山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

'11北海道くるま旅( 第8日)

2011-06-20 04:21:28 | その他
《今日の予定》
大間キャンプ場→大間フェリー乗り場→函館フェリー乗り場→函館市内知人宅→函館・恵山知人宅→東大沼キャンプ場(泊)


《昨日のレポート》
七戸の道の駅周辺は、新幹線七戸十和田駅の設置に伴い大変貌の時を迎えているようだ。旧市街が全く見えない草っ原には道の駅しか無かったのに、今は直ぐ傍に新幹線の駅があり、その脇に巨大なショッピングモールが建設中である。これが完成すれば町の様子はかなり変わるに違いない。良くなるのか、その反対なのか判らないけど、良くあって欲しいものだ。早朝新幹線の駅の方に行ってみた。駅の脇に七戸町の交流センターというのが併設されており、町の歴史や観光名所などが紹介されていた。駅前にはレンタカーの店が2店舗あるだけで、他は駐車場ばかりである。山奥を切り開いて造った地方空港のような雰囲気だ。駅からの交通手段はバスか車しか無い。車の運転のできない人にはなかなか馴染みにくい環境だなと思った。七戸の本当の町づくりはこれからだなと思った。
今日の行程は、横浜町の道の駅に寄った後、むつ市経由で尻屋崎に行き半野生馬の寒立馬(かんだちめ)を見に行くことにしている。その後は大間崎のキャンプ場に行き錨を下ろすだけである。途中気が向いたらどこか温泉にでも入ろうと思っている。
七戸の道の駅の産直品売り場「七彩館」の開店は9時からだ。それまではのんびり過ごす。開店後直ぐに中に入り獲物を探す。まだ新しいのが補填されていない物が多く、待った割にはがっかりだった。
9時半頃横浜町の道の駅を目指して出発。野辺地から無料の自動車道を使ってみたが、途中迄しか出来ていなかった。それでも少し早く道の駅に到着。ここで昼のお弁当用にホタテ入りコロッケや焼きおにぎりなどをゲットする。一息入れて尻屋崎に向かう。尻屋崎へはむつ市から県道を20数キロ行くことになる。前後を走る車も殆どなく、快適なドライブだった。やがて左手に青い海が、右手に巨大な採石場とセメント工場が見えてきた。そこを通過して少し行くと尻屋崎への道のゲートがあった。ここからは馬の放牧地となっており、この様な区切りが設けられているのだろう。2~3頭の馬が迎えに来ていた。正午少し前に岬の灯台近くの駐車場に車を留める。
先ずは腹ごしらえ。直ぐ傍で草を喰む馬たちを見ながら、こちらも先ほどのコロッケや焼きおにぎりを食する。うめぇ~。おっと、これは山羊さんか。
昼食の後相棒は早速カメラを手に出かけて行ったが、こちとらは急に眠気が襲って来てどうにも我慢ができず、1時間ほどの午睡となる。暑いのだけど窓を開けると風が通って気持ちがよい。極上の昼寝だった。旅の訪問先でこんな贅沢ができるのもくるま旅ならではの恵みというものであろう。感謝。
目覚めた後は、交代して馬たちの撮影に。親子連れの馬たちが5組ほどいて、子馬たちの仕草がかわゆい。陽気がいいので、何とも眠いらしく、両脚を伸ばして眠り呆けている子が何頭かいた。母馬は逞しい脚を大地に据えて草を喰み続けている。その目は優しい。何とも言えない優しさである。白い灯台と紺碧の海。馬たちにとって、今が一番嬉しい季節なのであろう。何度もシャッターを切った。
足元の草むらをみるとアズマギクの紫の花が咲いていた。ウシハコベも咲いていた。少し歩くとスカシユリやキスゲの花もあった。いずれも皆小さな花ばかりで、スカシユリやキスゲが超小型なのは、この地の自然環境の厳しさの証なのであろう。寒立馬と呼ばれる馬たちの厳しい冬を想った。
15時過ぎ今日のゴールの大間崎にあるキャンプ場を目指して出発。1時間半ほどで到着。少し雲が出てきて風が強い。とにかく今夜はここに泊まるだけ。自分たちの他は誰も泊まる人は居ないようだ。地震や津波が襲ってこないことを祈りつつ、念の為運転席の窓のカバーは掛けず、直ぐに避難できるようにして、眠りに就く。尚、抜け目なく、マグロを漁師さんの店で手に入れ、一杯を味わったことを申し添えます。失礼。
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'11北海道くるま旅( 第7日)

