山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

本物の冬

2011-01-11 05:28:25 | 宵宵妄話

  昨日はブログの投稿を休みました。旅は冬眠中なので、なかなか書く材料が見当たりません。昨日は成人の日だったので、何かをと思いましたが、世相に触れると、物事のすべてが批判的となり、どうやら単なる老人の愚痴になってしまうようなので、思い止まりました。今の世を作るのに、知らぬままとは言え、自分たちが大なり小なりに加担してきたことを思えば、今更良い子(=悪ジジイ)になってツベコベ言うのは、天唾だなという思いがあるからです。

 冬眠中はブログの方も冬眠するのが健康な生き方だろうと思ったりしますが、眠り呆けているとそのままあの世に行ってしまうかも知れず、なかなか難しいものです。

 今日は冬の感想所感です。

  寒さが本格化しました。守谷のこの辺りでも、日中の最高気温が冷蔵庫の中並みになり、最低気温は冷凍庫の庫内温度に迫ってきています。おまけに昨日は終日かなりの強風が吹き、体感気温は終日冷凍庫の中並みとなっていたように思います。北国では雪が相当に深くなったとのニュースがしきりですが、この辺りではお天道様は雲一つ無いカンカン照りで、真に皮肉なものです。

北の方には紫色に震え上がった筑波山が脅えるように立って見え、その少し西側には、遠く那須連峰、日光男体山、白根山などがそれぞれ頭に雪を冠して連なっているのが望見出来ます。そして、遙か南西の方角には日本一の名峰富士山が、これ又純白の雪の装いで輝いて見えます。なかなか良い景色です。

本当はそれらの写真を撮って載せたいほどなのですが、守谷という所は、街中の至る所に大型の送電線が張り巡らされているかの如く走っており、加えて電線もやたらに多くて、写真を撮る意欲を減退させてくれます。最近増えてきているマンションの屋上にでも上れば何とかなるのでしょうが、無断で入るわけにも行かず、時々歩道橋などから望見するのみです。

今日はあまりにも寒いので、私一人が犠牲(?)になって買い物に行ってきました。10分ほど歩くと大型のスーパーがあって、何でも揃っているのですが、家内は恐怖を覚えたかの如くに外出を忌避していました。もはやお互い風の子になる元気はなく、無理をしないことにしています。

寒さの中に花を咲かせている植物が幾つかあります。その中で冬を感ずるのは、無表情な花をじっと咲かせている八つ手です。こんなに寒い季節にどうして花を咲かせるのか、八つ手は真に変わり者です。この季節に、あまり日差しの多く無い場所に、何事も無いようにひっそりと咲いている花を見ると、ああ、今は冬なのだなあと実感するのです。

 

 

人家の垣根の内側にひっそりと咲く八手の花は、冬を象徴する花の一つのように思える

        人の世の暗闇吸うて八つ手咲く  馬骨

 

 

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日本一の新年会

2011-01-09 03:04:09 | 宵宵妄話

  今日の話は、自画自賛というか、勝手にそう思い込んでいる世界での話です。

 昨日は久しぶりに県都の水戸まで出かけました。毎年行なっている高校卒業時のクラスの新年会に出席するためです。世の中では、たくさんの種類の新年会が催されていると思いますが、私はこの新年会は日本一のものだと思っています。何故日本一なのかといえば、その内容が、真に新年会に相応しいものだと確信しているからです。日本広し(あまり広くもないか?)と雖も、他にこのような新年会は存在しないのではないかと思うからです。

何故そう思い込むのかといえば、私が幹事代行をしているからというのではなく、他の新年会には無いと思える幾つかの特徴があるからです。それらについて紹介しましょう。

まず第一に、この新年会は高校卒業後、一度も中断することなく現在まで続いているということです。18歳で卒業ですから、71歳の現在では連続53回開催されていることになります。つまり半世紀の歴史があるということです。

次にその出席者の多いことです。今日は17名の出席でしたが、前回は21名の出席でした。卒業時のクラス在籍者の半分には満たないのですが、50年以上経った今でも、毎回これだけの数のメンバーが集まる新年会などというものを私は他に知りません。

三番目は、酔いに任せて唄など歌って、騒ぐなどということは一切無しの集まりだということ。そして、今回などは会を始める前に、有志が集って、亡き恩師やクラスメートの墓参り(6名の物故者がいます)をし、宴の初めには黙祷を奉げて冥福を祈るということを行なっています。

このような紹介の仕方をすると、そりゃあ新年会じゃあないのでは?ということになるのかも知れません。しかし私的に言わせて頂けば、忘年会と変わらぬ内容の憂さ晴らし的な宴会は、それこそ新年会には相応しくないと思っています。新年会というのは、新しい年を迎えて、今年一年を良い年にして生きてゆこうと、全員が、そして一人ひとりがしみじみと実感できるような場であることが、それに相応しいのではないかと思うのです。酒席になれば、大騒ぎするというのは、若者に任せておけばいいことで、年を経てくれば、そのようなことはもう卒業しても良いのではないでしょうか。

私達の新年会は、簡単に言えば昨一年の近況報告会といえるかもしれません。一人ひとりが順番に、この1年を過した中での出来事や印象事などを報告し、時々メンバーから質問が飛び出してのやり取りがあります。一人3分の持ち時間は、10分ほどにもなることもあり、全員が話を終るまでには、結構時間がかかるのですが、それぞれの話は実に面白くて、時の経つのを忘れ、あっという間に終わってしまうという感じです。同じ年齢、同じ世代の生き方についての様々な情報が入り乱れ、普段の暮しではなかなか得ることの出来ない刺激を、それぞれが感ずることができて、少しも退屈しないのです。

