山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

野菜作りを断念する

2011-10-06 00:34:01 | 宵宵妄話

   守谷市に越してきてから、はや7年目を迎えています。私の人生は22歳で就職のため上京して以来引越しの連続で、所帯を持ってからだけでも11回を数えています。勤務先の都合のためというのが主な原因ですが、自己都合というのも半分くらいは入っているような気がします。特に引越しが好きということではないのですが、振り返ってみれば、今の時点でも一箇所に住んだ平均が5年にも満たないという結果になってしまっていました。

守谷市の今の家が終の棲家になるだろうと、今ではそう思っています。7年目というのは、川崎市内に住んだのに次いで2番目の長さであり、あと一年経てば、守谷での在住が最長となるという訳です。

さて、今日は引越しの話をしようとしているのではありません。野菜作りを止めざるを得なくなったという話です。私の生家は、元々はサラリーマンでしたが、日立市に住んでいたため大規模な艦砲射撃の戦火に遭い、壊滅的な被害を受けたため、両親は住むのを断念し、戦後は母の実家に近い常陸大宮市の開拓団に入植して農業を始めたのでした。その後父はサラリーマンに復帰しましたが、母は兼業農家の核となって畑や田んぼの耕作を続けました。少年時代は就職するまで、母の手伝いをするというか、させられたというのが最大の思い出です。農作業の手伝いをするのが嫌いだったわけではなく、さりとて、少年時代には他にもっとやりたいことが幾らでもあったので、それに気を取られていつもエスケープしたい気持ちがあったのは事実です。でも、どこかに百姓へのあこがれのようなものが残っており、それはずっと消えることはありませんでした。

それから長い年月が経ち、現役を引退することになったわけですが、その頃にはくるま旅などへの想いよりもどこかで農地を借りて百姓となりたいなどという気持ちが膨らんだのでした。現役の間も、もし土地があるなら、仕事の合間に畑を借りて野菜などをつくりたいという気持ちはずっと持っていたのですが、不幸なことにそれができるようなチャンスは一度もなく、僅かに7年間住んだ川崎の時に市の菜園を3年ほど借りたという経験が持てただけでした。でも川崎市の場合は、菜園を借りる競争倍率が高く、借用期間も短かったため、満足できるような野菜作りには至りませんでした。

それが、守谷市に越してからは、何としてもその願いを叶えようと転入後間もなく菜園の募集に応募したところ、幸いにも競争をパスし、5年の契約期間を大いに野菜作りを楽しみました。その後新たに市が用意した無競争の菜園を借りて、現在3年目を迎えており、今年も秋野菜の種まきや植え付けをしようと思っていた矢先の放射能騒ぎとなったのでした。

福島第1原発の事故は実に不気味で、不可解なことばかりであり、何をどう信用して良いのか、困惑するばかりです。茨城県は福島県に隣接していますが、ロケーション的に一番近いのが北茨城市であり、事故の後の放射線測定値は県内では一番高いものでした。守谷市は事故のあった原発からは茨城県では一番遠い距離にあるのですが、なんと最近の放射線の測定値を見ると、茨城県では隣の取手市やその隣の牛久市と並んでワースト3に入っているのです。北茨城市の測定値は概ね、0.1~0.2程度となっているのに対して守谷市のそれは0.2~0.4(いづれも単位はマイクロシーベルト)もあり、北茨城市の倍にもなっているのです。尤も、この測定値という奴は、比較するには極めてルーズなデータであり、計測機器もタイミングもポジションもバラバラであって、何が本当なのか判らないという原発事故災害の特徴をそのまま反映しているようです。

信じなければそれまでの話なのですが、一旦共通の単位での数値が発表されてしまうと、気にせざるをえなくなるのが人間の常であり、嗤って見過ごすというわけにはゆかなくなってしまいます。私のような高齢者と呼ばれる世代では、さほど神経質にならずともあの世への旅経ちの時はかなり近づいているわけで、ジタバタしても仕方ないと思っているのですが、家族全体のことを考えるとそう言ってもいられません。

特に家内は病の予後の検査等で多量の放射線を浴びており、それに加えて被曝を続けるのは真っ平ご免との思いは強く、放射能まみれの畑での野菜作りは止めて欲しいとの要請には強いものがあります。ま、それは当然のことでありましょう。どうしても畑を続けるなら、表土を5cm以上は削るなどの除染作業をしてからやって貰いたいとのことですが、それまでして野菜をつくったとしても、どの道それを食べるのは自分だけということになるわけですから、これはもう止めるしかありません。

長い間の念願がようやく叶い、旅に出かける期間は野菜たちの面倒見ができなくなるのを承知しながら、野菜を作り続けて来た畑を断念するなんて、思いもよらぬことでした。このささやかな楽しみの破壊者に対して、言いようのない怒りを覚えています。東京電力なのか、国の為政者に対してなのか、はたまた原発の増殖に目をつぶって長いものに巻かれてきた自分自身に対してなのか、怒りの向け先は不明瞭です。

今回の原発事故を機に、たとえ電力の供給が途切れるような事態が発生するとしても、原発は廃止すべきだと思うようになりました。使用した燃料の危険性を取り除く方法の見出せない、人知では完全制御の不可能な、原子力という得体の知れない悪魔を用いた発電装置は、用いてはならないということが今回の事故で明確になったのだと思います。原子力の平和利用などという考えが、如何に危険で恐ろしいものであるかを今回の事故は思い知らせてくれたのだと思います。人の噂も七十五日と言われますが、もしこの出来事を日本人が安易に受け止めて諺通りに忘れ果てたとしたら、この国に真面目な未来は無いような気がします。

現在畑には間もなく花を咲かせようとしている食用菊が一畝残っていますが、この処理を終えて、私の守谷での畑づくりは終わりになります。つまりそれは、もう畑づくりはできないし、しないということを意味しています。悲しみと怒りの綯い混ざった決断となりました。

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