2011-06-19 04:30:31 | その他
今日の予定》
道の駅:七戸→道の駅:横浜→(むつ市経由)→尻屋崎(寒立馬)→大間キャンプ場(泊)


《昨日のレポート》
朝食の後、地図を見ていたら、青森市の方を通らなくても、八甲田の山を越えれば七戸迄は意外と近いのに気づき、予定の行程を変更することにした。くるま旅ならではの贅沢ではある。何故七戸なのかと言えば、此処の道の駅には魅力的な地元野菜や加工品がたくさんあるからである。今回の行程ではR4に出るのは無理かなと思っていたのだったが、気がついて良かった。
田舎館の道の駅では、毎週末土・日にボロ市が開かれており、今日は丁度それに当たっており、早朝4時過ぎから開店準備に取り組んでいる人たちが居た。相棒はこの市のファンで、目当てはこの地方の古布である。良くは知らないけど、掘り出し物が見つかるらしい。昨日からその様なことを言っていた。
朝食後のボロ市騒動が収まって、9時過ぎの出発となる。R102を八甲田山の方へ向かう。
先ずは黒石市石名坂という所にある、昨日と同名の木村りんご園を訪ねることにしている。此処の木村さんという方には、ネットを見ていてそのホームページの記事に首肯できるものがあり、どのような方なのかお話を伺ってみたいと思ったのである。但し場所の在処には自信はない。ダメ元でとにかく行ってみることにした。5分ほどで見当をつけた場所に到着。誰か居たら訊こうと思ったのだが、誰も居ない。りんご園には軽トラとバイクが止まっていだけど、とにかく誰も居ないので確認ができない。木村りんご園に間違いないだろうと思ったが、それ以上探し回るのは止めにすることにした。今は摘果作業の真っ最中の多忙な時であり、野次馬の訪問は迷惑ではないかと思った次第。でも何枚か写真を撮らせて頂いた。
その後は津軽こけし館近くの知人を訪ねたが不在だったので、そのまま酸ケ湯温泉の方へ向かう。R394は久しぶりの通行だ。長い上り道が終わる頃、酸ケ湯温泉を通過。傘松峠辺りは山菜採りの人たちの車があちこちに止まっていて、少し問題を感じた。
その後は曲がりくねった下り坂を走り続けたのだが、相棒が腰に影響があるようなことをいうので、慎重な運転を余儀なくされて少し疲れた。何しろまだギックリ腰が完治しておらず、爆弾を抱えて走っているようなものである。
ようやく奥入瀬渓流の所まできて、本当は銚子大滝の方へ行くつもりだったのだが、相棒の腰のことが気になり、取り止めて十和田市の方に向かうことにした。途中道の駅:奥入瀬に寄り、此処で昼食をと思ったのだが、売店を覗いても手頃な食べ物が何も見当たらないので、諦めて七戸の道の駅迄行ってしまうことにした。30分足らずの距離である。
七戸の道の駅は昨年の9月以来の再訪問である。昨年はまだ新幹線が営業しておらず、駅付近の整備工事が急ピッチで進められていたが、今回来て見ると、駅前に新しくイオンの店ができるらしく、再び工事の音が姦しかった。今度来る時には、周辺はすっかり変わってしまうに違いない。
道の駅の売店は土曜日とあってか、大へんな人出で混雑していた。早速昼食と夕食用の食材を手に入れる。その後食事をしたら、急に疲れが出たのか眠くなり、二人共寝床に潜り込む。目覚めたのは15時半近くだった。
さてどうするか。行き先候補は、小川原湖畔の道の駅か横浜町の道の駅のいずれかである。相棒の返事はいつもグズグズしている。結論はどちらにも行かず、今日は此処に泊まることにした。旅に出て6日目を迎えて疲れが出てくる頃なので、ゆっくりするのが一番ということ。
夕方になって、近くにある東八甲田温泉に入りに行く。相棒は今日は止めるとか。歩いて5分もかからない。新幹線駅前近くのこの温泉は駐車場を舗装した以外は何も変わっていない。300円の料金も変わっていなかった。車に戻りビールで一杯やって、今日が終わる。急に思い付いての大変更だったが先ずは上出来である。北海道上陸まであと2日となった。
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'11北海道くるま旅( 第6日)

