山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

3つの通り魔事件に思う

2011-01-06 05:01:38 | 宵宵妄話

 

 ここ3~4年の間に、私が住む茨城県の県南エリアで、3件の無差別殺傷事件が発生しています。何ということなのでしょうか。その内の1件は、守谷市在住の者の犯行だというのですから、何だかその狂気が次第に我が住いに近づいている感じさえします。真に嘆かわしくも恐ろしい出来事です。

 3年前の土浦市荒川沖の殺傷事件は、予告付の二度に亘る殺人事件でした。随分と警察も舐められたものだと思いましたが、狂気には勝てないということなのかも知れません。犯人の目的が死刑になることにあるというのですから、警察をからかうなどということは、犯人にとっては大して重要とも思わなかった行為なのでありましょう。昨年の年末近くに起きた、常磐線取手駅前のバス停での高校生たちを襲った通り魔事件は、まだ耳に新しい出来事ですが、この犯人は守谷市在住の青年なのでした。殺す気はなかったなどと己の犯行を悔いているという話も聞こえてきますが、犯行の現場においては、狂気が暴発したに違いなく、そのような悔悟のセリフには、なかなか同情を覚える余地はないというのが、一般の人たちの感想ではないかと思います。何はともあれ、死者が出なかったのは不幸中の幸いでした。

もういい加減にして欲しいと思っていたら、昨日(1/4)、今度は再び荒川沖のホームセンターで男が中学生を刺して重症を負わせるという事件が発生しました。逃げた犯人を一時捕まえられなかったことで不安を覚えましたが、間もなく取り押さえられたということで、先ずは安堵したというところです。この事件も見知らぬ中学生に向かって、死ねっ、こら!と叫んで刺したというのですから、これも又狂気の為せる事件に違いないように思います。

これら3件の事件現場は、私にとってはいずれも既知の場所であり、何とも早やたまらない気持ちになります。特に昨日の事件のホームセンターは、週1回つくば市内に出向いた時の歩きのコースの一つになっており、立ち寄って時々買い物もするという場所なのです。あのような場所で、どうしてとんでもない犯罪が起こるのか、いろいろ考えさせられます。

毎年似たような、普通の人には理解に苦しむような狂気の犯罪が何故起こるのでしょうか。様々な見方があるのだと思いますが、私的には、次のように考えています。

これは単なる個人の狂気という問題ではなく、現代という世の中の社会病理現象なのだと。今の世の奥底に巣食っている根深い病が、沸々と力を溜め込み、時折或る所で弱い人間を狂気に至らしめ、無差別に他人を殺傷せしめているのだと。その病原というのは、電子顕微鏡でどんなに巧みに調べてみても決して捉えることができないものなのです。その病原は、現代社会のあらゆる矛盾が一体となって生み出しているもので、それは今を生きるすべての個々人の心の中に棲み着いているのではないかと考えます。社会が生み出している病原は、どんな人間でも排除することは不可能です。可能なのは、如何にしてその病原を閉じ込めるかということだけです。

人間の心の中の世界は誰にも解き明かすことはできません。人間は一人ひとり皆違っており、特に心の中の世界は、時に一致点を見ることが出来たとしても、それは一瞬のことに過ぎないような気がするのです。夫婦でも親子でも、ましてや他人同士では、その心の深淵を窺い知るなどということはできないことです。厳しく人間の生き様を見ている限りは、この真理は誰も否定できないような気がします。

と、まあ、ここで終わってしまっては、単なる無責任コメントとなってしまいます。そこで思うのは、心理学という学問が提示している心の働きについての仮説です。この仮説を知識として理解し、応用することによって、現代社会の病理現象に対する自分自身と、その周辺の人たちに対する対処のヒントが、幾つか見つかるような気がするのです。そのことについて少し書いて見たいと思います。

