山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

二宮尊徳のこと

2007-06-19 07:03:17 | くるま旅くらしの話

今日からしばらくの間、今回の旅の中から思い出し話を拾って紹介したいと思います。

先ずは東北ではなく、隣の栃木県芳賀郡に属する二宮町の由来に関わる、二宮尊徳の話です。言うまでもなく、二宮町は、二宮尊徳によって再興された土地であり、町の名の二宮というのも、ここから来ているのだと思います。

現在は、二宮町は栃木県が日本一の生産量を誇る、とちおとめなどのイチゴ生産の中心地として、或いは関東平野の沃野に稔る農産物の生産地として、尊徳が苦労された時代とは全く違った豊穣の地となっています。

二宮尊徳という人は、江戸時代の仕法家です。今で言えば、経営コンサルタントと言ったところでしょうか。しかし、器用に頭と口先だけで経営の相談事を引き受けているのが多い、現代のコンサルタントのような人ではありません。小田原で殿様から下野の桜町の復興を依頼された時には、自分のそれまで培ってきた全財産を売り払って、決死・不退転の覚悟で、未だ行ったことも無い未知のその桜町という地に赴任したのです。

当時の桜町地域は、土地の荒廃が酷く、農耕を諦めて逃散する農民も出るほどだったといいます。この土地の生産性を高め、収益力を上げよというのが殿様の要請だったわけです。最初の頃は、なかなか上手く行かず、反発する農民もあり、又上司との関係も上手く行かないことなどがあって、辞任願いを出したこともあったようです。又、或る時は成田山に籠って断食を行なったこともありました。このときは尊徳が居なくなって、初めてその存在の大きに気づいた農民が、125名も集って尊徳を迎えに行ったということでした。

それ以降、様々な挫折を乗り越えて、遂に桜町の復興を果たしたのでした。天保の飢饉の際にも、一人の餓死者も出さずにこれを乗り越えたということでした。桜町仕法と呼ばれたこの復興のための考え方、やり方は、殿様初め世の注目するところとなり、その後は尊徳への依頼や相談事が殺到したようです。しかし何せ農民の出であり、身分制度の厳しい封建社会の中では、彼の本当の本領発揮にまでは至らなかったのではないかと思いました。もし世が封建社会ではなく現代であったら、二宮尊徳の才能はもっともっと存分に発揮されたに違いないように思うのです。というのが、私の感想です。これほど活躍した尊徳なのに、最晩年の身分は小田原藩の御普請役に昇進しただけでした。

今回訪ねた町立の二宮尊徳資料館の傍には、国指定の史跡として桜町陣屋が保存されており、又その隣には尊徳を祀った二宮神社があります。その神社の境内には、尊徳の道歌を刻んだ碑が建っています。道歌というのは、自分の考えを広く他人に解って貰うための歌のことを言います。

「声もなく 臭いもなく 常に天地は書かざる 経を繰り返しつつ めしと汁もめん着ものは 身をたすく その余は我を 責むるのみなり 天津の恵みつみおく 無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ」

これを読んで、何ともはや、大変なものだなと思わずにはいられませんでした。尊徳という人の凄まじい生き方が伝わってきます。半端な気持ちなど微塵もありません。もし些かでも自分に対する甘えがあったら、このようなことを他人に言える筈がない、と思うのです。

尊徳の教えを要約すると、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」「積小為大」「一円融合」となるのだと、資料館のパンフレットに書かれておりました。全て現代にも通じる人間としての大切な心得であり、世の中を豊かにする(心の世界を含めて)ための基本が示されていると思います。

1時間ほどの訪問でしたが、何だか尊徳先生に気合を入れられ多様な感じになり、背骨を糺されたのでした。これから先ももう少しこの人のことは調べ、学びたいと思っています。

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