山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘13年 北陸・関西・東海ほか回遊の旅レポート <第7回>

2013-05-29 06:16:04 | くるま旅くらしの話

【今日(5/29)の予定】 

  道の駅:アグリの郷りっとう →(R8・R422・R307他)→ 宇治田原町方面へ(未定) 

 

【昨日(5月28日)のレポート】  

<行程>

道の駅:あおがき →(K7・R176他)→ 篠山市(城址他重要伝統的建物具群保存地区他散策)→(K77・R372・R9・R8他)→ 道の駅:アグリの郷りっとう(泊) 

 <レポート>

夜半から降り出した雨は朝になっても止むことなく降り続いていた。九州の方は昨日梅雨入りしたと報じられていたが、関西エリアも間もなく梅雨入りなのであろう。実感としては、今日から既に梅雨入りしたように思える。青垣の道の駅は思ったよりも車の出入りが多くて、20時過ぎても子供を遊ばせに来ている人達の声がして、安眠の邪魔をされたりした。さすがに深夜は静かで、4時に起床したころは天井を叩く雨の音だけだった。いつものように2時間半ほどブログ記事の作成に取り掛かる。まったくの書き下ろしで、推敲はおろか誤字のチエックもしていないので、心配なのだが、それをする余裕がないので仕方がない。昨日は相棒から伊根の舟屋の観光の曜日が間違っていると指摘されたが、反省する気持ちも起こらない。だんだん横着になってきているようだ。

今日は篠山に行って城跡を訪ねることと、城下町に残っている国の重要伝統的建物群の武家屋敷と商家町を見聞する予定以外は何も考えていない。このところ連日歩き回っているので、その後は早めに宿を決め、そこへ行ってゆっくりすることになるのではないかと思っている。けれどもどこに泊るかは、今のところは見当もつかない。もしかしたら京都を素通りして奈良県まで行ってしまうかもしれない。いずれにしても篠山訪問のあり様次第である。その前に今朝まで一つの問題を抱えていた。わが健康管理の重要バロメーターはは、「快食・快眠・快便」なのだが、その中で最重要視している「快便」が滞っていたのである。快眠と会食については、何の不安もないのだけど、快便だけはコントロールが難しい。快食と快便は、食べ物の入口と出口に係る問題で、何でもそうだけど入口を間違えると出口がトラブルのである。今回はどこかでその入口の入り方を間違えたようで、道の駅:山中温泉ゆけむり健康村に泊った翌朝にトイレ急行便に見舞われ、何往復かしたのだったが、このような場合はその後で快便が失われるケースが大なのである。今回も同じ状態となってしまった。その後2日間まったく音信沙汰無しで、それまでは規則正しくやって来ていたものが、どこかへ消え失せてしまったのだった。薬を飲んだりしてあれこれやってみたのだけど、まったくその気配無しだった。相棒はまだ出口に至るほど食べていないんじゃないのとか言っていたけど、2日間何も食べなかったわけではないので、やっぱりおかしいと気になるのである。というのも自分の父親は、便秘が昂じて小腸が破裂するという病というか事故の様なものに見舞われて、その結果1年以上も入院して命を失っているので、整腸の失敗が気になるのである。そんなことでこの2日間はちょぴり不安を抱えていたのだが、それは全くの杞憂だった。朝食の後にお呼びが来て、その場所に行くと、何の苦労もなくどっさりとプレゼントがもたらされたのだった。こんなことでオタオタしている自分が情けなくなった。案外相棒の指摘が当っていたのかもしれない。いやはや、朝からこんな話で失礼しました。

さて、雨降りである。予報では今日は終日の雨ということであり、明日も明後日も天気は雨模様ということであるから、これから先しばらくは見聞とか歩きとかは傘が必要となりそうである。時には静養も必要かもしれない。旅はやはり少なくとも雨は降らない方がいい。そのようなことを思いながら、出発の準備をする。青垣の道の駅は、今日は定休日の様で、野菜の販売なども行われないようだ。雨の中にいつまでもここにいても仕方がないので、8時半過ぎ篠山に向けて出発する。道案内はすべてナビ任せにした。本来ナビ無し主義なのだが、この頃は大判の地図が発行されなくなってきていて、地図帳を買おうとすると細かな区分図ばかりなので、それをつなぎ合わせて見るのが面倒なのである。それで10年以上も前に買った大判の地図帳を持参しているのだけど、時々道が違ったりするので安心できない。ナビもなかなか信用し難い所があるのだけど、時々は使ってみようということになる。とにかくナビ任せとした。