心理学に、「心の防衛機構(=デフェンス・メカニズム=defense mechanism)」という考え方があります。人間は誰でも自分なりに納得できる生き方をしようと心の中で考えています。それは意識していると否とに拘らず、常に自分の心を支配している力です。ところが心の中の思いと、現実の世界がそのまま一致・実現することは少なく、むしろその思いを阻害する出来事が絶えず押し寄せてきています。本来このギャップを乗り越えなければ、本当の生きる知恵が生まれず、働きもしないのですが、これを完璧にこなすことは至難の業です。恐らく世の中の総ての人が、どうしても乗り越えることが出来ない心の暗闇の世界を内包しているのではないでしょうか。斯く言う私自身も数え切れないほどの障害の壁の中にいることを実感しています。

そこで、これらの障害に対して人間は、心の中で様々な理屈を自分なりにくっ付けて、自分を納得させようとします。それが心の防衛機構といわれているものなのです。つまり心の中で自分を守るために無意識にそう考え、そう行動するという働きなのです。この心の働きには幾つかの特徴がありますが、大別すれば積極的な側面とその反対に消極的な側面とになります。積極的な側面とは、現実とのギャップを、現実を無視して仮面の自分の行動で示すというやり方であり、消極的側面というのは、その反対に自分を決して表に出さず、ひたすらに押さえ込み、敢えて自分の存在を消してしまおうという、心の働きです。

私たちは普段これらのやり方を時と場合に応じて使い分けて生きているわけですが、人間が一人では生きられない社会的動物である限りは、この方法はまさに生き方の知恵であり、必要不可欠なものと考えられます。そして、使い分けの基準は、自分の言動が世の中、人のために害にならないという範囲にあるといえます。己を守るために、世の中を害しても構わないという言動に出た時、それは狂気となります。又極端に己を消そうと努めた場合は、自殺という悲しい行動につながって行くことになります。今の世に自殺が多いのも、この度の3つの事件のような騒ぎも、皆心の防衛機構が過度に働いた結果であると解析することが可能のような気がします。年間3万人を超える自殺者の数は、時々狂気に基づいて人を殺傷するという事件の発生と表裏一体となっていると考えられます。そしてこれらの出来事を生み出しているのは、今の世の仕組みや働き方の世界が孕んでいる矛盾なのだと考えるのが至当と思えてなりません。

今、若者は、老人は、弱者は、この世の中でどのように扱われているのでしょうか。又自分をどのように扱っているのでしょうか。明日をどう描いているのでしょうか。弱者の思いは、現実と大きく異なっており、そのギャップは益々大きくなっているような気がします。それを大きくしているのは、自由や平等の名の下に猛威をふるっているグローバル競争主義であり、高度情報化社会が生み出した仮装の文化であり、別の言い方をすれば、本当の自分を知らないままに何でも出来ると錯覚させながら、何一つ思い通りにならない現実の、あまりにも多い世の中ということかも知れません。

これらの世の中の有り様は、人間至上主義の形振り構わぬ今までの人類の地球支配が、その負の遺産に気づいても為す術を知らないのと同じ様に、今の世の社会システムの中では、日本という国の置かれた現状においては、もうとても浄化は無理、不可能のような気がします。

唯一残されている道といえば、心の防衛機構の使い方を、自分自身が意識的にコントロールする力を、一人ひとりが身につけるということぐらいしかないように思えるのです。つまり、自分以上の自分や自分以下の自分に振り回されることなく、あくまでも本当の自分に近いものを生き方の中心に据えて、それを守りながら毎日を確実に過してゆくということです。

これらの話は、直接的には何の解決にもつながりませんが、今の世に顕在・潜在する様々な社会病理現象を思うとき、それらに共通しているのは、人間一人ひとりの心の中に在る、自己の存在意識の破壊・損傷こそが狂気を発せしめているということ。それゆえ、この存在意識の破壊・損傷を如何に自己防衛するか、或いは他者のその思いをどう尊重するかということが、今の世で一番重要な課題のように思えるのです。近郊で起こったこの3つの事件に、改めて今の世に潜む病理の恐ろしさを思い知らされたのでした。

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