2011-06-18 04:22:59 | その他
《今日の予定》道の駅:田舎館→黒石市内散策→(青森市内パス)→道の駅:浅虫温泉(泊)


《昨日のレポート》
今日も天気が良いらしく、ブログの投稿を終えて外を見ると空がうっすらと赤くなり出していた。外に出ると空気がひんやりして気持ちよい。お岩木山は雲に覆われて見えなかったが、やがて顔を見せるに違いないと思った。
今日はお岩木山を取り巻いて一番高い位置を走るアップルラインという道を通り、無農薬・無肥料でのりんご栽培に成功された弘前市在住の木村秋則さんのりんご園を探して見学するつもりでいる。事前に了解を頂き場所を教えて頂こうと問い合わせのメールを送ったのだが、返事は頂戴できなかった。それならば自力で探してみようと思ったのである。ダメ元で探してみて、そのあとは田舎館の道の駅に行きしばらく休んだ後夕方に温湯温泉に行って入ったあと、もう一度道の駅に戻って泊まるつもりでいる。
森田村には10年以上前から何度も来ているキャンプ場があり、親近感を覚える場所である。今は合併してつがる市となってしまった。つまらない。此処は津軽のりんごのふるさとの一つでもある。市などいう呼び方はまことにふさわしくない。りんごが嘆くのではないか。道の駅の売店に並んで、「おらほのめへ」という地元産の野菜や植木売り場がある。最初は何のことか判らなかったが、今はそれが「私たちの店」という意味だということが良く判るようになった。9時からの開店を待ってりんごジュースなどの買い物をする。此処の葉とらずりんごのジュースは高品質で美味であり、お勧めの一品である。
9時半ころ出発。木村さんの著書を読んで、大体の見当をつけているけど、果樹園は幾つもあり、且つ広いので見いだせる自信はない。とにかく現地に行ったら訊きまくるしかない。但しそこに人が居たらの話である。農園とはその様な場所ではある。
20分ほど走って弥生というエリアにあるキャンプ場で訊いたら、ラッキーなことに、無農薬の人ですね、と大体の場所を教えて頂いた。しかしそれから後が大変だった。似たような場所が幾つもあり、ついに5回ほどの空振りの後、目的の木村さんのりんご園をようやく探し当てたのだった。無農薬・無肥料と聞いていたので、かなり草などが茂っているのではないかとイメージしていたのだが、現地は隣接する他のりんご園と大して変わらないように見えた。その差が何なのかを判別するのは専門家にも難しいように感じた。とりあえずたくさんの写真を撮った。後でじっくり考えたいと思った。何よりも現地に辿り着いて実際を見ることが出来て良かったと思う。
そのあとは、弘前市街を通り抜けて、R7からR102に入って田舎館村の道の駅に向かう。11時半過ぎ到着。天気は上機嫌でかなり暑くなり出している。此処で昼食の後、15時頃まで休憩・午睡。今日のメイン目的を果たせたので余裕である。それに旅の疲れも溜まっているので、良い時間だったと思う。
15時半頃弘前市郊外のショッピングモールに買い物に行った後、温湯温泉に向かう。いつも入っている鶴の湯へ。素朴な銭湯風の共同浴場だけどお湯の方はとびっきり上等だ。温めの湯に5分も浸かっていると汗が吹き出してくる。しかし湯から上がって外に出ると、汗はサッと引いて、しかも身体はホカホカして、実に爽快だ。小1時間ほど温泉を楽しみ、その後は再び田舎館の道の駅へ。18時近くになっていた。
温泉上がりのビールの美味さは抜群だった。
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'11北海道くるま旅( 第5日)

