yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

山川健次郎 米国留学時のエピソード

2008-06-01 12:06:40 | 歴史

山川健次郎がアメリカのエール大学で本格的に物理学を勉強し始めた頃のことです。当時日本からの留学生がアメリカで不品行な生活を送っていたことが、日本で問題になりました。彼等の多くは雄藩の子弟で遊学というようなものでした。日本人だけで群れているので英語力も向上せず、勉強もせずに酒を飲んだり、売春宿に入り浸るなど、その所業は目に余るものでした。明治7年に日本政府は文部省輔、九鬼隆一を派遣して実態調査に乗り出しましたが、実情の把握は困難でした。そこで、国費留学生は成績に関係なく一旦、全員帰国させるという乱暴な結論が出され、帰国命令が出されました。<o:p></o:p>

 健次郎はピンチに立たされました。妹、捨松をおいて学業半ばで帰国するわけには行かないという事情もありました。困った健次郎はクラスメイトに窮状を訴えました。その話を聞いた同級生のロバート・モリスは、直ちに大富豪の叔母、ハンドマン夫人に面会することを薦めてくれました。<o:p></o:p>

ハンドマン夫人は健次郎の窮状を聞くや<o:p></o:p>

 「心配しないで下さい。私が援助します。但し条件があります。証文を書きなさい。」<o:p></o:p>

「学業を終えて帰国したならば、心を込めて国のために尽くすことを誓うのです」<o:p></o:p>

と言いました。<o:p></o:p>

健次郎は<o:p></o:p>

「自分は科学技術を学んで祖国のために役立ちたいと思って勉学に励んでいます。自分は日本のために尽くすつもりです。決して嘘偽りはありません」<o:p></o:p>

と言い、証文を書きました。<o:p></o:p>

夫人はにっこり笑って健次郎の手を握り<o:p></o:p>

「頑張りなさい」<o:p></o:p>

と、快く学費の援助を承諾しましたので、健次郎は留学生活を続けることができました。そして以前にも増して勉学に励みました。<o:p></o:p>

後の健次郎の功績を見ると、ハンドマン夫人が健次郎に差し伸べた温かい援助により、後の日本の教育の発展にもたらされた恩恵には量り知れないものがあります。<o:p></o:p>

 そもそも、山川健次郎が国費留学生の一人になることができたのは、会津の秋月悌次郎の周旋により、長州の奥平謙輔と前原一誠の知遇を受け、彼等の援助で留学の機会を与えられる幸運に恵まれたからです。これには薩摩の黒田清隆の配慮もあったと言われます。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

                 星亮一著『山川健次郎伝』平凡社<o:p></o:p>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 将棋の対局作法 | トップ | 江戸を救った二人の女性 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事