yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

山川捨松

2007-12-10 09:25:27 | 歴史

山川咲子は山川兄弟の5女です。鶴ケ城落城の時は8才でした。その後、斗南での厳しい生活を経験しましたが、山川家は青森県士族として間もなく東京に居を移しました。その頃「日本の将来を担う人材作りのための女子教育が必要だ」とのアメリカ帰りの黒田清隆の意見により、岩倉使節団に女子留学生を同行させるべしという声が大勢を占めました。そこで長兄浩の薦めもあり、また次兄健次郎が既に渡米して勉強していたこともあって、捨松は12才の時に官費留学生として岩倉使節団と共にアメリカに行くことになりました。母の唐衣は、お国のために娘を捨てて待つという気持ちで、咲子、改め捨松と名付けました。女子留学生は山川捨松、津田梅子(8才)、永井繁子(9才)、上田貞子(15才)、吉益亮子(15才)でした。渡米に先立ち5人は宮中に参内し、皇后陛下に拝謁して、茶菓子、紅縮緬一疋と御沙汰書を賜りました。御沙汰書には「盛業帰朝の上は婦女の模範とも相成樣心掛け日夜勤学可致事」とあり、5人は決意を新たにしたと言います。捨松は歳の近い梅子と直ぐに親しくなり、二人は生涯の友人となりました。<o:p></o:p>

渡米した捨松は19才の時、名門女子大学のバッサーカレッジの入学試験を受けました。この大学の合格資格水準は高く、男子校のハーバード大学と同等の学力が要求されたとのことです。捨松は見事合格し、開校後初めての東洋からの留学生になりました。そして「ミカド」の国から来た留学生はたちまち、キャンパス中の人気者になりました。<o:p></o:p>

また捨松は1882年の卒業式で「イギリスの日本に対する外交政策」と題する演説をしましたが、「この日の演説の中で一番熱狂的な喝采を受けた」とシカゴ・トリビューン紙に書かれました。日本の「朝日新聞」にも約1ケ月遅れて「独り山川子の栄誉のみならず、我日本の一大面目というべし、、、」と、その時のことが報道されました。捨松は大学卒業後、コネティカット看護婦養成学校にも入学しましたが、半年ほどここで学んだことが、将来、我が国最初の慈善バザーの開催や、日本赤十字社に篤志看護婦人会の設立にも大いに役立っています。<o:p></o:p>

1882年11月に捨松は丸11年振りに帰国しました。しかし帰朝してから国のために働きたいと切実に願っていたにもかかわらず、当時の日本には、有能な女性であっても適当な仕事がなく、失意の日々を過ごさざるを得ませんでした。アメリカでは兄、健次郎が懸命に日本語を教えたにもかかわらず、捨松には日本語の読み書きが不自由という弱点があり、就職を一層困難なものにしていたのです。<o:p></o:p>

そんなある日、農商務卿、西郷従道(つぐみち、隆盛の弟、大山の従兄、顕官)が馬車で山川家を訪問しました。書生から名刺を受け取った健次郎は、「西郷従道、この人に俺は用がない」と言下に応接を断ってしまいました。西郷は「先生は用はないと言われるが、私には是非ともお目にかかりたい用がある」と、まずは辞去して、次に向かったのは牛込若松町の長兄の山川浩邸でした。しかもその用件とは「妹さん、捨松嬢を大山家に頂きたい」の一点でした。大山とは参議陸軍中将兼陸軍卿、西郷と同様の顕職にある大山巌のことでした。山川家から見ると、會津戊辰戦争で鶴ケ城の堀端まで攻めこんで来た大山は「戊辰の仇」ということになります。フランスに留学した経験のある大山は当時としては抜群に欧化した感覚を持っており、大山から見て、日本が欧米列強諸国に伍して行く上でも、才色兼備な捨松は理想の伴侶と写っていました。数度にわたる熱心な大山の求婚に対して山川家は、最終判断を捨松の意志にゆだねました。大山の人となりを見て、捨松は最終的に結婚を承諾しました。当時日本では女性の地位が低く、このままでは、折角アメリカに留学して学んだことが生かせない、とも考えたからです。<o:p></o:p>

実際、結婚式の1ケ月後に新装なった「鹿鳴館」で大山夫人捨松は約1000人の招待客の前でアメリカ仕込みの見事なホステス振りを発揮して、社交界の花形となりました。以後、条約改正を目指す国策を支援して、大山巌夫人は「鹿鳴館の華」と言われる八面六臂の活躍をしました。また大山夫妻は他人が羨むほど円満で、二男一女をもうけています。次男で文学博士の大山柏は、中立的な立場から『戊辰役戦史 上、下』という分厚い戦史を著しています。この中で母山川捨松については、「鶴ケ城落城の折、最後に婦女子は自由に解放された。当時8歳であった著者の生母大山捨松(当時は山川咲子)もその一人であった。」とあるのみです。<o:p></o:p>

周知のことですが、大山巌元帥は日露戦争を勝利に導いた功績により国民的英雄となり、公爵にまで昇りつめ、大正5年の死去に際しては国葬が執り行われています。<o:p></o:p>

写真の本、久野明子著、鹿鳴館の貴婦人 大山捨松、(中央公論社)を参考にしました。

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