goo

山一抗争と極道の大義②

山一抗争と極道の大義②

47回

 

俺が若いころはヤクザの喧嘩といったら日本刀で斬り合うのが当たり前だった。斬り合いになったら、自分の命がどうなるかわからんし、逆に斬り返されて殺されるかもわからん。

 自分も捨て身の覚悟で相手の事務所に乗り込んで、相手とカンカンやって、自分も斬られて、というのが男の勝負であって、ヤクザの喧嘩だろ。こういうところが、ヤクザの恰好よさだったんだけどな・・・・

 勿論あの戦争では、山口に残ったすべての組、それぞれが必死で戦ったんだ。そこには「何か論功行賞が欲しい」という気持ちなんか微塵(みじん)もない。

 (ちょっと解説・組織名の運気)

○山口組(3・3・11)17画大吉:独立独行万難突破の成功発展運。質実剛健の要素ありて発達を遂げる。「民間企業の17画・ホテルオークラ・プリンスホテル・地産・松屋・三菱」など。

○稲川会(15・3・13)31画大吉

 ●一和会(1・8・13)22画大凶;会は會で13画。・・・急変、急難、運気変転の志節中途で破綻、挫折を余儀なくされる運気。

イトーヨーカ堂 22画大凶。業績低迷

イトーヨーカドー16画大吉。業績回復

 ●山本 広(一)[3・5・15・(1)]広は廣で15画。運気10点大凶名。外格4画。物の割れんとする形にて、生涯苦労困難の絶えることなき破壊破滅の運。解説終わり。

 ☆

 「親分の仇を取りたい」という一心だ。とにかく「一和を潰せ」と。それに一和に行った者と山口に残った者とでは戦闘能力が違った。

 そもそもあの戦争の原因は、竹中さんの四代目就任に異を唱えた三代目時代の幹部連中が抜けて一和会を作ったことだ。

 だから結果的に、山口組には若い連中ばかりが残ったんだ、一和会に移った幹部連中が60代だったのに対し、山口組に残った主力は40代で、おまけに猛者ぞろいだった。

 ただあの戦争に山口組が圧勝した最大の要因は「大義があった」ということだろうな。極道としての大義だ。

 普通、組織のNO1,NO2の玉をとられたらその組織はガタガタになるもんだ。分裂するか下手すりゃ解散だ。普通の組織なら完全に終わりだよ。けど山口組は違った。

 「親分の仇を取る」という大義のもと、結束したんだ。

 親分も若頭もいないのに、司令塔が不在にもかかわらず、それぞれの組が、個々の武将が「親分の仇を取る」という大義の下に、一和と闘ったから勝ったんだ。

 これに対し、一和の戦争の動機は、突き詰めれば「人事に対する不満」で、これは大義じゃない。逆に山口組は「親分の敵を取る」という大義名分を掲げて逆襲に転じた。そりゃ、大義を持っている側は強いわ。

 ググッと一和を追いこんだ。逆に一和は山本という親分がいたのに、一気に劣勢に追い込まれた。大義のない戦争は必ず負ける。だから一和は負けたんだ。

 分裂当初は一和の方が、数の上では多かったのにな。

逆に、あの抗争で、親分も若頭も取られたにもかかわらず、大義だけで結束して勝ったことで、山口組は最強の組織になったんだよ。  続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

よろず世の中118・前原グループ若手のクーデター計画

よろず世の中118

前原グループ若手のクーデター計画

 

「本能寺の変」作戦だったが

親分が親分なんでねえ・・・・

 

日刊ゲンダイ8月30日

今月中旬民主党内で野田を辞任させるクーデター計画が密かに練られていたことがわかった。何と主導したのは親野田派の前原グループの約40人だという。

 「本能寺の変」と名付けられた極秘作戦は、次のようだったと民主党関係者は言う。

 「一応支えてはきたが、不人気の野田さんでは選挙はやりたくない。これが前原グループの総意。しかし、首相は『近いうちに解散』を自・公に約束し、10月解散の話まで広がってきた。これに『冗談じゃない!』と若手がキレた。