2011-06-17 05:21:22 | その他
《今日の予定》
道の駅:もりた→(岩木山麓アップルライン)→木村りんご園の畑→温湯温泉鶴の湯→道の駅:田舎館(泊)


《昨日のレポート》
早朝5時半過ぎ、近くのかん満寺を訪ねる。「かん」と仮名で書くのは、携帯には該当する漢字が無いからだ。このお寺は時代の著名人が訪れた名刹である。芭蕉の奥の細道にも登場し、これが一番この寺を有名にしているのかも。道の駅からは歩いて5分ほどだ。境内にある蕉翁や西施の像などを見ながら田んぼの端に出ると、眼前に九十九島が点在していた。200年ほど前は海の中にあったというから、大自然の威力と言うのはまさに恐ろしい。今回の大震災も又同じである。お寺周辺を散策した後、車に戻る。
朝食の後、しばらく休憩して、今日のメイン訪問先のあがりこ大王の在る中島台レクリエーションの森に向かって出発。少し道を間違えたりしながら9時には到着。相棒は体調に自信がなく行かないで留守番なので、一人で行くことになった。「あがりこ」というのは、伐採されたブナの切り株から芽を出した枝がそのまま生長したものを指す、この辺りの方言だとか。とにかく行ってみることにした。
森の中には立派な木道が整備されていて、歩くのは楽だった。まさに森林浴をしながらの緑の世界は、何とも素晴らしい癒やしの世界である。相棒も来ればよかったのにと思った。川のせせらぎと一緒に春蝉や小鳥たちの鳴き声が届いて来る。川は急流である。その川の岸辺あたりには淡いピンク色のウツギの花で一杯だった。上を見ると紫の藤の花が無数に垂れ下がっていた。極楽浄土とはこのような環境なのだろうか。森はブナを中心に、ナラ、ホウノキ、シナノキ、イタヤカエデ、ヤマモミジ、などの大木が茂っていた。
30分ほど歩いて、あがりこ大王に到着。いやぁ、感無量だった。挨拶の後写真を何枚も撮らせて頂いた。とにかく何よりもあがりこであることが凄い。言わば一度人間どもに瀕死の重傷を負わされた身なのである。象色したタコ入道のような根元の瘤の膨らみにその生命力の逞しさと怒りを感じた。しかし、真っ直ぐ上に伸びた数本の樹の素直さと鮮やかな緑には、今を生きる喜びに満ち溢れているのを感じた。辺りを見回すとかなりの数のあがりこがあるのに気づいた。その昔此処から数多くのブナの大木が伐り出されたのであろう。少し複雑な気持ちになった。
帰り道は少しゆとりが出来て、尚一層鮮緑の世界を楽しむ。1時間半ほどの至福の世界だった。
今日の出来事といえば、もうこの時間に尽きる。この後は、北上を続けて、予定を遥かにオーバーして、青森県の(元)森田村の道の駅まで来てしまった。その途中のことは省略、省略。
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'11北海道くるま旅( 第4日)

2011-06-16 04:57:10 | その他
《今日の予定》
道の駅:象潟→あがりこ大王(ブナの大樹)→道の駅:象潟→道の駅:岩城→(秋田市経由~市内はパス)→道の駅:昭和→道の駅:峰浜