学び舎も時も同じではあれ、その後の暮しは皆異なり、まさに多士済々です。現役時は殆どが指導的な役割を果たしていた人たちですから、皆個性が強いのです。他人と同じことをしようと考えている人物など一人も居ません。皆、それぞれに己の信念に基づいて生きようとする人物ばかりです。現役を退いた後は地域の中で、指導的立場で趣味を生かし育てている人、或いは未だ引退が叶わず仕事を引きずっている人、経営者として実業に身を置き先頭に立って活躍している人、もう一度理系の勉強をし直そうと学校に通って、年下の仲間と学びながら時々難しい質問を浴びせて、若い先生を困らせている元技術者、引退後改めて文学書を読み始めた科学者や短詩形文学にのめり込んだり、古文書にうつつを抜かす技術者等々、実に面白い連中ばかりなのです。このような人たちの夫々の年間報告は、国会答弁などを聞くよりは遙かに面白く、飽きません。

この集まりが50年以上も続いてきたのには勿論理由があり、その一つがクラスを担当された恩師の情熱と言うか、このクラスにかけられた思いの強さと深さがあります。恩師のI先生は、惜しくも3年ほど前に身罷られましたが、生前は毎年この新年会にご出席されるのを本当に楽しみにしておられました。この先生が、卒業後30年経ったときに、卒業時に皆で作成した記念文集の復刻版を自費でお作りになり、クラスメート全員に送って下さったのです。この復刻版を頂戴するまで、私なんぞは毎年新年会が開かれていたことなどつゆ知らない存在でした。丁度転勤で東京へ戻った時でもあり、それ以来特別の支障が無い限りは必ず出席するようになったのです。I先生はこのクラスの、集団としての凝集力の核として、今でも大きな力を発揮されていると私は思っています。

もう一つの長続きの理由は、長いこと幹事役を引き受けてくれたKさんと、それを支えてきた皆出席の諸兄の働きがあったからだと思います。何ごともそうですが、表に立つ人の蔭や裏には、それを支える存在が必ずあるものです。このクラスにも、自分のことは忘れてもそれぞれの役割を担って尽力された人が居られたのです。おかげさまで、今日まで絶えることなくこの集まりが続いているのだと思います。

私は数年前からこの新年会の代行幹事として役割を担当することとなりました。つまり、日本一の新年会の事務方を担当することになったわけです。このままで行くと、あの世への旅に出発するまで担当することになりそうです。そうなると、ちょっぴりこのクビキ(頚木)から逃れたいなという気持ちも生まれてきて、日本一とはいえ、少々気の重さも感じています。そんな事で今日ちょっぴりその旨の問題提起(?)をしましたら、代行幹事をもっと増やして協同体制でやって行こうという話となりました。実態がどう変わるのか良くわからないのですが、日本一なのだから、ま、いいか、ということにしました。(これは愚痴です)

日本一の新年会から戻って、さあて、この一年をどう過してやろうかと、もう一度くるま旅のことを含めて、考えているところです
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新たな食飲生活への挑戦

2011-01-08 05:58:07 | 宵宵妄話

 古希を終えて、心に決めたことがあります。かなり難しいことだと肝に銘じているのですが、何とか実行してこれから先の人生の基盤づくりにつなげたいと思っています。

どういうことかといえば、食生活をベジタリアンベースに持ってゆくということなのです。肉類などはもともと大して好きでもなく、油類もそれほど好んで摂取しているつもりはないのですが、糖尿病絡みでの血液の分析データを見る限りでは、動脈硬化などを懸念する関係数値はかなり高いものとなっており、薬の力を極力避けるとしたら、これらの改善には、食事を何とかする以外に道はないように思えるのです。

なぜ、ベジタリアンなのかといえば、数年以上も前ですが、旅で知り合った超高齢者のある方(Fさん)のお話を聴いて、深く心に思うことがあったからなのです。Fさんは70歳を過ぎてからの食生活を、徹底した野菜類を中心としたものに切り替えられ、90歳台まで現役でくるま旅を実現されていた大先輩でした。残念ながら昨年お亡くなりになられましたが、まさに私の願うところのPPK(ピン・ピン・コロリ=長期間病院のお世話にならない逝き方)のお別れだったようです。

数年前にお話を伺った時には、70歳になるまではあらゆる病気が身体に巣食っていたとのことでした。70歳になった時に、ある方から野菜中心の徹底した食生活が、さまざまな難病を克服する基となるという話を聴かれ、それを敢然と実践されたのでした。10年以上続けられているうちに、それまで問題だらけだった健康状態が安定し、身体に関するデータの全てが正常値の範囲内となり、医者が何故なのかと首をかしげるほどになったとのことです。

Fさんは、予めミキサーを使って旬の野菜などを破砕した特別食を、1食分ずつ冷凍保存して携行持参し、それを解凍してくるま旅における三度の食事の殆どを賄うという暮らしぶりなのでした。お会いした時は既に85歳を超えたお歳でしたが、矍鑠としておられ、何と1日500km以上も夏の北海道を走っておられたのです。超人といった感じでした。本当に大丈夫なのかとの心配も抱きましたが、病に養われて家の中に燻り、病院を往復するような暮らしのことを思えば、このような生き方こそがまさに本物ではないかと思ったのです。

それで、自分もFさんのその考えにあやかりたいと、いろいろお話を伺いました。教えを乞うた後は、直ぐに実行するつもりでいましたら、Fさんは、あなたはまだ若いのだから、始めるのは70歳になってからで良いとおっしゃるのです。それまでは自分の好きな食べ方、飲み方でいいのではないかとのことです。確かに冷凍した野菜の塊を解凍して食べるだけなどという食事は、これはもう味が美味い、不味いなどという世界ではなく、高度の修業のようなものだと思います。そのような修業は早まって行なうものではないという教えだったのかもしれません。私は酒飲みなので、冷凍野菜の塊で一杯というのはちょっと厳しいな、もうちょっとあとにするかと、たちまち易きに与して今日まで半端な取り組みに終始したのでした。