 党内の過半数の署名を集め、官邸に乗り込み、突き付けよう。規約にはないが、これならさすがに辞めるだろう、と意見がまとまったのです」

 20日ごろから若手数人が署名の文面を練り、数日後には

「マニフエストにない増税をやった」

「大量の離党者を生んだ」

「即刻責任をとって辞任すべき」

 という趣旨の文面が出来上がったという。

 昨年の代表選で同じく野田を支えた菅グループも今や大半が“反野田”。党内を回ればあっという間に所属議員の過半数が集まる。

 前原グループの若手は自信を深めていた。後は前原の了解を得るだけ。

 23日夜、ついに神楽坂の料亭に仙谷や枝野を除くほぼすべての前原グループ議員が結集した。

 「そこで中堅若手の代表が『首相辞任を求める署名集めをやらせて下さい。自信はあります』と迫ったようです。

前原さんは一瞬驚き、眼をしばらくつぶった後『それはやめよう』といさめました」(前出の関係者)中堅若手はガッカリ・・・・

 「『野田さんが辞めたら自分が代表選に出ることになるのでイヤなんだろう』『日頃、首相の外交政策を批判しているくせに何だ!』と吐き捨てる議員もいたようです」(関係者)。

 若手がねりあげた千載一遇のチャンスをつぶした前原。

 そこまでして惨敗必至の選挙の「顔」にはなりたくないのだろう。親分が親分なら子分も子分。

 民主党はやはり終わっている。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

山一抗争と極道の大義

山一抗争と極道の大義

 

46回

◎山口組と一和会との抗争は1985=昭和60年1月、一和会系組員が、竹中・四代目組長と

中山勝正若頭を射殺したことで激化。直後から山口組による報復に次ぐ報復が始まった。

[竹中正久(6・4・5・3)運気10点

 中山勝正(4・3・12・5)運気10点

中と正の同文字の縁、9画大凶の短命共通の縁・永人]

 後藤組は、竹中組長射殺事件から3ヶ月後の85年4月、神戸三宮の交差点で、停車中の一和会幹部の車を銃撃、翌5月には、前述の山本広・一和会会長宅に、幹部ら三人が、ダイナマイトを持ってダンプカーで突入し、警備の警察官と銃撃戦を繰り広げた。◎

 4代目の若頭だった高知の中山勝正・豪友会初代会長さんも素晴らしいヤクザだった。

 実は俺を直参に推してくれたのが、中山さんだったんだ。別にそれまで知り合いだったわけじゃない。

 当時中山さんはすでに本家山口組の若頭補佐だったし、俺は伊堂組の枝だったから。

 けど何かしら目をかけててくれたんだろうな。伊堂さんが引退した後、「後藤はいいぞ、あいつを直参にしようや」って竹中さんに進言してくれたそうだ。俺も直参になった後、周りから聞いたんだけど、中山さん本人はそんなことまったく口にしないで、俺が四代目から盃を貰ったらすぐに「兄弟、兄弟」って呼んでくれてさ。

 自分は若頭なのにえらそうなところが全然なくて。実にさわやかな人だったよ。

 その親分と若頭が一気に殺られちゃったんだから、そりゃあ、命がけで報復せんといかんだろう。

 それで実際の後藤組の戦争は、長男(長兄、後藤守孝・後藤組「藤友会」初代会長、後の後藤組最高顧問)が仕切ってくれた。

 ウチの長男は俺に「とにかくヤクザで日本一になってくれ」という夢を持っていたんだ。そのためには「どんな形でも体を懸けるぞ」と。

 だから山一抗争の時も長男が全部動いてくれたんだ。三宮で拳銃撃った件も、ダンプで突っ込んだ事件もな。

 ダンプで突っ込んだのはヤクザらしかったな。サツ(警察官)が山ほどいるところに正面から突っ込んだら、Uターンできやせんのだから。

 ダイナマイトも持って行ったんだけど、途中で止められた。それでサツと撃ち合いになって一人はサツに撃たれて死ぬ手前の傷を負ったんだ。

 ヤクザっていうのはさ、やっぱり相手と真正面からぶつかって、勝負するもんだ。

 後ろからとか、背中から、タンタンタンッとやるのは、やっぱり“ギャング”だよ。 続く

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

第5章・山口組直参: 四代目、竹中正久親分の思い出

 