《昨日のレポート》
4時起床。昨夜の就寝が20時半頃だったから明らかに寝過ぎである。気分は爽快。間もなく日が登ってきた。今日はどうやらいい天気らしい。多少暑くても雨よりはずっと良い。ブログ投稿を終えて、運動を兼ねて近くの公園から少し水を頂く。その内に珍しく相棒も起き出す。少しずつ旅モードになり出したのかも。
先ずは昨日行き損ねた寺泊の魚市場に行ってみることにした。8時頃着いたが、店は全部閉まっていた。何時からの営業なのか、明記している店は一軒もない。30分ほど待ったらようやく開店の動きが始まった。目当ては寿司かサバの串焼きなのだけど、どの店にも売る準備の気配なし。出来上がるのはお昼頃かも知れないと諦めることにした。ここは早朝からそんなものを買いたがる奴など相手にしないらしい。もう無理して来るのは止めにしようと思った。
さて、今日のゴールは一応酒田市近郊の道の駅:庄内みかわ辺りを考えている。今朝来た道を戻り、弥彦山の海側を通って、巻町にてR116に入り、北上を続ける。やかて道は新潟バイパスに入り、まるで高速道を行く感じで新潟市の中心街を駆け抜けた。政令都市新潟は大都会だ。しかし、自分は今のところ大都市にほとんど魅力は感じない。此処の街中を通るのは、今度佐渡に行く時くらいだろう。
新発田から胎内市を経由して、村上市街手前の道の駅:神林にて小休止。此処で村上市街の情報のパンフレットを見たが、今回はパスして先に行くことにした。次の目的地は道の駅:笹川流れである。
笹川流れの道の駅は、この景勝地の中間位にあり、なぜ流れなのかは分からないけど、今日の海は文字通りのマリンブルーに染まって輝いていた。相棒の話では此処には何度か来たことがあると言うのだけど、自分の記憶は曖昧だ。しばらく昼食休憩する。
真っ青な海を眺めながら、奇岩の点在する道をしばらく走って、道の駅:温海に到着。天気が良いので何だか急に眠気がやってきたので、此処で30分ほど寝床に潜りこむ。この眠りもなかなか良いものだ。
眠りから覚めて、北上開始。次の目的地は道の駅:庄内みかわで、此処が予定では今日のゴールなのだが、まだ14時だし、天気も良いので、この分だと日本海に沈む夕日が見られるかも知れないと考え、象潟の道の駅まで行くことにした。日本海側にはたくさんの夕日の名所があるけど、象潟の道の駅の4階にある展望温泉からの夕日は格別だ。今日は大丈夫だろうと思った。
途中、酒田市内で給油。遊佐の道の駅:鳥海に寄って、今夜の肴にと焼き魚などを買う。山菜類はもう終わっていた。
16時半象潟の道の駅に到着。まだ太陽は高い。今日の日の入りは19時頃というので、ざっと夕食の準備をした後、書き物などの整理をする。相棒は疲れて仮眠に入っていた。18時半近くになり温泉に。相棒はのぼせそうなので風呂は止めるとか。夕日の写真でも撮るらしい。
イヤ~、それからの30分ほどの長かったこと。沈む夕日を実感し出したのは、19時頃だった。それから6分ほどが本物の夕日ショーだった。最後に太陽のてっぺんがストンと消え去って、それは終わったが、何度見ても何故か感動的である。湯船には10人ほどがいて、皆同じような思いでこのショーを味わっていた。太陽が沈むと途端に辺りは暗くなり出し、展望風呂のガラスが曇りだした。今夜は少し冷え込むのかも知れない。
車に戻る途中の鳥海山はすっかり雲が取れて、夕闇の中にその雄大な姿をくっきり浮かばせていた。夕食のビールは美味かったァ~。今日の走行距離は261km。たちまち爆睡となる。
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11北海道くるま旅( 第3日)

2011-06-15 04:16:43 | その他
《今日の予定》
道の駅:くがみ(国上)→新潟市内(パス)→村上市内散策→道の駅:笹川流れ→道の駅:あつみ(温海)→道の駅:庄内みかわ(泊)


