山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

衰微するふるさと

2018-04-22 05:13:29 | 宵宵妄話

 先日今年になって初めて故郷の常陸大宮市を訪ねた。年に2~3度くらいは故郷を訪ねているのだが、何時も実家にある畑の草を刈ってはトンボ帰りの帰省なので、ふるさとの様子をじっくり見る機会は殆どなかった。それが今回は1日余裕を持っての帰省となった。というのも、2年ほど前に実家から車で10分ほどの場所に、新しく道の駅(常陸大宮かわぷらざ)がオープンして、一度泊って見ようと思いながら実現できなかった、その念願が叶ったのである。

 常陸大宮の道の駅は、重点道の駅として地域振興の拠点としての役割を果たすことになっている。まだ2~3度しか訪ねていないので、どの程度活性化が図られているのかは判らないが、覗いた限りでは近郊の大子町や常陸太田市の道の駅と比べると、来客も多いようで、それなりの賑わいを見せているようである。

 自分は全国の多くの道の駅を訪ねてお世話になっているので、どこの何という道の駅が地域の拠点としての機能を果たしているのか、それがどのような工夫によって支えられているのかについて、多少なりの情報は持っており、それをもとにこの道の駅がどれほどのものなのかについて、見当をつけることができると思っている。我が郷土の常陸大宮の道の駅については、まだ評価を下すのは早いと思っており、その内にいずれ内容などを分析して道の駅サイドに何らかの提言などをしてみたいと思っている。

 今回はそのような活性化の話ではなく、その反対の、かつて町や村の中心だった地域の衰微を見て驚きを禁じ得なかったことについて書いて見たい。

先ずは玉川村駅周辺の小さな商店街のこと。JR水郡線に「玉川村」という駅がある。これは全国でも珍しい駅名だそうで、「村」という名がつく駅名はここだけだと聞いている。今から70年前、自分は当時まだ玉川村だったその村の村立玉川小学校に入学した。家からは子どもの足で歩くと1時間以上はかかる通学距離だった。小学校と中学校は列車には滅多に乗る機会はなく、それでも駅前の商店街に行くと、いろいろなものを売っている店があり、その賑やかさに胸を躍らせたりしたものである。高校になって水戸まで通うようになると、玉川村駅から毎日SLに乗って通学することになった。毎日お世話になる駅には駅員さんが何人かいて、忙しいのか暇なのか、とにかく国鉄の制服には一種の憧れのようなものを感じていたのを思い出す。

高校を終えて大学も水戸にあったので、同じ玉川村駅からの通いは変わらなかった。いつ頃からSLが無くなり気動車(ディーゼルカー)となったのか覚えていないが、駅員さんの数などは大学を卒業するまで変わらなかったように思う。それが、国鉄が民営化されてJRとなってから、一挙に赤字線は廃線や無人化が進み、我が玉川村駅も無人駅となったようである。水郡線が廃線を免れたのは、水戸と郡山を結ぶローカル線として無くすわけにはゆかなかい位置づけがなされていたからなのかもしれない。とにかく今でも朝夕には通勤や通学のニーズは消えてはいない筈である。しかし、自分が利用していた頃の賑わいは最早消え果てて、最小限の利用者しかこの駅を必要とはしていない感じがした。

 駅の小さな広場に旅車を置いて、駅舎の中を覗いたが、誰もおらず静まり返っていた。駅舎は建て替えられていて、自分たちが利用した50数年前の姿とは全く違っていた。待合室などは超小型化され、只の通過改札と切符入れがあるだけで、奥の方に何やら交流センターらしき看板が掛っていたが、人は誰もいる様子はなかった。一回り二回り小さくなった駅舎は、それでも以前よりは新しさを覚える造りとなっていた。

JR水郡線玉川村駅の景観。以前の駅舎はこのようなモダンなものではなかったが、もう少し待合室は大きかったように記憶している

玉川村駅のプラットホーム。線路は往時の頃と変わっていないように思えたが、その昔はこのような歩道橋はなく、線路を横切って向こう側へ行くようになっていたと記憶している。