第5章山口組直参

45回

四代目竹中正久親分の思い出

 ◎山口組では1981=昭和56年7月田岡一雄・三代目組長が、翌1982年、2月には、若頭の山本健一・山健組組長が相次いで死去した。これを受けて84年=昭和59年6月竹中正久・初代竹中組組長が四代目組長に就任したが、この竹中組長の四代目就任に異を唱える山口組組長代行(当時)の山本 広・山広組組長ら一部の直系組長が山口組を離脱、新たに『一和会』を結成したことによって山口組は分裂し、戦後最大の抗争事件とされる『山一抗争』が勃発する。◎

 (ちょっと解説)

竹中正久(6・4・5・3)運気10点大凶名。

天格竹中10画

人格中正 9画大凶

地格正久 8画吉に凶を含む。

外格竹久 9画大凶

総格竹中正久18画吉に凶を含む。

●成功運

天(十)―人(九)大凶:素行修まらず、荒亡流敗す。多くは泡沫夢幻の人生に終わる。(後藤忠政の成功運とおなじ)

●地格:正久8画人格の凶にて吉に凶を含む。意志鉄石の如く、進取の気性に富み、万難千辛を排して目的を貫徹し、名実を兼ね得て忍耐克己、ついに成功を得る。ただし、他の運格との関係により、遭難の厄をもたらすことあり。

●人格・外格9画大凶。利は去り、功は空しく窮迫に陥り、不遇、逆運、短命、惨憺を意味す。病弱、不如意、遭難、貧苦災害などあり。血族の悲痛、孤独、寂寞、短命に陥り、若しくは刑罰に問わるるなど凶禍測りがたし。

 とくに人格部にこの数ある時を最も凶となす。たまたま一身の災害を免るる時は、配偶を失い、子を得ず、得ても死別の嘆きあり。災怏(さいおう=後々まで悔やまれる禍い事)もっとも甚だしき一生の最大悪運なり。終わり

 ☆

 俺が四代目の親分(竹中正久組長)から盃をもらって、直参(直系組長)になったのは41歳の頃だ。

 竹中さんはすごい親分だった。あれぐらいの大親分になるともう四代目の座布団に座っているだけで、組織が自然に回っていくという感じだったな。

 三代目時代は俺もまだ若かったから田岡一雄組長を遠くからただ見ていただけだったが、四代目の親分には本当にかわいがってもらったよ。不思議なことに俺みたいな生意気な人間が気に入られたんだ。

 親分が四代目に就任してすぐのころだった。静岡で、新しく直参に昇格した連中が集まって、親分を浜松に招いて一緒にゴルフをやったことが会ったんだが、その後の酒の席で竹中の親分がこんなことを言ったんだ。

 「ウチの武〈正久の実弟、竹中武、二代目竹中組組長〉は凄いぞ。万が一俺に何かあったら、ダイナマイト100本抱えていつでも飛んでくる」って。

 今から考えれば、その時には既に一和との抗争が始まっていて、親分もある程度は自分が襲撃されることを意識していたんだろうな。親分がそんなことを言うもんだから、俺も「親分に何かあったら、それくらいのことをする腹は出来てますよ」と言ったんだ。

親分も「ホンマやろなぁ? 後藤」なんて笑ってたけど、まさかその後、本当に山一抗争で、自分ん所(後藤組)の若い衆が山広(一和会会長)の所にダイナマイト持って突っ込むことになるなんて流石にその時は考えてなかったわ。