《昨日のレポート》
昨夜はあまり喜び過ぎて、酔いもいささか度を越したかと反省と心配の心境だったが、目覚めは実にスッキリしていて、良い友と良い酒は人生の至上の宝物であることを再確認した。
5時過ぎには起き出し、1時間ほど付近の散策に出かける。JR矢吹駅迄行って見たが、震災の被害状況はかなり酷いものだった。道路は凹み、家屋は崩壊の危険ありと、赤紙を貼られたのが何軒も見受けられた。守谷市とはレベルが全く違うのを実感した。テレビの放射線測定データの数値もかなり大きくて、事故の深刻さを痛切に感じさせられた。
散策から戻った後は美味しい朝食のテーブルを囲み、尽きぬ話に10時半まであっという間に時間が過ぎてしまった。
名残を惜しみつつIさんご夫妻に別れを告げ出発となる。今日は当初の予定では、会津若松の史跡を巡るつもりだったが、別途出直してじっくり見ることにして、パスして新潟県な燕三条に向かうことにする。
近道の県道を通りR294に出て北上を続け、R49に出て会津若松方面に向かう。先日ようやく読み終えた「会津士魂」の中に披瀝されている幾つかの地名や史跡の案内板などを目にして、少なからず興奮を覚えた。会津若松を過ぎ、西会津の道の駅にて少し休憩する。軽く昼食を済ます。
その後はR49をひたすら新潟方面に向かい走り続け、阿賀野市に入ってから、五泉市方面へ。しばらく走り加茂市から三条市方面へ。
燕三条に向かうのは包丁を手に入れたいため。燕三条地場産業振興センターに行けば手に入れることが出来るのだ。何年か前此処によって刃物を調達したことがある。少し道に迷ったりしながら、地場産業振興センターに到着。あれこれ迷いながら包丁を一本ゲット。これは知人のアウトドア仲間の料理長にプレゼントの予定。
その後は弥彦神社の方に向かい、道の駅:くがみにて錨を下ろす。寺泊迄行き何か魚をと思ったが、間に合わないと思って、此処に泊まることにした。途中雨に降られたりしたが、此処は大丈夫そう。変化があるいい一日だった。
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'11北海道くるま旅( 第2日)

2011-06-14 05:07:31 | その他
《今日の予定》
Iさん宅→会津若松市内散策→燕三条地場産業振興センター→道の駅:国上(くがみ)(泊)

《昨日のレポート》
ほぼ予定通りの行程だった。午前中は相棒の所要で、つくば市内で過ごし、旅の正式の出発は12時30分となる。
一路福島県矢吹町を目指す。先ずは筑波山麓の道を益子焼で有名な栃木県の益子町に出てR294に入り、この道を福島県の白河市に向かう。途中休んだのは、黒羽町でのトイレ休憩と道の駅:東山道伊王野の10分ほどだけ。道は空いていて、快適なドライブだった。相棒は殆ど眠りの中だった。白河市内でR4に入り20分ほどで今日のゴールのIさん宅に到着。16時40分だった。
一年以上もの時間が経ってしまった再会だったけど、とにかく会えて嬉しい。Iさんは、ご主人がこのところ体調を崩しておられ心配だ。歩行もままならない様子を伺い、掛けることばもなく、ただひたすら回復を祈るばかりである。加えて福島県は原発事故の最大の被害地であり、お住まいの矢吹町も例に洩れない。暗い話ばかりがつい出てしまう今の世の中ではある。
大変なご馳走と美酒に酔いながら、カロリーのことは忘れ果てて、夜遅くまで歓談が続いた。嬉しくも楽しい一夜だった。一日も早いご主人の本復をお祈りすると共に原発事故の収束と安全・安心の回復も又。
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'11北海道くるま旅〈第1 日〉

2011-06-13 04:21:53 | その他

今日の予定 : 自宅→つくば市内→福島県矢吹町Iさん宅(泊)

