大江広元という人物はあまりご記憶にないかもしれませんが、鎌倉幕府草創期の功臣です。
福田定一(後の司馬遼太郎)は「サラリーマンの金言」の著書の中で、以下のように大江広元について書いています。
立場は違うが、源義経や武蔵坊弁慶、静御前などとは顔見知りの人物である。
鎌倉幕府の草創期に源頼朝は、学問はあるが上級公家でない彼に目をつけ、京都から招聘して幕府の公文所別当、つまり幕府の事務総長のような栄職を与えました。彼はサラリーマンの元祖です。(中略)
広元は「益なくして厚き禄をうくるは竊(ぬすむ)なり」を座右の銘としました。この言葉は『礼記』の普及版といえる『大載礼記(だたいらいき)』にあります。
鎌倉幕府の役に立つ、この一事のために大江広元は己の才能と努力をかけつくしました。しかも彼は、自分一個の私利のために才能を使わず、また一党一派の利のために走狗をつとめるということもしなかった。すべて彼の思考と行動の基準は、鎌倉秩序のためということにあったのである。
福田定一もこの本の中では触れていませんが、実は大江広元こそ明治維新の中心の一つであった長州藩・毛利氏の祖先であり、大江広元の四男、季光が毛利氏の鼻祖です。大江広元の血筋が明治維新の原動力となったと知り、驚きました。
福田定一 「サラリーマンの金言」 六月社(1955)
福田定一(後の司馬遼太郎)は「サラリーマンの金言」の著書の中で、以下のように大江広元について書いています。
立場は違うが、源義経や武蔵坊弁慶、静御前などとは顔見知りの人物である。
鎌倉幕府の草創期に源頼朝は、学問はあるが上級公家でない彼に目をつけ、京都から招聘して幕府の公文所別当、つまり幕府の事務総長のような栄職を与えました。彼はサラリーマンの元祖です。(中略)
広元は「益なくして厚き禄をうくるは竊(ぬすむ)なり」を座右の銘としました。この言葉は『礼記』の普及版といえる『大載礼記(だたいらいき)』にあります。
鎌倉幕府の役に立つ、この一事のために大江広元は己の才能と努力をかけつくしました。しかも彼は、自分一個の私利のために才能を使わず、また一党一派の利のために走狗をつとめるということもしなかった。すべて彼の思考と行動の基準は、鎌倉秩序のためということにあったのである。
福田定一もこの本の中では触れていませんが、実は大江広元こそ明治維新の中心の一つであった長州藩・毛利氏の祖先であり、大江広元の四男、季光が毛利氏の鼻祖です。大江広元の血筋が明治維新の原動力となったと知り、驚きました。
福田定一 「サラリーマンの金言」 六月社(1955)