 弟の武ともウマガ合ったよ。ちょうど同い年ぐらいだったし。確かに親分も武も俺とは全くちがうタイプだった。

ただ、こと、「極道」というものに対する考え方はぴったり合ったんだ。極道とはどういうものか。ヤクザとはどういうものか、という考え方だ。特に四代目の親分には言葉の端々に大きく感じるものがあった。

 「よし、この人のためならどんなことでも動いてやろう」という思いはあったよ。特に関東での山口組の勢力拡大についてはな。親分もそれを期待してくれてたんだが、そんな矢先に殺されちまった。  続く

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

国家に入り込んだ宗教

国家に入り込んだ宗教

44回

それともうひとつ、創価学会、いや「池田教」が、この日本という国家を乗っ取ろうとしていることが、見過ごせないんだよ。

 日蓮正宗という宗教を利用して、人を集めて、会員にして、その学会員から莫大な金を上納させて、さ。日本では信教の自由が認められているから、キリスト教だろうが、日蓮正宗だろうが、わけのわからん新興宗教だろうが、宗教を持つこと自体は構わんよ。

 けど、それ以上のこと、公明党を作って政治に入り込んだり、創価大学作って“優秀な人材”を官僚にしたり、法曹界を牛耳るために人を送り込んだりしちゃいかんだろう。

 外務省には池田大作にノーベル平和賞を取らせるためにだけ働く、学会員の組織があるらしいじゃないか。

 法務省にも池田を守るための組織ってものがあるんだろ?

 体、神崎武法(元衆議院議員、公明党常任顧問。元検事。2009年に政界引退)にしろ、浜四津敏子(元参議院議員・元弁護士)にしろ、もともとはあの山崎正文の弟子だしな。

 どんな宗教を信じるかは勝手だ。しかし、その宗教のために国会や官僚組織に入り込むというのは、筋が違うんじゃねえか。

 特定の宗教の利益を目的とする人間が、国家権力の中枢にいるのはまずいよ。

あいつら学会が何を信じようと勝手だ。また池田大作個人がどんな考えを持っていようとかまわん。

 だけどその宗教の理屈を国に持ち込む、さらにはそれで牛耳ろうとするのは、少なくても自由主義国家じゃ許されることじゃねえだろ。

 もそもこんな組織(創価学会)が「自公連立政権」だとか言って、国家の中枢でデカイ面してきたこと自体が、間違いなんだよ。でも誰かが言ってたな。「公明党はいずれ自然に消滅するだろう」って、なぜって、公明党員も学会員もじい様、ばあ様、貧しい人が多い。

 新しい血が入らないんだ。10年20年たてば、年寄りは死んでいくし、貧しい人には上納する金なんかない。

かといって、ここまで悪事がバレてたら、今さら「祈伏」されて、学会員になろうっていう者もいないだろう。

 「公明党の最大の支持層がこれじゃあ、消滅していくしかない」って、これには納得したなあ。

 池田大作や公明党がガタガタ言ってくるんなら、いつでも相手になってやるよ。何なら民主党も学会と反目になって『黒い手帳』とか云う本を出した矢野さんと俺を、国会で証人喚問したらどうだ。

 もっとも、それまでに民主党も、学会票欲しさに公明党とくっついちゃうかもしれないけどな。

 実際、小沢一郎「運気100点完全大吉名」さん〈元民主党幹事長〉も昔は学会と仲良しだった訳だから(小沢は新進党時代、公明党と連立政権を組み、当時の市川雄一「運気100点完全大吉名」・公明党書記長とは「一・一ライン=性格一致・相性吉」と称されるほどの密接な関係を持っていた)

 過去創価学会とはいろいろあったが、今回、池田大作には改めてモノを言っておくよ。

 この国の将来を憂う一人の元極道としてな。 続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

池田大作の見苦しさ②

池田大作の見苦しさ②

43回

 ◎矢野絢也も1967=昭和42年の衆院選で初当選し、竹入の委員長就任と同時に公明党書記長についた。以降9期にわたって衆議院議員を務めたが86年、竹入の退任に伴い、公明党委員長に就任、89年に辞任。

