った。常々の練習の甲斐有って、私の前後の受験者〔試験車両のトヨペットには次と更にその次の二人の受験者が乗せられた.〕よりもだいぶスムーズに乗りこなした。

自分が一番『上手く走った』と思った。試験官は「上手いですね、とても昨日今日の運転とは思えません。大分練習したんでしょうね?」、『ハイお蔭様で』と答えると「どうもご苦労さん、つぎの人とかわってください」と言われ、
後は発表を待つのみと安心しきっていた。貰った免許証を最初父に見せるか、『まだ早いのでは』と言った兄に見せるのか、或いは知らぬ顔をして仏壇に供えて置き、ワザと家族の誰かに見つけさせるか、考えてみるとこんな楽しい事はない!

15時30分、掲示板に合格者の番号が発表された。ある筈と思った「私の番号が無い!」何故なのか試験官に訊きにいった。『自信を持っていたのですが何故不合格なんですか?』すると試験官は『今まで扱った受験者の中では三本指に入るほど上手かったよ。あれだけの運転をするからには相当期間無免許で走っていたに違いない!だからその罰と思いなさい。このまま免許証を与えれば、なめてかかって却って事故につながる。今までの三本指はそういう理由で皆不合格にした』。

(何だ、ここにも祖父のよな厳格な男が居るではないか!)当時は自動車学校なども少なく、小学校の校庭などに石ころを並べて練習していたが。「何処で練習したか」よりも、ハンドルを握ったそのものが無免許運転の解釈だった。人生の中で試験に落第した二度目の経験だった。

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