ところがこの間に糖尿病はかなり悪化しているようで、このままでは薬を飲み続けなければならず、更には本格的な合併症の発症も予想され、くるま旅にも支障を来すようなことが起こるかも知れないと思われ、いよいよ特別食にチャレンジする時が来たのだと覚悟を新たにしたのです

しかし、全く同じ様なやり方ではとても継続が難しいと考え、先ずは少し軽いメニューから始めることにしました。その指標として、次のようなものを掲げることにしました。

「一汁一菜一普食 不許間食 一日一杯熟飲」

これは指標であると同時に戒のようなものでもあります。「一汁一菜一普食」とは3度の食事の内、朝は特別野菜ジュースのみ、昼は野菜の煮物類のみ、そして夕食は普通のものという食べ物の種類と食べ方を意味し、「不許間食」というのは間食をしないということ、そして「一日一杯熟飲」とは文字通り酒は1日1杯をじっくり味わって飲むという意味です。これを書いて机に貼り付けてあります

一汁や一菜の中身は秘密です。私の場合は冷凍は止め、旬の野菜類を中心にミキサーにかける考えで、味などにはこだわらず、あくまでも栄養素とカロリーを念頭におきながら工夫して行きたいと思っています。旅先では地元の野菜類を大いに活用させて頂こうと思っていますし、ミキサーなどは既に備えてあります。夕食の普通の食事も他の2食のリバウンドとならぬよう、特にカロリーの摂取には要注意です。又間食は無意識に食べることがあり、これ又要注意です。お酒の方は止めることは考えられず、その種類が何であれ、量を一日一杯と決め、これをゆっくり味わって飲むことにします。

と、まあ、このような話なのですが、何よりも大切なのは継続です。続けなければどんな戒めも、指標も何の力も発揮しません。人間の細胞は、脳細胞を除けば、約8年で全て入れ替わるということですから、最小限8年間はこの食生活を続ける必要があると考えています。12月の15日から早速開始したのですが、年末から年始にかけては、たちまち戒めを破り、この期間は特別だと妥協し、ようやくこの悪夢から抜け出し、一昨日から再出発を期したというのが現状です。自分はそれほど意志が弱いとは思っていないのですが、食のこととなると、誘惑があまりにも多く、他人を不愉快にさせることもあり、挫折の要素は周辺に満ち溢れています。もう一回り変人にならないと、ダメだなと、改めて覚悟の臍を固めているところです。

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年賀状の仕分け

2011-01-07 02:26:04 | 宵宵妄話

 

 今年の年賀状の配達も、もう山場を越えて終りに近くなったようです。年賀状は、お正月の楽しみの最大のものですが、元日以降それを受け取って読んでいるときにはそう思うものの、年末が近づいて、投函の締め切り日が迫って来るのに気づく頃になると、さて、今年はどうしたものか、思い切って出すのを止めようか、などと迷うこの頃なのです。心の世界とはいい加減なもので、その時々の模様は真にご都合主義そのものであるように感じます。

 一昨年あたりから行政の改革手法として、事業仕分けなるものが導入・実施され、TVで公開放映されて以降、何かと話題を呼んでいますが、この手法にあやかって年賀状も仕分けをしなければ、などという話を新聞などで目にすることがありました。長年惰性で出し続けてきた年賀状を見直して、本当に必要と思われる人にだけ出すようにしようという考え方です。私も毎年本当にこんなのでいいのかなと思いながら、半ば惰性的に今でも約400枚の年賀状を購入し、毎年大したアクセントも無い内容の写真や文面を考え、印刷して、出し続けています。

それで仕分けを思い立ったのですが、これがなかなか出来ません。その気になって、名簿を見ながら一人ひとりの顔を思い浮べていると、その人と会って話をした時のことなどが思い起こされ、もしここで年賀状を出すのを止めてしまったなら、今までの折角のご縁もこれっきりとなってしまうのだと思われ、どうにも踏ん切りがつかないのです。功利的に考えるのであれば、もう10年以上も一度も会ってもいない人なのですから、これから先も会うチャンスは殆どないと分っており、縁が切れてもどうってことはないはずなのですが、これがなかなかできないのです。

で、今年も同じ様な迷いのプロセスを経て正月を迎えたわけですが、結果的には仕分けなどしなくて良かったと、安堵の胸を撫でおろしたのでした。よく考えてみれば、これは当たり前のことで、人との係わり合いは経済効率とは異なり、損得の物差しなどで計るべきものではないのです。政府が行なっている仕分けは、予算という投下費用に対する経済効率の是非を計っているものであり、年賀状をこれに当てはめると、損得の計算となってしまい、損と思える人には賀状は出さず、将来得する人には出し続けようということになってしまいます。これは現代の効率主体思想に毒された考え方です。うっかりすると総ての言動にこの効率至上主義が入り込んでしまいそうです。危ないところでした。

年賀状の仕分けなどは本来あり得ないのです。年賀状の要不要は、自分が決めることではなく、今までご縁のあった相手の方が決めることなのです。(勿論例外も幾つかはあると思いますが)惰性になっているか否かのチエックの決め手は、あくまでも相手方にあり、具体的には、たとえば相手方が2年以上反応がなくなった時くらいかな、と私的には考えています。相手の方が、もういいよと思っているのに、賀状を押し付けて送り続けるのは、失礼というものでしょう。少し淋しいけど、これは致し方ありません。

ところで、今年頂いた、たくさんの賀状の中で最も感動したのは、小学校1年生の時の、担任だった先生からのものでした。それには「郵便はがきが五円の時からのお葉書を時々読みかえしています。拓弘さんから『元気』をもらい、元気に過しています。有難うございました。今後のご活躍を期待しています」と書かれていました。毎年頂戴している年賀状ですが、今年はまた格別な思いで拝見・拝読させて頂きました。