 93年に政界を引退し、政治評論家に転身後は、公明党学会批判を強めていた。

 ところが2005=平成17年5月伏木和雄(元衆議院議員、元同党副委員長)。黒柳 明(元参議院議員・元同党副委員長)。大川清幸(元参議院議員)等三人の公明党元議員が矢野に対し、政治評論家としての活動をやめるように迫るとともに、矢野を脅迫し自宅から100冊近くの手帳を奪い去るという事件が起こった。

 この事件を報じた『週刊現代』(05年8月6日号・13日号)の記事に対し、伏木ら3人は名誉を傷つけられたとして、矢野と、同市の版元である講談社を提訴。一審の東京地裁は07年12月『強奪の事実は認められない』として、矢野と講談社に660万円の支払いを命じた。

 二審の東京高裁は、伏木ら3人の元公明党議員が「矢野に対し、多数の創価学会員や公明党員が危害を加えるかも知れないなどと脅迫して手帳などを提出させたうえ、妻の部屋まで捜索してプライバシーを侵害した」などと認定、一審判決を破棄し、伏木ら3人に対し、矢野に計300万円の慰謝料を支払うよう命じた。

 3人は即日上告したが、最高裁は09年9月1日、3人の上告を棄却し、矢野の逆転勝訴となった高裁判決が確定した。

 またこの間、矢野は、独裁国家建設を目指す池田の野望や学界の違法活動の実態を告発した『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』(講談社)を上梓。

 さらには08年6月、民主党や国民新党の呼び掛けに応じ、国会内で講演し、証人や参考人として、国会で証言することについて前向きな姿勢を示した。◎

 逆に言えば、自分の手下に次から次へと居直られるような池田大作という男は、大した人物じゃないってことだ。

 他人様から到底、褒められるような人物じゃないから、「自分で自分を褒めるような本をせっせと作っては、学会の信者に買わせてな」、ああいう見苦しい生き方もないもんだ。

 そんな池田大作が裏で何をしてたかといったら、山崎やXをパイプ役にして、俺たちヤクザを散々利用し、仕事が終われば知らんぷりだ。それで俺たちがちょっとでも、もの言おうもんなら、今度は警察権力を使って潰しにかかる。

 で、それがマスコミにばれそうになったら、今度は頬かむりだ。竹入さんにも、矢野さんにも、俺にした仕打ちと全く同じことをしてるんだよ。

 だから俺もこうして「公の場で居直らせてもらった」わけだ。 続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

池田大作の見苦しさ

池田大作の見苦しさ

 

42回

そのビデオが撮影されたのは、俺の知り合いで、Xとも懇意にしていた六本木の会社社長の事務所だ。

 俺はその時ビデオを撮られていたことは知らなかったが、後になってそう聞いた。Xとどんな会話をしたかなんて、そんなことは覚えちゃいない。

 当時はXとしょっちゅう密会してたもんでな。その後、知り合いの社長がそのビデオをどうしたかについても知らない。ただ最終的には亀井静香・現国民新党代表が持って行ったと聞いているが・・・。

 ◎だが、その後、藤井富雄の周辺で不審な事件が起こる。再び前出の魚住 昭のレポートから引く。(「密会ビデオ」騒ぎが起きてから二年近くたった97年10月29日午前2時すぎ、東京都新宿区にある藤井宅の南隣りの家の鉄製門扉が爆破された。

 近くに電池やリード線、タイマー等の部品が落ちており、時限式爆弾によるものと警視庁は断定した。

 その後の調べで爆発物は魔法瓶のようなステンレス製容器に火薬を詰めたものと判明、使用された電池の形態などから、過激派による犯行の可能性は低いというのが警視庁の見方である。◎

 俺が今回、初めて創価学会との経緯を話したのには、2つほど理由がある。一つはあいつら学会のやっていることが、俺がつきあっていた30年前と同じ、いやそれ以上に悪くなっているからだ。