昨日のレポート : 旅の出発準備で朝から大童。荷物は最小限と思っていても、やってることは最大限?どうにかケリをつけて、夕方迄にはようやく落ち着く。旅の出発前日は、旅の本番よりも遥かに疲れる。予報では明日は雨となるらしい。最後の積み荷には雨は嬉しくないな、などと思いながら明け暮れた一日でした。

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いよいよ明日出発です

2011-06-12 04:33:56 | その他
明日からは携帯にて旅の報告をすることにします。今日はその練習です。普段あまり携帯メールは使っていませんので、馴れるのに時間がかかります。また、ブログ画面の文字も小さくなりますので、そのままでは読みにくいと思います。拡大してご覧下さい。
毎日の記事は、①今日の予定(行程の概要)②昨日のレポートメモ(昨日印象に残った出来事など) の二つの項目に分けて記載するつもりでいます。
さて、どんな旅になりますやら。
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「会津士魂」を了読する

2011-06-11 06:34:17 | 宵宵妄話

 昨日、ようやく「会津士魂」(13巻)を読み終えました。旅に出かける前に何とかケリをつけておこうと思い、ようやくとりあえずのゴールに辿り着いたということなのです。とりあえずというのは、この後に「続会津士魂」(8巻)が控えているからです。これを読み終えて、初めて幕末のこの一連の物語を了読したということになるのだと思っています。その意味ではまだ感想を述べるのは早いということなのかも知れません。でも今年1月下旬から5カ月を超える時間を掛けて一区切りしたということなので、旅に出かける前に少し感想を書くことにしました。

一応13巻を読み終えて、トータル的な感想を述べるとすれば、この本は小説などではないなということです。史実の記述を敗者の側から思いを込めて綴った歴史書であるということです。この種の本は極めて数が少なく、いつの世もそうですが、勝利者側が正義側の仮面をかぶって、後世に己たちの名を高からしめんと歴史を捏造(ねつぞう)するのです。日本の歴史も世界の歴史もその本質を追究して行けば、常に勝利者によって創り出されたものであり、その陰には勝利者に層倍する敗者の真実が転がり、横たわっているのだと思います。つまり、本当の歴史というのは、勝利者側の言い分だけではなく、これら敗者側のもの申すを取り上げて、その双方を同時並行的に見てゆくことの中に潜んでいる、そこに歴史の本質があるのだと思うのです。その意味で、この本は幕末の改革の歴史のあり様を、その本質に迫って教えてくれるとても貴重な資料なのだと思いました。

最初読み出した時は、鮎川兵馬という人物を主人公にして幕末会津藩の激動の様子を描く小説なのかなと思っていたのですが、読んでいる内にいつの間にか鮎川兵馬は消え去り、克明な史料等に基づく会津側から見た幕末の動静の解説となっていました。やがて鮎川兵馬は再登場しますが、もはや主人公などではなく、会津藩全体が主人公であり、それは「会津士魂」という武士道というか強烈な精神構造で貫かれた叙述となっていました。

読むのに手間取るのは、残されている史料が数多く披歴されていたからでした。それらの一つひとつ丁寧に読んでいたなら、私の場合は恐らく一年かけても読み終えることはできないと思います。なぜなら、その史料一つの中にも数多くの意味が含まれており、その掘り起こしから新しい一つの歴史解釈が生まれ出そうな、そのような資料が多かったからです。

そもそも会津藩は自ら進んで宗家(徳川将軍家)の意向に従ったわけではなく、誰もなり手がない実情を見かねて京都守護職という役割に任じられたのでした。これはその役割を任じた者が本来最終責任を取るべき話なのです。ところが宗家自体がその責任を投げ出し、保身に終始し、又御三家といわれる内の筆頭の尾張家は最初から保身ばかり、紀州家も日和見から保身へ、水戸家に至っては空中分解のような有様で、結局侍としての道を貫いたのは御家門の一つに過ぎない会津藩だったわけです。謂わば、敢えて貧乏くじを引かされたというわけです。

