テレビでお馴染みの水戸黄門と保科正之公はどちらも徳川家康の孫です。<o:p></o:p>
水戸黄門は水戸藩主頼房公(家康の十一男)の子、保科正之公は二代将軍秀忠の四男で、四代将軍家綱の補弼(ほひつ)役であり、会津藩主でもありました。<o:p></o:p>
二人は常時江戸詰めで、共に学問好きであったこともあり親密で、折々に往来があったとのことです。そうした中で、ある時は国家や学問に関する議論をし、また水戸邸で酒を嗜まれた時には、あまりに多く召し上がるので、給仕が盃の数を数えたら各々27盃ということもあったとのことです。<o:p></o:p>
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正之公のほうが十七歳年上でしたので、水戸黄門は正之公を兄事していたとのことです。また将軍補弼役という職務から見ても、天下の副将軍は、正之公にこそふさわしい呼び方ではないかと思われます。<o:p></o:p>
しかし、この二人の人間観には決定的な違いがありました。『千載之松』という書物には次のような記述があります。<o:p></o:p>
「此時の物語は性善性悪の論にして、光圀卿頻りに性悪の説を主張せられしに、正之公の答に、性善の説は先賢の従ふ所、慮外ながら先賢の定説に従ひ工夫を積まれて然るべく、奇異なる御見識立てらるるは必ず御無用の由(よし)仰せられし。」<o:p></o:p>
これは正之公が性善説をよしとするのに対し、光圀公は性悪説を唱え、それゆえに正之公からたしなめられたということです。<o:p></o:p>
性悪説は荀子が唱えた説で、人間の本性は悪であるとした上で、一方では個人の能力主義を重視し、世襲制度や血縁制を否定する部分がありました。それゆえ将軍職を徳川家が世襲することによって成立している徳川幕藩体制にとっては危険思想の一つとみなされていました。<o:p></o:p>
文治政治により徳川の平和(パクス・トクガワーナ)の基を築きつつあった正之公が性悪説を退けたのは当然のことでありましょう。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>中村彰彦著『保科正之言行録』中公文庫
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