 学会、いや池田大作のために、それまで散々動いてきた連中や、俺みたいに協力してきた人間を、用済みになったと思ったら簡単に切り捨てるようなやり方が許せんのだよ。

 山崎正友にしたってそうだ。最後には私利私欲に走ってしまったが、それまでは池田大作のために“汚れ役”に徹していたのは紛れもない事実だ。

 にもかかわらず、学会は、悪事がバレそうになったら、責任を山崎一人に押しつけた。俺が昔池田大作に対する内容証明を出した竹入義勝さんにしろ、矢野絢也さんにしろ、また然り、だ。

 それまで散々「池田大作のために尽くしてきた」のに、ちょっと力をつけた途端に切り捨てられたんだから。そりゃ、竹入さんや矢野さんが居直るのは無理もない話だよ。

 ◎竹入義勝は1967=昭和47年の衆議院選で初当選した直後に、公明党委員長に就任。以降、8期にわたって衆院議員を務めると共に19年間同党の委員長を務めた。

 しかし政界引退(1990年)後の98年『朝日新聞』に掲載された55年体制回顧録で公明党と創価学会が政教一致の関係であったことを明らかにし、公明党からは除名処分を受け学会からは永久追放となった。以降、竹入は学会の機関誌『聖教新聞』などで、学会幹部らから徹底した誹謗中傷を受けている。  続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

元公明党都議との密会ビデオ②

元公明党都議との密会ビデオ②

41回

 ◎この「X」という人物の名前はもちろんのこと、素性についても、後藤忠政は一切語ろうとしないが、過去の創価学会関係者の証言さらにはこれまでのメディアの報道から判断するとこの「X」が、藤井富雄・元公明党東京都議会議員であることは、もはや疑いようのない事実だ。

 藤井は、定年制(66歳以上は原則として再度立候補できない制度)を導入した公明党の中で、例外的に都議を11期まで務めた重鎮で、初代公明党代表にも就いた。

 2005年に引退した後は、公明党最高顧問を務め、現在も公明党が設立した財団法人「公明文化協会」の理事を務めている。

 この藤井富雄と後藤忠政との関係をめぐっては、東京都港区内で二人が密会した様子を収めたビデオの存在が、メディアなどでたびたび取り沙汰された。

 『月刊現代』2004年2月号に掲載されたジャーナリスト魚住 昭のレポート「野中広務『権力二十年戦争』――創価学会を『祈伏』させた胆力の光と影」

 によると、ビデオの内容は次のようなものだったという。(「野中広務・元自民党衆院議員・さんが会いたいというので久しぶりに会ったんだが、とんでもない話だった。『公明』代表の藤井富雄さんが暴力団の後藤組の組長と会ったところをビデオに撮られたらしい。

 そのテープを自民党側に届けた者がいるということらしいんだが・・・・」

 藤井は創価学会名誉会長池田大作の側近といわれる東京都議で、後に野中広務とともに、「自公連立の牽引車」となる人物である。

 当時は新進党に合流していない旧公明党参院議員と地方議員を束ねる公明代表を務めていた。

 その藤井が山口組切っての武闘派として知られる後藤組(本拠・静岡県富士宮市)の組長・後藤忠政と密会している場面を隠し撮りしたビデオテープがあるというのである。(中略)

 住専国会で新進党切り崩しの材料になった「密会ビデオ」。その存在が永田町の一部でひそかに取りざたされるようになったのは、これより3か月前の1995=平成7年12月頃のことである。

 当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香が「命をねらわれている」という噂が流れた。

 間もなくその噂を裏付けるように亀井付きのSPが増員され、亀井の車は常に警視庁の警備車両2台に挟まれて移動する騒ぎになった。

 村上正邦の元側近が語る。「騒ぎの発端は、藤井さんと後藤組長の密会ビデオでした。亀井さんが入手したそのビデオの中で、藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら四人の氏名をあげ、『この人たちはためにならない』という意味のことを言ったというんです。

