山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

老人の夢(「剣客商売」を読みながら思うこと)

2012-01-31 00:13:59 | 宵宵妄話

 今、眠り薬に池波正太郎先生の「剣客商売」を読んでいます。もう何度目の読み返しとなるのでしょうか。この本を購入したのが、昭和61年(1986)年ですから、25年以上が経っており、少なくとも10回以上読んでいることは確実です。私は池波先生のファンであり、その著書の殆どを読んでいますし、所有してもいます。先生には幾つかの長編のシリーズものがありますが、その中でもこの「剣客商売」と「鬼平犯科帳」とそれから「仕掛人藤枝梅安」は超愛読書といって良く、これらの作品の中から人間の生き様というものをどれだけ学んだか数え切れません。

 

 最初に読んだ時は、息をのむ面白さに絡め捕られる如くに全冊を買い求めて、それこそ仕事のことなど忘れ果てて、夜も寝ないで読み耽ったものでした。何度も繰り返して読んでいるうちに次第に落ち着きを以て読めるようになりましたが、今頃ではとっておきの飴をしゃぶりながら無上の夢を味わう様な気持ちで読んでいます。その中でもこの「剣客商売」のシリーズは、この年齢になってからは、いっそう楽しみながら読むようになりました。

 

 「剣客商売」の主人公は秋山小兵衛という小柄な体躯の剣の達人です。登場人物は多彩ですが、主人公を支えているメインの人物といえば、妻女のおはる、子息の大治郎とその妻の三冬それに身近の何人かの知人がいますが、それらを一々説明するのは止めることにしましょう。でも家族の人たちはそうはいきません。妻女のおはるは、何と小兵衛よりも40歳も年下なのです。子息の大治郎も又みっちり修業を積んだ大柄な体格の剣客であり、その腕前は名人の父を凌ぐほどのものなのです。そしてその妻、小兵衛とおはるからは嫁女ということになりますが、三冬は何と時の老中田沼意次の娘で、元は女武芸者といわれた、これも相当の剣の腕前なのです。実に面白くも巧みな人物構成です。

 

 この家族を中心に善悪入り混じっての様々な出来事が展開して行くわけですが、剣客商売というタイトルが表すように、それらの物語の中核をなしているのは、剣という絶えず生死が賭かる厳しい道の中に在る、情理相俟っての人の生き方の哲理なのです。この剣の道を、商売のレベルで扱うというのは、これは常人にはなかなか出来るものではありません。池波先生らしい、人の生き様を自在に描けるパワーがあってこそ書ける物語なのだと私は思っています。商売というのは一途に成果を求めて出来るものではなく、千変万化の駆け引きの上に成り立つものであり、人の営みの裏も表も知り尽くすことが前提となるものなのだと私は理解しているのですが、さて、池波先生は何とおっしゃいますやら。

 

 池波文学の魅力は、何といっても文章が江戸前だということです。山本周五郎、藤沢周平、司馬遼太郎、山手樹一郎、平岩弓枝、吉川英治等など時代小説の大家はたくさんいらっしゃいますが、江戸っ子しゃきしゃきの文章の書き手といえば、これはもう池波先生を措いては居ないと私は思い込んでいます。とくにこの剣客商売や鬼平犯科帳などは、その軽快でリズミカルで歯切れのよい書きぶりは、茨城県の田舎で育った私にとっては、昔からのあこがれでした。何度読んでも、凄いなあと感じ入っています。

 

ま、独りよがりでこのようなことを書き連ねてもあまり意味のないことなのだと思いますが、剣客商売を読んでいると、この頃は秋山小兵衛という主人公の生き方が、益々羨ましいと思うようになりました。自在の生き方をしているからです。夫婦関係も、親子関係も、師弟関係も友人・知人関係も、時には犬や猫との関係さえもその時々において最適と思える言動を自在に為していると感じているからです。

 

この本を初めて読んだ頃は、私は50歳にも届いておらず、江戸時代ならばこのような暮らしぶりもあるのかなあと、毎度生起する様々な事件に対処する小兵衛さん達の活躍ぶりを、感嘆の目を以って楽しませて頂いていたのですが、自分の齢が小兵衛山を超えてしまった今では、感嘆よりも羨ましさの方が層倍しています。おはるとの係わり合いぶりなどは、家内の手前もあって迂闊には言えませんが、小兵衛さんの剣の冴えとは又違った意味で、羨ましいなと思ったりします。倅の大治郎との関係も、少なくとも今の自分よりは上出来であり、やはり羨ましさを覚えます。(親子関係の江戸と現代を比較するなど元々ナンセンスなのは解っていますが)

 