小学校1年生というのは、7歳です。父母に教えられ、その時に初めて年賀状というものを知ったのですが、それ以来毎年この先生に年賀状を出し続けて来ました。もう数えれば今年で64回目となります。先生の書状には、はがき1枚5円の時からということですから、今はもうはがきも往時の10倍の価格となっているのだなあと、改めて時間の経緯・変転の長さ・大きさに驚かされたのでした。

私は、小学校に入学した頃は大変な小心者で(今でも本質的に変わっていませんが)、学校に行ってもなかなかその雰囲気に馴染むことができず、ものを言わない子でした。しかしそのくせに、学校で学ぶ内容については、教科書に書いてあることなどは殆ど全部知っていて、授業(といっても、遊びのようなものですが)に楽しさをあまり感じていなかったのを覚えています。それが急に元気な子になって発言をするようになったのは、担任だったN先生(後に結婚されてY姓に変わられた)のおかげなのでした。N先生は女性の先生で、今思うと当時まだ教師になりたての頃ではなかったかと思います。子どもたち一人ひとりを良く見て頂き、その子の持っている力のようなものを、優しく引き出して下さったように記憶しています。私的に言えば、この先生に可愛がって頂いたおかげで、学校生活に自信が持てるようになり、恥ずかしがり屋ながらも自分の考えを述べることが出来るようになったのでした。先生に教わったのは1年生の時だけで、その後先生は転任となり、他の学校へ移られたのでした。

実は、それ以降一度も先生にお会いしたことがないのです。でも私にとって、1年生の時のN先生は、その後、私が学校という学びの世界を、自信を持って歩むことが出来るようになれた、そのための大きな力を与えてくださった人生最大の恩人なのです。もしN先生に出会わなかったら、別の道を辿っていたかも知れません。当時は終戦後の貧困の時代で、食糧も衣服も、あらゆる物資が不足の時代でした。私の家のように都市部から焼け出されて開拓地に入植した集落の人間は、地元の村人からはとかく特別視される傾向があり、それは子ども心にも敏感に感ずるものでした。ましてや私の住む集落は、隣村に属しており、しかし通学にはわずかに近い距離のため、いわば越境入学だったのです。今のような時代ではなく、いわゆる差別に対する村人の感覚は、一部の先生も含めて口に出しても当たり前のこととして通用していたのでした。そのような状況の中で、ともすれば引っ込み思案となりがちな自分を、N先生は特別に眼をかけて面倒を見て下さったのかもしれません。真に有難いことです。

先生が転校されても、その後は毎年お礼の報告のつもりで年賀状を出させて頂きました。最初の頃は父母に言われるままにたどたどしい文字で綴ったものだったと思います。やがてN姓がY姓に変わり、結婚されたのだということを知りました。私の方も高校、大学と進み、就職して上京し、結婚し、転勤を繰り返してと、様々な人生体験をして今日に至っているわけですが、この間一度も賀状を欠かしたことはありません。

60年余の歳月の中で、私のN先生への感謝の気持ちは少しも変わってはいません。もうお幾つになられたのか、90歳近くになられたのか、或いはそれ以上なのか。でも私の中では先生のお顔は小学校1年生の担任のままなのです。恐らくそれは先生の方でも同じことで、今頃このハゲ頭のジジイをご覧になったら、まあ、驚かれて卒倒されるのではないかと思います。ご存命の間に一度お会いしなければと思う一方で、お会いしてお互いの60余年前のイメージを壊してしまったらという恐れが交錯して、これはもう年賀状の世界だけでいいのではないかと、そこに落ち着いてしまうのです。

生きている限りは、この世にご縁があるということは貴重なものなのだと改めて思ったのでした。年賀状の仕分けなどというのはとんでもないことです。

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3つの通り魔事件に思う

2011-01-06 05:01:38 | 宵宵妄話

 

 ここ3~4年の間に、私が住む茨城県の県南エリアで、3件の無差別殺傷事件が発生しています。何ということなのでしょうか。その内の1件は、守谷市在住の者の犯行だというのですから、何だかその狂気が次第に我が住いに近づいている感じさえします。真に嘆かわしくも恐ろしい出来事です。

 3年前の土浦市荒川沖の殺傷事件は、予告付の二度に亘る殺人事件でした。随分と警察も舐められたものだと思いましたが、狂気には勝てないということなのかも知れません。犯人の目的が死刑になることにあるというのですから、警察をからかうなどということは、犯人にとっては大して重要とも思わなかった行為なのでありましょう。昨年の年末近くに起きた、常磐線取手駅前のバス停での高校生たちを襲った通り魔事件は、まだ耳に新しい出来事ですが、この犯人は守谷市在住の青年なのでした。殺す気はなかったなどと己の犯行を悔いているという話も聞こえてきますが、犯行の現場においては、狂気が暴発したに違いなく、そのような悔悟のセリフには、なかなか同情を覚える余地はないというのが、一般の人たちの感想ではないかと思います。何はともあれ、死者が出なかったのは不幸中の幸いでした。

もういい加減にして欲しいと思っていたら、昨日(1/4)、今度は再び荒川沖のホームセンターで男が中学生を刺して重症を負わせるという事件が発生しました。逃げた犯人を一時捕まえられなかったことで不安を覚えましたが、間もなく取り押さえられたということで、先ずは安堵したというところです。この事件も見知らぬ中学生に向かって、死ねっ、こら!と叫んで刺したというのですから、これも又狂気の為せる事件に違いないように思います。

これら3件の事件現場は、私にとってはいずれも既知の場所であり、何とも早やたまらない気持ちになります。特に昨日の事件のホームセンターは、週1回つくば市内に出向いた時の歩きのコースの一つになっており、立ち寄って時々買い物もするという場所なのです。あのような場所で、どうしてとんでもない犯罪が起こるのか、いろいろ考えさせられます。