 受け取り様では『後藤組長に四人への襲撃を依頼した』という意味にも取れる(成功報酬は200億円から250億円というウワサも流れた)。それで亀井静香さんと村上、警察関係者、弁護士、私も加わって、対策会議が開かれたんです」。

 議にはビデオの実物が出されなかったが、登場人物二人のやり取りを筆記した書面があった。

 その場の話ではビデオの映像はかなり画質が悪い上に、雑音が混じっていて声が聞き取りにくかったが、専門家に鑑定してもらった結果、登場人物は藤井と後藤「藤・という同字の縁」にほぼ間違いないと分かったという)  続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

元公明党都議との密会ビデオ

 

元公明党都議との密会ビデオ

40回

 ところが最初の内容証明を出した1983=昭和58年3月から3ヶ月後ぐらいに、富士宮署に突然

「後藤組壊滅対策本部」が出来たんだ。

 当時はまだ、山一戦争も始まっていなかったし、地元では、それまで散々大暴れしてたのに、そんなもんが出来たことは一度もなかったんだ。

 この対策本部が出来てからというものウチの若い衆が片っ端からパクられて行った。それこそションベンしても、屁をひってもしょっ引かれて1年足らずの間に60人以上がぶち込まれたんだ。

 ガサ(家宅捜索)の時は決まって静岡県警本部からわざわざ本部長がヘリに乗って飛んできて、後藤組の事務所の上をグルグル回って、本部長自ら、家宅捜索を指揮してたんだよ。

 その時思ったね。ああそうか、「お前ら学会はいざとなるとこんな汚い手使ってきやがるんだな」、と。

 そりゃ国会だったら公明党使って警察庁に圧力をかけりゃいい話だし、池田のおひざ元の東京都議会でも、公明党は昔から与党だったしな。予算握ってるもんで、警視庁に圧力かけるのも造作はないか。

 けど、これには本当に頭にきた。「じゃあ池田先生に直接、ものを言いに行くしかないわな」と思ったよ。

 そうこうしてるうちに、若い衆が、池田大作が東京女子医大に入院したという話を聞きつけて,俺より先に「池田大作先生」に会いに行ったらしいわ。

 ところがそれを知った池田が急に退院しちゃったもんで、若い衆は東京都新宿区の信濃町にある学会本部(創価学会文化会館)まで出かけて行ったんだ。

 ◎1985=昭和60年11月12日、新宿区信濃町の創価学会文化会館で、後藤組系幹部ら3人が発砲.銃刀法違反で現行犯逮捕された。◎

 これには池田もビビっただろうな。そりゃそうだわ,行く先々で「バン!」って音がするんだから。それであわてて、池田の使いのもんが飛んできて,詫びを入れてきたんだ。

この人間は山崎正友と違ってまだ生きてるし、俺は別にこの使いのもんが心底憎いとか、嫌いと云う訳じゃないから、本人の名誉のためにも、「X」とでもしておこうか。

 このXが、山崎の後の、俺と学会との“窓口”になったわけだ。「陸軍中野学校の出身」とか言って山崎がいなくなった後は、このXが“裏”の仕事を担当してたんだ。

 このXを通じて「池田大作が詫びを入れてきた」ことで、その後は又、学会に協力してやることになったんだ。

 ◎1991=平成3年11月、日蓮正宗は池田大作・創価学会会長を破門し、これ以降、宗門と学会は激しく対立。翌1992年4月には学会と対立する大石寺「妙遠坊」で発砲事件が発生。同年5月には大石寺「奉天寮」に火炎瓶が投げつけられるという事件が発生した。◎