それにしても士道というのは、士魂というものは凄いものだなと改めて思いました。それをつくり出しているものが、忠孝仁義の訓育にあるのか、藩祖の宗家に対する強い思いにあるのか、現代に生きる私には到底思い至ることは不可能です。長い時間を掛けて培ってきた生き方・その考え方というものが、決して上つ面の口先だけのものではなく、真に生命を賭すほどのものだったということなのだと思います。

この本の中では、女性の在り様も所々描かれていますが、最後の辺りでは娘子(じょうし)軍を結成するという凄まじさであり、武士の生き方というのは男性のみではなく、士魂というのは女性も又その中に含まれているのだということが良く解ります。それほどに会津士魂というのは、暮らしの中で煮詰められ育っていたのだと思いました。

第13巻の「鶴ケ城落つ」は悲惨な読み物でした。勝者が敗者の息の根を止めるという行為は、敗者にとってはまさにこの世の生き地獄そのものだったに違いありません。鶴ケ城が落ちて会津藩が降伏したのは、会津藩が弱かったからではなく、会津藩との同盟列藩の士魂が揺れ動き続けたからなのだと思います。官軍側の中核である薩長土の改革(=倒幕)の意思は真に強固なもので、微塵も揺らぎはしなかったのに対して、守旧を基盤とする列藩の意思は建前と本音のギャップが大きかったように思います。それを信じつつ、裏切りにも激せず、会津藩は行きつくところまで行ってしまったのでした。まさに悲劇だったに尽きると思います。

話は変わりますが、30年ほど前に早乙女貢著の「日本をダメにした明治維新の偉人たち」(山手書房刊・S53年刊)という1冊を読んだことがあります。この頃は「会津士魂」は未完だったと思います。従って事情も知らずに、明治維新の名だたる功績者を真っ向から切り下げる論調のこの本をややためらいながら、しかしさもあろうかなどとも思いながら読んだのを思い出します。その意味が、今では鮮明に理解できる気がします。この本はもともと週刊誌に連載されていたものをまとめて刊行したものですが、3つの章に分けて整理されています。①薩長の志士が醸成した汚職の政治風土②現代の政治家・官僚に見る薩長の弊害③お上意識に泣かされた国民の明治百年の3章です。会津士魂を読むと、この意味が素直に理解できるのです。

私にはこれほど明瞭に断罪的批判をすることは到底できません。革命や改革には功罪は付きものであり、歴史というのは、どちらか一方に傾けて見きれるものではありませんので、この本の謂わんとするところは、士魂をないがしろにしたその後の治世の堕落の部分を指摘しているのだと理解しています。そう考えると、政治家や官僚という世界の特殊性というか悪の部分が垣間見える感じがします。清濁併せ飲むのが大人(たいじん)だなどというご都合主義がまかり通ったのが昭和の敗戦を迎えるまでの日本の政治や官僚の実態であり、それは今でもどこかに生きている感覚のような気がします。

ところで又話は変わりますが、現在の政界の動向を見ていると、こりゃあ明治時代よりももっと酷いなと思えてなりません。明治時代よりは毒が少なくなっていることは明らかですが、その分、功(こう)に係わる力(りき)が収縮してしまった人物だらけなのにがっかりするばかりです。未曽有の大震災に見舞われ、世界中が恐怖している原発事故の収束見通しも定かでない中で、小者としか思えない政治屋ばかりが口先で何をわめいているのやら、被災者や事故現場の労苦を置き去りにしてコップの中の政争にトチ狂っているというのですから、うんざりするばかりです。この先この国の現状を本当に憂い、口先だけではなく身命を賭してこの国を運ぼうとする人物が現れるのか、それまでにどれほど時間がかかるのか、力の失せてゆくのを実感している老人の嘆きは深まるばかりです。

会津士魂を一先ず読み終えて、複雑な心境にあります。今の世の中も、もしかしたら勢いを無くした明治維新の勝者の驕りが尾を引いて、政治的な堕落の世界を形成しているのではないかなどと思ったりしています。そして会津士魂のような一本骨のある精神こそがこれからのこの国をつくり直してゆくのではないかとも思ったりしています。

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