それにしても池波先生という方は、まあ、「くらし」というものを知る大家のように思います。人間のつくる世の中そのものがくらしの集大成であり、それは人間の本性がもたらす様々の現象によって成り立っているのですが、これを自在に取り出して説明してみせるという力は、常人にはなかなか出来るものではありません。池波先生はそれを自在に成し遂げておられるのです。秋山小兵衛を中心とする人間どもの暮らしぶりを、実に楽しみながら、時に己の思いを小兵衛に託し、時に大治郎に託し、ある時は岡っ引きの手下に託したりして、ものを言わせたりしています。

 

私は「善の中に悪があり、悪の中にも善がある」というような池波先生の考え方こそがこの世を成り立たせている現実ではないかと思っています。善と悪はどちらか一方だけで存在できるものではなく、生きものにとっては、双方のバランスの上に成り立っているように思っています。つまりは矛盾という世界に生きているということです。建前と本音、裏と表、右と左、戦争と平和等々、この世を成り立たせている現実の奥に潜んでいるのは、この巧みな矛盾バランスのような気がするのです。このようなことについての解説を、池波先生は様々な作品の中で、小出しに行っておられます。この剣客商売というシリーズの中でも、何回かそれを読んで感じ入ることがあるのですが、たとえば、次のような一節があります。

~~~

そもそも人間という生きものが、矛盾をきわめている。

 秋山父子のように、剣の修業をきわめたものには、それが実によくわかる。

 肉体の機能と頭脳のはたらきが一つに溶け合ってくれればよいのだが、なまじ他の動物とはちがって頭脳がすぐれているだけに、動物としての機能が頭脳によって抑制されたり、又は反対に、肉体の本能が頭脳に錯覚を起こさせたりする。

「まだしも、野獣の方が正直にできているのさ」

 などと父の小兵衛が冗談めかしていうのだ。

「獣は、つまらぬこと、よけいなことを考えぬ。だから人よりも、むしろ、暮らしがととのっているのじゃよ」

 小兵衛にいわせると、矛盾だらけの人間が造った世の中も、これまた矛盾だらけということになる。

「ごらんな。ああ一日も早く死にたい。死んでしまいたいなどと暇さえあれば口に出す爺や婆あが、道を歩いていて、向こうから暴れ馬が飛んで来たりすると、お助けえと大声を張り上げ、横っ飛びに逃げたりするのも、その一つじゃ。頭がはたらき、口がはたらいて言葉をあやつるから、こんなまねを平気でやる。鳥獣や虫、魚などは、こんな阿呆なまねはせぬよ。もっと、することなすことが正直なのだ。もっとも他人ことはいえぬ。わしも、よいかげん、阿呆ゆえな……」(「剣客商売」春の嵐 善光寺・境内の中の一節より)

~~~

 このような解説の中には、きれいごとだけでは生きられない、人の世の本質が的確に指摘されていると思うのです。本質であるがゆえに、それは現代にも通ずることなのです。私たちはこのような矛盾の世界に生きていながら、己自身は常に合理的な世界で正義に取り巻かれて生きているなどと錯覚していることが多いのです。マスコミの流す情報に乗って政治のあり方を一方的に批判したりしている人が、選挙の投票には一度も参加していなかったり、法を守るのを職業としている関係者(警察、裁判所など)が、大悪、小悪の事件に自らを絡ませているなどということは、今の世にも絶えることがありません。斯く言う私自身だって、偉そうなことをいう資格も権利も全く無いほど、小悪にまみれた、いい加減な日常を送りながら、時には善人ぶって正義めいた主張をしたりしているのです。だから人の世は面白いのです。善悪綯()い交じって人の世は出来上がっているのです。

 

 剣客商売や鬼平犯科帳などの池波先生の本を読む度に、私はなんだかホッとするのです。今回の剣客商売は、既に半分以上を読み終えました。残っている分にどんな物語が書かれているのか、もう大抵のことは読みはじめれば直ぐ解るのですが、それでも毎回ワクワクしながら読んでいます。TVの鬼平犯科帳や剣客商売も欠かしませんが、読み本に比べれば興奮度は遥かに低いものです。空想力などがはたらく余地が大幅に圧縮されてしまっているからです。けれども、読み本は常に新鮮です。70歳には70歳に相応しい読み方というか、読んでいてのイメージの膨らみがあり、それを味わうのが、まあ、何ともいえぬ楽しさなのです。

 

老人が見る夢もまんざら捨てたものではなく、もしかしたら老人ならではの人生の至宝を手に入れて、その魅力を自分のものとして楽しんでいるのではないか。そんな風にも思えるのです。

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