yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

忠犬ハチ号 半藤一利

2021-04-02 05:59:02 | 文化
去る1月に、歴史探偵を自称する昭和史の語り部、半藤一利氏(下 写真)が逝去されました。心よりお悔やみ申し上げます。半藤氏は東京向島育ちでしたが、東京大空襲で被災し、長岡市(新潟県)に疎開し、長岡中学に通い、長岡で終戦をむかえました。氏は長岡を大変気に入り、「我が長岡藩の河井継之助」と発言するまでになりました。以下は、著書「歴史探偵忘れ残りの記」の中の本物のハチ号の話です。なお。銅像は「忠犬ハチ公」といわれていますが、犬の本名はハチ号です。

忠犬ハチ公の銅像の周りは、いついっても、人でいっぱいである。いまのは二代目らしいが、わたくしは初代のハチ公の銅像の足をなでた記憶がある。「B面昭和史」でいっぺん書いたことである。満4歳の腕白坊主のとき、昭和9年(1934)4月初代銅像ができたということで、完成披露の除幕式の盛大な様子が新聞で報じられて、東京中の少年たちの大そうな話題になった。隅田川の向こう側の下町生まれのわたくしは、どうしても見たいと大人にせがんで、はるばると出かけていったと覚えている。そしてびっくりしたこともまざまざと思いだせる。銅像のすぐ脇に本物のハチ公がチョコンと前足をそろえて座っていたのである。何だ、お前もいたのかと、カステラのかけらを与えたら、パクンと。やたらにでっかい犬であったように感じられた。彼の本名はハチ号であることや、翌10年3月に13歳でこの世を去った、ということも記憶にあるけれど、そうすると、一年間も本物と銅像はならんで見物人たちを迎えていた、ということになるのであろうか。(中略)いま、黒山の人でハチ公の銅像をとっくり眺めることもしないが、本物のハチ号の死んだとき、昭和10年3月13日付けの東京日日新聞(現、毎日新聞)夕刊の記事の写しが今も手もとにあって、ときどきなつかしく眺めている。「花輪廿五、生花二百、手紙や電報百八十通、短冊十五枚、色紙三枚、書六枚、学童の綴方廿、清酒四斗樽一本、四日間のお賽銭二百余円という豪勢さであった。」そのほか付近の商店では、ハチ公せんべい、ハチ公そば、ハチ公焼き鳥、ハチ公丼などを売り出して大いに稼ぎまくったという。ハチ公人気がどれほどのものであったかがよくわかる。まさか翌年に二・二六事件、さらにその翌年に日中戦争が起こるなどと予測しているものはいなかった。「世はなべて事もなし」と国民はまだ浮かれていたのである。それにしてもハチ公の葬式は豪勢だったな、いまさらのように感服する。

 半藤一利「歴史探偵忘れ残りの記」文春文庫




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 銀行業者の心得 澁澤榮一 | トップ | 酔後の吟 榎本武揚 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

文化」カテゴリの最新記事