山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年賀状の仕分け

2011-01-07 02:26:04 | 宵宵妄話

 

 今年の年賀状の配達も、もう山場を越えて終りに近くなったようです。年賀状は、お正月の楽しみの最大のものですが、元日以降それを受け取って読んでいるときにはそう思うものの、年末が近づいて、投函の締め切り日が迫って来るのに気づく頃になると、さて、今年はどうしたものか、思い切って出すのを止めようか、などと迷うこの頃なのです。心の世界とはいい加減なもので、その時々の模様は真にご都合主義そのものであるように感じます。

 一昨年あたりから行政の改革手法として、事業仕分けなるものが導入・実施され、TVで公開放映されて以降、何かと話題を呼んでいますが、この手法にあやかって年賀状も仕分けをしなければ、などという話を新聞などで目にすることがありました。長年惰性で出し続けてきた年賀状を見直して、本当に必要と思われる人にだけ出すようにしようという考え方です。私も毎年本当にこんなのでいいのかなと思いながら、半ば惰性的に今でも約400枚の年賀状を購入し、毎年大したアクセントも無い内容の写真や文面を考え、印刷して、出し続けています。

それで仕分けを思い立ったのですが、これがなかなか出来ません。その気になって、名簿を見ながら一人ひとりの顔を思い浮べていると、その人と会って話をした時のことなどが思い起こされ、もしここで年賀状を出すのを止めてしまったなら、今までの折角のご縁もこれっきりとなってしまうのだと思われ、どうにも踏ん切りがつかないのです。功利的に考えるのであれば、もう10年以上も一度も会ってもいない人なのですから、これから先も会うチャンスは殆どないと分っており、縁が切れてもどうってことはないはずなのですが、これがなかなかできないのです。

で、今年も同じ様な迷いのプロセスを経て正月を迎えたわけですが、結果的には仕分けなどしなくて良かったと、安堵の胸を撫でおろしたのでした。よく考えてみれば、これは当たり前のことで、人との係わり合いは経済効率とは異なり、損得の物差しなどで計るべきものではないのです。政府が行なっている仕分けは、予算という投下費用に対する経済効率の是非を計っているものであり、年賀状をこれに当てはめると、損得の計算となってしまい、損と思える人には賀状は出さず、将来得する人には出し続けようということになってしまいます。これは現代の効率主体思想に毒された考え方です。うっかりすると総ての言動にこの効率至上主義が入り込んでしまいそうです。危ないところでした。

年賀状の仕分けなどは本来あり得ないのです。年賀状の要不要は、自分が決めることではなく、今までご縁のあった相手の方が決めることなのです。(勿論例外も幾つかはあると思いますが)惰性になっているか否かのチエックの決め手は、あくまでも相手方にあり、具体的には、たとえば相手方が2年以上反応がなくなった時くらいかな、と私的には考えています。相手の方が、もういいよと思っているのに、賀状を押し付けて送り続けるのは、失礼というものでしょう。少し淋しいけど、これは致し方ありません。

ところで、今年頂いた、たくさんの賀状の中で最も感動したのは、小学校1年生の時の、担任だった先生からのものでした。それには「郵便はがきが五円の時からのお葉書を時々読みかえしています。拓弘さんから『元気』をもらい、元気に過しています。有難うございました。今後のご活躍を期待しています」と書かれていました。毎年頂戴している年賀状ですが、今年はまた格別な思いで拝見・拝読させて頂きました。

小学校1年生というのは、7歳です。父母に教えられ、その時に初めて年賀状というものを知ったのですが、それ以来毎年この先生に年賀状を出し続けて来ました。もう数えれば今年で64回目となります。先生の書状には、はがき1枚5円の時からということですから、今はもうはがきも往時の10倍の価格となっているのだなあと、改めて時間の経緯・変転の長さ・大きさに驚かされたのでした。

私は、小学校に入学した頃は大変な小心者で(今でも本質的に変わっていませんが)、学校に行ってもなかなかその雰囲気に馴染むことができず、ものを言わない子でした。しかしそのくせに、学校で学ぶ内容については、教科書に書いてあることなどは殆ど全部知っていて、授業(といっても、遊びのようなものですが)に楽しさをあまり感じていなかったのを覚えています。それが急に元気な子になって発言をするようになったのは、担任だったN先生(後に結婚されてY姓に変わられた)のおかげなのでした。N先生は女性の先生で、今思うと当時まだ教師になりたての頃ではなかったかと思います。子どもたち一人ひとりを良く見て頂き、その子の持っている力のようなものを、優しく引き出して下さったように記憶しています。私的に言えば、この先生に可愛がって頂いたおかげで、学校生活に自信が持てるようになり、恥ずかしがり屋ながらも自分の考えを述べることが出来るようになったのでした。先生に教わったのは1年生の時だけで、その後先生は転任となり、他の学校へ移られたのでした。

実は、それ以降一度も先生にお会いしたことがないのです。でも私にとって、1年生の時のN先生は、その後、私が学校という学びの世界を、自信を持って歩むことが出来るようになれた、そのための大きな力を与えてくださった人生最大の恩人なのです。もしN先生に出会わなかったら、別の道を辿っていたかも知れません。当時は終戦後の貧困の時代で、食糧も衣服も、あらゆる物資が不足の時代でした。私の家のように都市部から焼け出されて開拓地に入植した集落の人間は、地元の村人からはとかく特別視される傾向があり、それは子ども心にも敏感に感ずるものでした。ましてや私の住む集落は、隣村に属しており、しかし通学にはわずかに近い距離のため、いわば越境入学だったのです。今のような時代ではなく、いわゆる差別に対する村人の感覚は、一部の先生も含めて口に出しても当たり前のこととして通用していたのでした。そのような状況の中で、ともすれば引っ込み思案となりがちな自分を、N先生は特別に眼をかけて面倒を見て下さったのかもしれません。真に有難いことです。

先生が転校されても、その後は毎年お礼の報告のつもりで年賀状を出させて頂きました。最初の頃は父母に言われるままにたどたどしい文字で綴ったものだったと思います。やがてN姓がY姓に変わり、結婚されたのだということを知りました。私の方も高校、大学と進み、就職して上京し、結婚し、転勤を繰り返してと、様々な人生体験をして今日に至っているわけですが、この間一度も賀状を欠かしたことはありません。

60年余の歳月の中で、私のN先生への感謝の気持ちは少しも変わってはいません。もうお幾つになられたのか、90歳近くになられたのか、或いはそれ以上なのか。でも私の中では先生のお顔は小学校1年生の担任のままなのです。恐らくそれは先生の方でも同じことで、今頃このハゲ頭のジジイをご覧になったら、まあ、驚かれて卒倒されるのではないかと思います。ご存命の間に一度お会いしなければと思う一方で、お会いしてお互いの60余年前のイメージを壊してしまったらという恐れが交錯して、これはもう年賀状の世界だけでいいのではないかと、そこに落ち着いてしまうのです。

生きている限りは、この世にご縁があるということは貴重なものなのだと改めて思ったのでした。年賀状の仕分けなどというのはとんでもないことです。

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