毎年似たような、普通の人には理解に苦しむような狂気の犯罪が何故起こるのでしょうか。様々な見方があるのだと思いますが、私的には、次のように考えています。

これは単なる個人の狂気という問題ではなく、現代という世の中の社会病理現象なのだと。今の世の奥底に巣食っている根深い病が、沸々と力を溜め込み、時折或る所で弱い人間を狂気に至らしめ、無差別に他人を殺傷せしめているのだと。その病原というのは、電子顕微鏡でどんなに巧みに調べてみても決して捉えることができないものなのです。その病原は、現代社会のあらゆる矛盾が一体となって生み出しているもので、それは今を生きるすべての個々人の心の中に棲み着いているのではないかと考えます。社会が生み出している病原は、どんな人間でも排除することは不可能です。可能なのは、如何にしてその病原を閉じ込めるかということだけです。

人間の心の中の世界は誰にも解き明かすことはできません。人間は一人ひとり皆違っており、特に心の中の世界は、時に一致点を見ることが出来たとしても、それは一瞬のことに過ぎないような気がするのです。夫婦でも親子でも、ましてや他人同士では、その心の深淵を窺い知るなどということはできないことです。厳しく人間の生き様を見ている限りは、この真理は誰も否定できないような気がします。

と、まあ、ここで終わってしまっては、単なる無責任コメントとなってしまいます。そこで思うのは、心理学という学問が提示している心の働きについての仮説です。この仮説を知識として理解し、応用することによって、現代社会の病理現象に対する自分自身と、その周辺の人たちに対する対処のヒントが、幾つか見つかるような気がするのです。そのことについて少し書いて見たいと思います。

心理学に、「心の防衛機構(=デフェンス・メカニズム=defense mechanism)」という考え方があります。人間は誰でも自分なりに納得できる生き方をしようと心の中で考えています。それは意識していると否とに拘らず、常に自分の心を支配している力です。ところが心の中の思いと、現実の世界がそのまま一致・実現することは少なく、むしろその思いを阻害する出来事が絶えず押し寄せてきています。本来このギャップを乗り越えなければ、本当の生きる知恵が生まれず、働きもしないのですが、これを完璧にこなすことは至難の業です。恐らく世の中の総ての人が、どうしても乗り越えることが出来ない心の暗闇の世界を内包しているのではないでしょうか。斯く言う私自身も数え切れないほどの障害の壁の中にいることを実感しています。

そこで、これらの障害に対して人間は、心の中で様々な理屈を自分なりにくっ付けて、自分を納得させようとします。それが心の防衛機構といわれているものなのです。つまり心の中で自分を守るために無意識にそう考え、そう行動するという働きなのです。この心の働きには幾つかの特徴がありますが、大別すれば積極的な側面とその反対に消極的な側面とになります。積極的な側面とは、現実とのギャップを、現実を無視して仮面の自分の行動で示すというやり方であり、消極的側面というのは、その反対に自分を決して表に出さず、ひたすらに押さえ込み、敢えて自分の存在を消してしまおうという、心の働きです。

私たちは普段これらのやり方を時と場合に応じて使い分けて生きているわけですが、人間が一人では生きられない社会的動物である限りは、この方法はまさに生き方の知恵であり、必要不可欠なものと考えられます。そして、使い分けの基準は、自分の言動が世の中、人のために害にならないという範囲にあるといえます。己を守るために、世の中を害しても構わないという言動に出た時、それは狂気となります。又極端に己を消そうと努めた場合は、自殺という悲しい行動につながって行くことになります。今の世に自殺が多いのも、この度の3つの事件のような騒ぎも、皆心の防衛機構が過度に働いた結果であると解析することが可能のような気がします。年間3万人を超える自殺者の数は、時々狂気に基づいて人を殺傷するという事件の発生と表裏一体となっていると考えられます。そしてこれらの出来事を生み出しているのは、今の世の仕組みや働き方の世界が孕んでいる矛盾なのだと考えるのが至当と思えてなりません。

今、若者は、老人は、弱者は、この世の中でどのように扱われているのでしょうか。又自分をどのように扱っているのでしょうか。明日をどう描いているのでしょうか。弱者の思いは、現実と大きく異なっており、そのギャップは益々大きくなっているような気がします。それを大きくしているのは、自由や平等の名の下に猛威をふるっているグローバル競争主義であり、高度情報化社会が生み出した仮装の文化であり、別の言い方をすれば、本当の自分を知らないままに何でも出来ると錯覚させながら、何一つ思い通りにならない現実の、あまりにも多い世の中ということかも知れません。

これらの世の中の有り様は、人間至上主義の形振り構わぬ今までの人類の地球支配が、その負の遺産に気づいても為す術を知らないのと同じ様に、今の世の社会システムの中では、日本という国の置かれた現状においては、もうとても浄化は無理、不可能のような気がします。

唯一残されている道といえば、心の防衛機構の使い方を、自分自身が意識的にコントロールする力を、一人ひとりが身につけるということぐらいしかないように思えるのです。つまり、自分以上の自分や自分以下の自分に振り回されることなく、あくまでも本当の自分に近いものを生き方の中心に据えて、それを守りながら毎日を確実に過してゆくということです。

これらの話は、直接的には何の解決にもつながりませんが、今の世に顕在・潜在する様々な社会病理現象を思うとき、それらに共通しているのは、人間一人ひとりの心の中に在る、自己の存在意識の破壊・損傷こそが狂気を発せしめているということ。それゆえ、この存在意識の破壊・損傷を如何に自己防衛するか、或いは他者のその思いをどう尊重するかということが、今の世で一番重要な課題のように思えるのです。近郊で起こったこの3つの事件に、改めて今の世に潜む病理の恐ろしさを思い知らされたのでした。

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今年の旅は?

