地球の大きさを世界で初めて求めたのはギリシャのエラトステネス(BC276-BC196)です。エラトステネスは数学・天文学・地理学者です。当時、ギリシャでは既に地球は丸く、球であることが認識されていたということは驚ろくべきことです。紀元前230年頃、まず、エラストテネスはアレクサンドリアからシエネまでの距離を歩幅と歩数から500スタジアであることを求めておりました。1スタジアは当時のギリシャにおける長さの単位です。人が2分間に歩く距離で約180mに当たります。次にアレクサンドリアとシエネの両地における太陽の南中高度の差、7.2度から500X(360/7.2)=25,000スタジアと計算しました。この距離は、今日で言う45,000kmです。この値は現在、知られている、地球の周囲の長さ40,000kmに比べて、誤差は僅かに約10%ですから、すばらしい成果だと言えます。<o:p></o:p>
地球の周囲の長さが40,000kmというのは学校で学びましたが、これは、1mという長さの根拠になっています。フランス革命の頃、パリを通る経線に沿って、<o:p></o:p>
赤道から北極の距離、10,000kmの1千万分の1を1mとすることが決められました。<o:p></o:p>
実際の地球は真球ではなく、赤道半径(地球の中心から赤道面までの距離)は6378.4km、極半径(地球の中心から極までの距離)は6356.9kmであり、極半径の方が若干短いという事は、真球よりやや扁平につぶれた形をしているということです。ところで世界の長さの基準となるメートル原器という物が、長い間パリに保管されて来ました。しかし、あらゆる物質は経年変化をするので、現在では物理現象から長さや時間の基準が定められています。<o:p></o:p>
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さて、日本で最初に地球の大きさを決めたのは、幕末の頃の伊能忠敬です。<o:p></o:p>
伊能忠敬(1745-1818)の生家は漁師でしたが、長じて下総佐原の造り酒屋を継ぎ、財をなしました。50歳で隠居して、家督を子供に譲ったあと江戸に上り、幕府の天文方暦局に入って学問に没頭し、幼い頃からの夢であった天文学の研究にも携わりました。彼は当初、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算しました。ところがその値は誤差が大きくて信頼できないと、天文方の上司に一笑に付されてしまいました。そして「せめて、江戸と蝦夷くらいに離れた場所で観測しなければ正確な値が得られないであろう」と言われました。そこで忠敬は日本地図を作成するための測量をしながら、江戸から蝦夷地まで行くことを思いたち、56歳から測量の旅を始めました。それから蝦夷まで行って観測を続けて緯度1度が111kmであることを求め、これから地球の大きさを39,960kmと計算しました。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果でした。<o:p></o:p>
忠敬は71歳で、ほぼ地図を完成させましたが、これが「大日本沿海輿地全図」であり、その後昭和の時代まで100年に亘って使用された、いわゆる「伊能図」です。しかもこの図は彩色された美しいものでした。これを完成させるまでに忠敬が歩いた長さは、奇しくも地球1周分でありました。幼い頃の夢を生涯持ち続け、日本地図に結実させた熱意と努力は誠に偉大であったと思います。<o:p></o:p>