 駅舎はともかく、駅から50mほどのまっすぐな道路は、そこで駅前を通る村のメインの道路とT字型の交差点となるのだが、往時はそのメイン道路の左右100mほどの両側に村の主な商店が並んでいたのだった。往時はスーパーなどなかったから、個々に思い思いの商品を扱う店が一通りは揃っていたのである。その中には学校の同級生の親の経営する店もあって、何となくそこの息子や娘たちにコンプレックスを感じたものだった。自分の住む集落は山奥の開拓地で、何と中学卒業近くまで電灯も無かったのである。山小屋の灯ではないけど、その頃は毎晩暗くなる前にランプのホヤを磨くのが自分の仕事だったのである。だから賑わいのある駅前に住む人たちには大きな落差を覚えていたのだった。

 さて、それから50数年が経って、駅前は昔の面影を残すようなものは何一つ残っていない感じがした。その昔羨ましがった同級生の親の経営する店は消え果てていた。跡を継いだ彼は不幸にも30年以上も前に病死したと聞いており、その後を誰がどうしたのかも知らない。その他の店も昔の記憶につながるものは何一つ残ってはいなかった。商店といわれるようなものは殆ど無くなっており、辛うじて昔はなかった菓子店が一軒あっただけだった。

 あの昔の小さな賑わいの世界は一体どこへ消えてしまったのだろう。まるで竜宮から戻った浦島太郎のように、衰微した昔の商店街の残骸を見るのは辛かった。たった50年そこそこの時間で、これほど変転衰微する世界を誰が予想できたというのか。あまりにも大き過ぎる断絶的な違いに、複雑な気持ちとなった。

 また、玉川村だけではなく、現常陸大宮市の源となっている旧大宮町のメイン商店街を久しぶりに車で通ったのだが、こちらの方も賑わいを見せていた旧市街の方は、玉川村と同じように衰微していたのに驚かされた。現在の商店街は、バイパス通りの方に移ってしまっており、そこを通ると全国どこにでもあるような大型ショッピングセンターや各種専門店が並んでおり、広い駐車場には数多くの車が停まっているのだが、旧市街の通りの商店街は、閑古鳥が声もあげられずに断末魔の様相を呈しているのである。より大きな都市ならばシャッター通りとなるのだろうけど、小さな地方の町では、シャッターすらも消え果てている感じだった。破壊と創造は世の進化の常とは言うけど、このスピ-ドにはためらいを覚えるばかりである。こんなに早いスピードで世が変わってしまっていいのだろうか。過去どころか、現実も良く捉えきれないままに次の未来がやって来るというのは、異常というしかないのではないか。

 しかし一方で、この故郷をいわば捨てて旅だった一人に、自分がいることを思わないわけにはゆかなかった。今年老いてそのことを後悔するつもりはないのだけど、それにしてもこの衰微の激しさはこの後にどのような世の中をつくってゆくのか。誰も止められないままに一層の衰退の道を歩くのか。それとも行くべき所まで行って、都市と田舍の位置づけや役割が決まるものなのか。この先どうなるのか想像もつかない。

大都市が必ずしも暮らしやすいとは思えないのだけど、人間の欲求を満たす場として大都市の存在があるとすれば、この先も大都市は廃れることはないのだと思うし、そうなると田舍に代表される地方地域は、老齢化の挙句に無人地帯となって自然に還元されて行くのかもしれない。いわゆる限界集落もしくはそれに近い高齢者の住むだけの世界が、わが故郷にも迫り来たっているのかも知れない。と、一層複雑な気持ちが膨らんだのだった。

半世紀前までは、「ふるさとは遠きにありて思ふもの、‥‥」という感覚が普通だったのだが、今ではそのような懐古の思いは届かない世の中になってしまっているのだと、改めて思った。

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