2011-01-05 02:04:47 | くるま旅くらしの話

 年の初めには、いつも今年の旅のことを考えます。旅には、3つの楽しみのステージがあって、その1が前楽、その2が現楽、そしてその3が後楽だ、というのが私の旅についての持論ですが、年の初めは、今年の前楽をあれこれ悩み、そしてたっぷりと楽しむという嬉しい時間です。今日も歩きの中で、あれこれと今年のくるま旅に思いを馳せました。

私共は、毎年旅については、1年の4シーズンを冬は蓄力(旅への思いを膨らませ、その元となる身体を整える)、春は北国(東北)の春を訪ね、夏は北海道の北の大地に身を置き、そして秋は西日本へ向かう旅を、という風に考えています。そして今までは、殆どそのパターンで旅をしてきました。これには理由があって、もしこの国に季節がなく、一年中同じ様な天候が続くのでしたら成り立たない考え方なのですが、幸いなことに日本には四季があり、旅のための条件が四季それぞれに揃っている国だからなのです。

 

冬という季節は、今のところ暖冬といえども寒さはそれなりにしっかりしていて、自在に旅をするのには多くの危険があります。車の旅は殊更に安全が大切です。何故なら、常時住いを背負っての旅だからです。住環境に支障を来すと、くるま旅は成り立たなくなります。冬には昨日まで穏やかだった天気が、突然牙を向いて大雪になったり、道路が凍結してしまったりしたなら、危険はこのうえもなく増し、移動が難しくなります。タイヤチエーンを常備すればクリアできるのかも知れませんが、老人の世界では、そのような作業は簡単には取り掛かりにくいものです。スキーなどとは無縁の私にとっては、雪や氷の季節は、旅には出かけるべきではないと確信しているのです。幾つかの動物たちが、冬眠という術を身につけているのは、真に賢い生き方だと思います。それにあやかって、私も冬の旅は冬眠という世界に身を沈めておくべきと考えているわけです。しかし、在宅時は、もちろん動くのが可能ですから、この期間は書き物活動に取り組むことにしているわけなのです。

 

春は基本的に花を追い掛けて、遅い北国の春を訪ねるのが旅の目的になっています。花というのは勿論桜です。春を告げる花には様々なものがありますが、その女王は何と言っても桜でしょう。関東の都市部では、桜の花を愛でて本物の春を心底実感するには、相当の感受性の練磨が求められるような気がしますが、東北地方の遅い春を訪ねると、疲れ果てて季節の感覚をすり減らした人でも、道端の桜の花に、何の迷いもためらいもなく本物の春を実感できるのです。

ここ2年、東北の春旅をおろそかにしました。いろいろあって、出向けなかったのです。ですから、今年は何としても東北の春を訪ねたいと思っています。1ヶ月ほどかけて東北各地の桜などを追いかける一方で、今年は数年前に下見をしている「へのへのの旅」を本番化してみようかとも思っています。

「へのへのの旅」というのは、岩手県から青森県にまたがる一戸から九戸、そして遠野の各地を訪ねる旅に、私が勝手につけた旅の名称のことです。平成の大合併の災いを逃れて、これらの「戸」と名の付く市町村の名称は、まだ健在のようです。四戸という地名だけは、存在しなかった(小さな地名としては残っている?)ようですが、それ以外の地名は、それぞれ特徴を持った独立した行政単位として現存しているのは、珍しいくも嬉しいことのように思えるのです。

一戸から遠野(十戸と呼ばれることもあった?)という呼称は、もともとはその昔の東北北部地域(糠部郡)の区割りだったとのことですが、このエリアは馬の産地(いわゆる南部馬)として有名だったことが知られています。かなり広い地域で、現代のくるま旅を以っても、各地をじっくり訪ねるのには、最低でも2週間以上は必要なのではないかと思っています。

前述のようにこのエリアは下見と称して、数年前各地をざっとですが訪ねたことがありますので、凡その見当はつくのですが、更にもっと詳しくあれこれ見聞してみたいと思っています。今までの旅では、このように特定のエリアを絞り込んで訪ねるということは少なく、点の移動が多いのですが、今回は一戸から遠野までを線の旅にレベルアップしてみたいと思っているわけです。さて、それを具体的にどのような方法で実現して行くのか、それはこれからの課題であり、出発までの楽しみです。

 

夏の北海道行は、これはもう決まっているようなものですが、今年は少し時期をズラして実現しようと考えています。今までの北海道行は、6月から8月終わりごろまでの期間が殆どでした。今年は北海道の秋を覗きたいと考えています。北国の本格的な紅黄葉をまだじっくり見たことがないのです。8月半ば過ぎに出発して、雪が降る前には戻って来るようにしたいと考えています。初めての試みです。

これには実はもう一つ理由があって、今年は8月半ばまでは野菜作りに力を入れようと考えているからなのです。特に昨年種を手に入れた、モチトウキビや昔トウキビの栽培を、何としても実現・成功させたいと考えています。トウモロコシの栽培は、4月ごろに種を播き、収穫は8月初め頃になるのではないかと思われます。少しでもいいから自分で栽培して収穫したものを味わってから、北に向かいたいと心に決めているのです。今年の夏の気候がどのようになるのかは予想がつきませんが、昨年トウキビの種を頂いた方のためにも、この栽培は何としても成功させる必要があると、今から意気込んでいます。

 

さて、秋の旅ですが、これは未定です。出来れば九州まで足を延ばしたいのですが、それが可能なのか予測がつきません。北海道が遅くなった分だけ、秋の旅の期間が少なくなります。九州には守谷に越してからは、まだ一度も行っていません。せっかく行くのなら、少し時間をかけたいものだとも考えており、迷いの中にあります。今年の秋の旅は、これから時間をかけて考えたいと思っています。

 

以上が今年の旅について、今考えていることなのですが、これが実現できるかどうかは、何よりも健康であるかどうかにかかっています。夫婦二人の旅は、どちらか一方が体調不良では、旅の楽しさが半減してしまいます。今のところ家内の体調も、旅に出て一層パワーアップが可能だと思っていますが、この冬はお互いじっくりと体調を整え、健康づくりに力を入れたいと考えています。

