山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

大相撲再興の課題

2010-07-06 05:56:13 | 宵宵妄話

先日から反社会勢力と係わる賭博問題で世間を騒がせていた大相撲の興行について、名古屋場所の開催が危ぶまれていましたが、一応の区切りとして関係者の処分が決まり、何とか開催に漕ぎつけるという結論に辿り着いたようです。問題解決の道のりが遠いのは、誰が考えても明白なことであり、それらを全て解決してから再開するなどということは到底不可能なのですから、多少の無理や批判があっても名古屋場所を開催するというのは、賢明な判断だったと私は思っています。

私如きが偉そうにつべこべコメントを言っても仕方のないことはよく承知しているのですが、このような問題を再発させないためにも、大相撲界の改革のテーマが何であるべきかについて、馬の骨の意見を少しばかり述べさせていただこうと思います。

私は今回の大相撲の問題は、実は日本の国民全体の問題でもあると思っています。つまり、日本中どこの世界にもある根の深い社会現象の一つに過ぎないと思っています。それは簡単に言えば、親が子を、先生が生徒を、師匠が弟子を、社会人として大切なものを教えていない、教えきれていないという結果に由来する出来事であるということです。勿論100%何もかも教え、伝えきれないというのは何時の時代だってあることですが、今の世はもしかしたら半分以上もが大切な教えをおろそかにしていると思えるほど、呆れ返る現象を眼にすることが多いのです。

世の中が自分一人ではなく、他人とのかかわりの中で成り立っているということは、誰でも観念的には解っているのだと思いますが、それ故に世の中を成り立たせているルールというものがあるわけです。お互いが気持ちよく生きてゆけるようにと、例えば礼儀・作法などというものがありますが、今頃はそのようなものは古臭いなどと履き違えて、無視どころか敢えてぶち壊そうなどとする愚か者が増えているようです。何事につけ「関係ない!」などと抜かす若者は何時の時代にも存在したのだとは思いますが、今の時代はゆがめられた個人主義が、そのトーンを一層拡大させているようにも思えるのです。この世に関係ないものなどあるわけがありません。道端の石ころの一つだって、それを意識した瞬間に自分と関わりがあるのです。ましてや人間同士が関係ないなどと言える筈がないのです。

関係ないという考えで人間行動に似た行為を行なっているのが、反社会勢力です。反社会というのは、社会という世の中に生きていながら、世の中のルールを無視して、己の利益のみを吸い上げようとする存在です。今回は暴力団が取り上げられていますが、人の善意に付け込んで騙して金を毟り取るオレオレ詐欺なども反社会的行為であることは言うまでもありません。

さて、今回の大相撲界の出来事に関して、何が問題なのかといえば、その最大のものは、師匠、親方という立場の人たちが、弟子たちを社会人として(=人間として)必要・大切なもの・ごとを、きちんと教えていないということです。今流に言えば、弟子のマネジメントが出来ていないということです。本業の相撲に強くなればそれでいいというだけの指導では、強くなった者はうっかりすると思い上がることになります。思いあがるというのは、裸の王様のようなもので、自分の都合の好いようにしか世の中が見えなくなるということです。つまり、己に眩まされてしまうということです。

例えば、先の朝青龍の問題では、彼はこれに近い状況だったように思われます。勿論彼自身が惹き起こした暴力事件については論外ですが、彼が相撲界に新風を吹き込んでいると錯覚したのかも知れない、勝利のガッツポーズなどについて言えば、彼だけを責めることはできません。軽々しいとも思える横綱の挙動を生み出させたのは、その指導者である者の重大な責任だと思います。彼の師匠は、朝青龍に対して勝負に勝つための強さしか教えていなかったに違いありません。それが実現して横綱になった時、もはや朝青龍は師匠を超えたと錯覚したのであろうし、師匠もまたその状況に甘んじたのだと思います。こんなことで国技とも言われている相撲界がその伝統(但し良い部分)を守ってゆけるわけがありません。

又、弟子を殺してしまった師匠も居ましたが、これなんぞは朝青龍のケースの裏返しのような気がします。指導者としての本当の愛情、社会に通用する人間の育成などという発想は、この師匠には欠片(かけら)もなかったのではないかと思います。兄弟子にイジメを強要したと言うのですから、これはもう江戸時代の愚かな親方と大して変わらない気がします。江戸時代なら親方の絶対権力は弟子を死なせてもあまり問題にはされなかったのかもしれませんが、今の時代は違うのです。

言いたいのは、相撲協会は師匠・親方連中に対する相撲道におけるマネジメント教育を新しく始めなければならないということです。いい加減な親方の下では、人間的に尊敬されるような力士が育つはずがありません。ただ勝つだけで良いということしか教えられないような者から親方という役割を取り上げるべきです。ま、現実には株のやり取りのような仕組みがあるようですから、それはできない相談だと思いますが、その分全親方に対する徹底したマネジメント教育を行なうべきです。

親方などといっても、その実体はまだ30代の若者が多数を占めているわけですから、普通のビジネス界で言えば大企業なら係長クラス、小さな企業でも部長などと呼ばれる人は少ないと思います。人間としての基盤にそれほど差があるとも思えず、しっかりと弟子の育成に取り組むためには、我流だけではない相撲道の哲学やマネジメントの知識が必要だと思うのです。現在どのようなことがどのように行なわれているのか判りませんが、今回の事件の結果からみれば、親方のありようには大いなる疑問を感じます。

そしてその前に、何よりも先ず、そのマネジメント教育の中身をしっかりと作りあげる必要があります。協会の幹部が身を乗り出してこれを作る必要があると思います。勿論不慣れな部分は専門家に委託する必要があると思いますが、丸投げではいけません。教育の中身を専門家に丸投げするというやり方は、今の大企業などにおいても流行っているようですが、親が親としての役割を果たさず、教育のことは学校の先生や家庭教師に任せておけば良いなどという考えが、そもそも歪んだ社会をつくりあげる原因となるのです。相撲協会においては、その歴史をよくよく紐解きながら、優れた先人の教えを大胆に現代に取り入れて、親方に対するマネジメント教育の中身をつくりあげるべきと考えます。

今回の賭博行為に関していえば、係わった人たちのいわば世の中に対する鈍感な体質から過剰な社会反応が起こったに過ぎず、反社会勢力との係わりの問題性を判断できなかった幼稚さに起因している感じがします。賭博行為といわれるものは多数あり、ある意味でこれは人間としてのある種の欲求に絡むものであるような気もします。野球賭博でも例えば職場で高校野球の優勝校を当てるなどという奴は、職場の部課長全員が参加して一喜一憂しているなどという光景はどこにもあると思います。競馬だって競輪だって、皆賭博です。競艇だってオートレースだって、世の中公認の賭博です。それが野球賭博だけ何故悪いのかといえば、当然のことながら反社会勢力との係わりがあるからということでしょう。

大相撲は日本の日本人らしさを形を含めて残す、最後のショースポーツだと思います。それが反社会勢力と係わり合いを持った親方ら力士が混ざり合って行なわれているとしたら、これはもう国技などではなくなってしまいます。全関係者は心してこの問題の解決に取り組むべきです。そして、何よりも大切なのは、指導者の教育の徹底であり、それを徹底できる協会の体制作りだと思います。力士の教育なんぞはずっと後の話だと思います。これができなければ、大相撲は終わりです。

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