 俺は山崎より、このXの方と波長が合った。山崎正友というのは、組織(学会)に対して誠実じゃなかった。

自分の懐にカネを入れることばかり考えてさ。

 海産物業とか変な商売を従兄弟にやらせて20億とか30億の損を出して倒産しちゃったんだよ。

 それを張消しにするために今度は学会を脅かしてカネを出させようとして、初めは5億円を出させ次に

10億円を要求して、恐喝でパクられて・・・。

 それに比べたら後から窓口役になったXは組織に忠実だったよ。私利私欲じゃなしに、俺とのトラブルを含め、学会の抱えている様々な問題を何とか収めようという姿勢だった。

 だからこそ、俺も又学会に協力してやろうという気に成ったんだ。あんたたちがこの「X」のことを誰と想像しようが勝手だが、俺自身はXを悪い人間とは思っていない。

 一番の悪(わる)はやっぱり裏で、山崎正友だのXだのに“汚れ仕事”をさせといて、表では善意に満ち溢れた教祖様ヅラしている、池田大作だろうな。 続く

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

創価学会への内容証明郵便②

創価学会への内容証明郵便②

 39回

 『実録 創価学会=七つの大罪』(吉良陽一著・新日本出版社)などによると、後藤が出した内容証明郵便には、このように記されていたという。

 [昭和55年12月、富士宮市議会における百条問題は学会にとって大変な出来事でした。斉藤滋与史氏「自民党元衆議院議員・後に静岡県知事」にしろ、杉山憲夫氏「当時は自民党県議・元自民党衆議院議員」にしろ、百条問題調査打ち切りに関しては、多少なりの力添えはあったにしろ、現実はそのような甘いものではなかった。

 四方八方に手を尽くしてもどうにもならなかった学会側は、以前の富士桜墓地霊園(公園)造成の時と同じように、今度は

 ○百条委員会調査打ち切り、

○池田大作先生の名誉市民はく奪を叫ぶ市民会議の解散、

○山崎正友元弁護士の証人喚問阻止・・・を

 土橋昌訓・公明党富士宮市部長、公明党元代議士・高橋 繁、公明党稲田圭佑市議の三氏が、学会側の代理人として「私のもとに依頼してきた」のです。私はこの問題解決のため、全力を尽くし解決いたしました。

百条委員委員会については中心人物、「河原崎澄雄」市議を自宅に呼び、説得に説得を重ねました。

 私は常に物事に対処する時は、自分の命を賭け、明日を考えずにその一事、一事、に全力をぶつけて力いっぱい生きています。

 ですからこの件にしても、もしこれが刑法223条に於ける処の『強要罪』になったとしても、信念を持ち行動して来ました。

 また、市民会議の代表者である、川村、黒田の両氏を喫茶店『ミミ』に呼び、市民会議を解散するよう得々と説得いたしましたし、山崎弁護士に対しては、私自身かなり強い態度で接して私の真意を伝えました。

 この件に対して『私と学会は一心同体』の筈です。先にも書いたように、富士桜自然墓地霊園造成問題に関係して、私の若い者が学会のために6年もの刑を受け、いまだに受刑中です。

 それを知り、あえて私に百条委調査打ち切り、市民会議解散、山崎正友の証人喚問阻止を依頼して来た事実は,拭うことの出来ない事実であり、私の信念五分、学会側の依頼五分を言うのも判かって頂けると思います。(中略)

  しかるに学会側は、そんな私の心を踏みにじる問題を投げつけて来たのです。私は地位も名誉もないが仁義は守り、その上での意地があります。(中略)

 学会の指導者はおのれだけの権力志向を欲望にして生き、口先だけの勤行を唱えているに過ぎない。

 私は池田大作氏の真の声を聞きたい]

 本文。

確か他にもこんな内容のことを書いたと思うよ。

「俺は決してあんたら学会に刃を向けようというんじゃない。ただ今まで俺や若い衆らがやってきたことを、虫けらを踏みつぶすような形で抹殺するようなことはしないでもらいたい」とか

 「あんたたちは宗教人として、俺たちも任侠に生きる人間として、仮にも看板上げているからには信義は守ってくれよ」とか・・・。

 けれど、しばらく待っても返事が来んから、念のため、同じものをもう一回出した。

 それでも返事は来なかった。つまり池田大作は俺からの内容証明を無視したというわけだ。 

 続く

 

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