また、旅の仕方についても、新しい手立てを見つけられればいいなと思っています。単なる観光めぐりや史跡めぐりに終ることなく、それらの中により多くの人生の宝物を発見できる術を身につけられるように、工夫してみたいと考えているところです。さて、どうなりますやら。

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箱根駅伝を観る

2011-01-04 01:28:54 | 宵宵妄話

  正月の楽しみの一つに箱根駅伝の観戦があります。観戦といっても現地に出向いてではなく、勿論TVの前での話です。冬のスポーツには、ラグビーやサッカーなどもあって、そのどれもが興味をそそるのですが、私的には、ボールなどの用具など一切なしで、只ひたすらに自分自身の身体を駆って走るだけの、そしてそれを団体でつないでゴールを目指すというこの競技に、一般陸上のリレーとは違った、独特の魅力を感ずるのです。先に年末の高校駅伝についても書きましたが、駅伝というのは、我が国独特の歴史的社会システムを織り込んだ走りのスポーツだと思うからです。

 様々な駅伝大会がありますが、その中でも最も歴史と伝統を感ずるのは何と言っても箱根駅伝だと思います。高校生の駅伝は距離が短く、実業団はそれなりに面白いものの、企業格差のようなものを感じてちょっぴり不満を覚えるのですが、この大学生による箱根駅伝は、2日間をかけての走る距離も長く、コースも街の中だけではなく、海の側から標高800mを超える高さの山地までという、日本の地形の要素をすべて含んだ、いかにも昔の飛脚の走りを思わせる、様々な条件を備えた興味津々のものとなっています。

 大学生の駅伝の中では、箱根駅伝は地方の大会に過ぎず、全国的なものではないという位置づけのようですが、面白さの実力としては、出雲の全日本大学選抜駅伝大会や熱田神宮から走る日本大学駅伝対抗選手権大会などよりは遙かに上を行っているように思います。他の駅伝大会が100kmを限度としているのに対して、箱根駅伝は、1日100km超であり、しかも2日を掛けて往復して走るというのですから、これはもう大変なことだと思うのです。10人のメンバーで、平均1人20km以上を走るというレースは他の駅伝にはなく、それだけにその時代の真面目な若者の人間模様のようなものが現れていて、実に興味深いのです。

 今年の大学の駅伝の世界では、三大大会の内の出雲と熱田の大会を早稲田大学が制し、箱根で三冠が達成できるのかが注目されていました。往路の走り出しから早稲田は好調で、箱根の山登りの5区までトップを走っていて、このまま行けば往路も早稲田の勝利かと思われていました。特に今年は昨年まで5区のスーパーランナーであった東洋大の柏原選手がずっと不調だったとかで、5区での引き継ぎの際は3分近い差がついており、東洋大が夢を再現するのは難しいのではないかというムードがあったようです。

 ところが、実際のレースでは、不調を託(かこ)っていた柏原選手が、俄然目覚めたように、恐るべきパワーを発揮して前を行く二人を抜き去って、東洋大に往路の優勝をもたらしたのでした。彼の走りには毎年興味津々ですが、イヤア、あの驚異的な力はどこから湧いて来るのか想像も出来ません。歴代この箱根の山登りには多くの名選手が走りに名を残していますが、この柏原選手は、これから先も忘れられない存在となるに違いありません。

 今日の復路は、最初の山下りの6区で、早稲田が首位を取り戻し、結局それを最後の10区のゴールまで保持して、見事総合優勝を果たしたのでしたが、3連覇を狙った東洋大の頑張りにも大いなる称賛のエールを送りたいと思います。また、3位に入った駒沢大学にも復活を思わせるものが感ぜられ、来年に期待を抱かせるものがありました。

 これで早稲田は18年ぶりの優勝と併せて3大大会を制して文字通り大学のチャンピオンとなったわけですが、そのようなことはこのTVを観ていて、アナウンサーや解説者の話を聞くまでは全く知りませんでした。特に箱根駅伝では18年ぶりというのは意外でした。18年前の優勝の時の殊勲者の一人が現監督の渡辺氏であるという話を聞き、そうか、あの時以来なのかと、今更ながらに時間の経つのが早いことに驚かされたのでした。18年前の渡辺選手は圧倒的な走りを見せたスーパースターの感じの方でした。彼は私の倅(二男)と同じ中学校の出身で、2年生の時に転校で福岡からやってきた倅が、化け物のように速い奴がいると話していたのを思い出します。倅はプールの中でなら彼よりも早く泳いだのでしょうが、その年は千葉市は水飢饉でプールが使えず、見せ場のなかった倅がかなりヘソを曲げたのを、ついでに思い起こします。もう20年以上も前の話です。胴上げされる監督の姿を観ながら、改めて時代が過ぎてゆくその速さを思ったのでした。

 駅伝の放映の中で耳にすることばに、選手たちのケガの話が多く出てきます。ケガに悩まされ、4年目にしてようやく選手として走ることが出来た人、その反対に良い記録や実績を持っているのに、ケガのために走れない人、等々、スポーツにケガは付きものとはいえ、各校とも選手の健康管理にもっと力を入れてはもらえないものかと、ちょっぴり不安を感じました。恐らく長距離走のケガといえば、走り過ぎ、身体の使い過ぎに起因することが多いのでしょうから、練習におけるその見極めは、相当に難しいのだとは思いますが、精神論ばかりで練習をすることなどが無い様、指導者の方は個々人の体力と能力の限界を冷静に判断して、若者を鍛えて欲しいなと思いました。北海道の旅では、各地で夏季の合宿で走りに来ている学生や実業団の人たちを見かけます。又温泉で一緒になることも時々あります。彼ら若者が一途に走りに打ち込む姿を見るのはとても力強く又嬉しく感じます。ケガなどで彼らの夢が挫折することはあって欲しくないという思いが強いのです。

 走ることを止めてからもう20年近くになりました。今はもう、横断歩道でさえも走ろうなどとは思いません。走れないことを良く知っているからです。その分だけ若者が走るのを見るのが楽しみとなりつつあります。箱根駅伝は、その中の最高峰です。ここで人生のあり方の何かに気づいた若者が、その後大きく成長してくれることを願わずにはいられません。駅伝の世界には、選手も選手になれなかった人たちにも、人生の大きなプレゼントがもたらされるように思えるのです。2日間に亘る良い観戦の時間でした。

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道祖神様へ参る

2011-01-03 05:30:47 | くるま旅くらしの話

  という間に今年も三日目となりました。元日は完全な寝正月で、飲んで、食べて、寝て、の繰り返しでした。驚くことに家の外には一歩も出ないというグータラぶりでした。今年は格好良く言えば、静養から始めようという魂胆です。いつも着けている万歩計も外してしまい、記録をとるのは二日目からとしました。何だか入院生活の練習をしているような気分にもなりました。

 で、二日目は、俄然動くことにして、早朝から歩きに出かけました。小貝川の堤防の道を歩いたあと、守谷市の古い集落の森の中の道を歩き、締めくくりに村の総鎮守だった八坂神社に参詣し、その後、これが新年の一番大切な歩きの目的なのですが、つくばエクスプレス(=TX)守谷駅の南口近くにある、道祖神様にお詣りをしました。今日はこの道祖神様の話を少しばかりします。

 昔から旅には危険が付きものでした。見知らぬ環境、状況の中を目的地まで無事に辿り着くというというのは、そうそう簡単なことではなかったのでした。今の時代でも、旅にはやはりどこかに危険や災難が息を潜めて待ち構えている感じがしますが、昔も現代から遠くなればなるほど危険は層倍していたに違いありません。

 旅の道路には無数の悪霊が取り付いており、道行く人に様々な悪さを仕掛けてくるという考えがあったのだと思います。これを防ぎ人々を守ってくれる神様が居て欲しいと願ったのは、不思議ではなかったと思います。そしてその願いは道祖神という神様を生み出したのだと思います。

 現代では多神教というものをバカにする風潮(否、一神教でさえも軽視し、宗教なんぞというものは葬式用にある、くらいにしか考えない人が多い世の中ですが)がありますが、私は多神教というのはそれがたとえ偶像崇拝であっても、人間という生き物にとっては、大自然を畏敬し尊崇するという意味でも、とても大切な考えではないかと思っています。神様は一つだけ、一人だけだ、などという考えこそ不自然なような気がするのです。絶対神の崇拝は、排他的であり、独りよがりであり、人間の精神の多様性を否定し、平和とか博愛とかを束縛するように思えるからです。

旅に出て、今まで見たこともないような事物に出会うと、人は感動し、そこに神を見るのではないかと思うのです。北海道を旅していて、至る所にアイヌの神様が鎮座しているのを知れば知るほど、それが人間の自然の気持ちなのだと思うようになりました。アイヌの人びとが、巨大な岩や樹木、或いは生き物など、あらゆるものに神を見出し、敬虔な気持ちでそれと接するというのは、大自然の中に生き、生かされているという人間の素直な気持ちの表れだと思うのです。現代という時代の合理主義や科学文明は、大自然を冒涜し続け、その負の遺産が地球環境を破壊せしめて、もはやそれを深刻な問題視せざるを得ないような事態に立ち至っているのも、元はといえば、多神教などをバカにした人間の思い上がりの結果のような気がしてならないのです。(ホイ、又オーバーな脱線をしました)

 道祖神は、古来の日本に住む人々の素朴な願いを叶えてくれるとても大切な存在だったように思います。旅に出かけるようになって、全国の至る所に道祖神を見かけます。くるま旅では、見過ごし、見落としていることが圧倒的に多いのですが、それでも停まった場所の道端に、小さな石の像や刻まれた文字を見ると、ホッとするのは、やはり神様の働きというものでしょう。

 

   

 

曇野の穂高神社の境内にある塩の道の道祖神群。かつての千国街道にあった道祖神と二十三夜尊の石碑類を集めて並べている。その素朴な石柱を眺めていると、往時の旅人の気持ちが伝わってくる。

 

 守谷にも幾つかの道祖神が点在していたのだと思いますが、TX守谷駅南口近くにある道祖神は、TXの工事に伴って、昔の集落の入口にあったものを移動して、新たに祀ったものだということです。この存在に気づいたのは昨年のことであり、それまで見落としていたのは迂闊でした。その新しく祀られた道祖神様は、道陸(ろく)神と刻まれた小さな石柱と道祖神と刻まれたもう一つの石柱の二本が並べ建てられただけの真に素朴な存在です。その近くにある説明板によれば、その昔この地に住む村人は、旅に出る際には草鞋を一足供えたとのことです。又疫病を防ぐ神様でもあったということです。秋祭りにはこの神様を囲んで、村の人びとは笛や太鼓を打ち鳴らして踊った、とも書かれていました。今は、直ぐ傍をTXが走り、そのような情景を思い浮べることは到底不可能ですが、私としては、これからの自分自身のくるま旅の守り神として、この道祖神様を大切に尊崇してゆきたいと思っています。先ずは、今年一年の旅の安全を祈ったのでした。

 

   

TX守谷南口の一角にある、土塔の道祖神。左側が道陸神、右側が道祖神と刻まれている。鳥居が建てられたのは、TX関係者のお詫びの印だったのか?

コメント (2)
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新年おめでとうございます

2011-01-01 08:23:29 | くるま旅くらしの話

          北海道 駒ヶ岳(七飯町大沼から)の景観。

正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし(?)  しかしまあ、何事もなく生きて又一つ新しい年を迎えることが出来たことは、ありがたいと思わなくてはならないと思っています。

全世界の人びとが、生きていてよかったことを、ホンのちょっとの間で良いから、確(しか)と実感できる時間を持てますよう、心から祈念いたします。

今年もよろしくお願いいたします。  山本馬骨 拝

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