幸いにとんでもない山道に入ることなく、多少の狭い道を通ることもあったけど、無事に篠山城址に到着することができた。駐車場もすぐそばにあって、何の心配もなかった。しかし、初めて来た場所であり、東西南北の感覚も働かない。雨は止んでいるけど、雲は厚く太陽の位置などさっぱり判らないのである。すぐそばに城址が控えており、そこへ行って見れば大体の見当がつくだろうと、駐車場の管理者の人から町の観光案内の簡単な絵図を貰って、城への入口に向かう。駐車場は三の丸跡に造られているようで、すぐそばには水を湛えた堀がめぐらされていた。石垣が見事だった。その石垣に守られた正面の登城口を上って、中に入る。大きな建物が再現されているのは大書院とのことだった。ここには入らずに、本丸や天主跡などをぐるっと散策した。篠山城は青山家の領したもので、最終の石高は6万石だったとか。城址の中に青山神社というのが祀られていた。何人かの名君と言われた方の顕彰碑の様なものも建っていた。初めてなので、詳しいことは解らないけど、この城は徳川家康の指示でつかられたものだとか。規模はそれほど大きくはないけど、しっかりとバランスの保たれた往時のモデルの様な造りの城だった。篠山といえば、デカンショ節が有名だけど、猿がたくさん住んでいる、とんだ山の中の町ではないかとずっと思っていたのだったが、実際に来てみるとかなり広い盆地で、城跡の四方からは城下に広がる町の景観が見事だった。何でも、現地の見聞が大事だなと改めて思った。

幸い雨はほとんど降らないようなので、傘なしで探訪を続けることにした。ここへ来たメインの目的は、城址ではなく、その城を中心にして造られてきた城下町の名残を見たいということにある。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている、武家屋敷と妻入り商家の町並みを探訪することである。城跡の探訪を終えた後は、先ず武家屋敷の方を見ることにして出向く。最初は方角が判らず、絵図を見てもどうもしっくりせずに迷ったりしたけど、その内だんだんにはっきりしてきた。武家屋敷は堀の南西部側が中心に残っているよで、その多くは下級武士である徒歩の人たちの屋敷あとの様だった。従ってそれほど規模の大きい家は見当たらなかった。現在も使われている家も多いようで、なかなか昔のままというわけにはゆかず、茅葺の屋根をトタンで包んでいるものが殆どだった。やむを得ないことだと思う。個別の家を見るのではなく、むしろトータルとしても屋敷群をイメージしながらその昔の武家の暮らしぶりなどを思い浮かべるのが正当ではないかと思う。下級武士の人たちの暮らしは、相当に厳しいものだったに違いない。上級武士がこの地のどこに住んでいたのか調べたわけではないので、比較はできなかった。ざっと見ただけだった。途中で少し雨が降り出したりして、慌てたりしたけど大事には至らず、その後商人の居住地の方に向かう。少し離れており、結構な歩きだった。

    

武家屋敷内にある安間家史料館の佇まい。現在は史料館となっているけど、茅葺の様子は、往時に繋がるイメージのある景観だと思った。

商人町は、妻入り商家と呼ばれているらしい。妻入りといういうのは嫁さんが入っているというのではなく、建物の造り方のことである。妻とは建物の側面のことを言うらしい。その側面を表側にして建てられている建物のことを妻入りというのだそうだ。門外漢の自分にはさっぱりわからない用語だけど、まあ、そんなものかと思いながらの探訪だった。この手の話は相棒の方がはるかに詳しい。彼女は江戸東京建物園でガイドのボランティアをしていたことがあり、結構勉強していたので、その成果が今でも残っているのだと思う。興味や関心も一緒に残っているようである。

その妻入り商家の町並みは、武家屋敷よりもはるかに多くのその昔を残していた。こちらには住まいの現実が息づいているように思った。武士のような矜持などを持たず、素直な生きざまを大事に暮らしてきた商売の人達には、時代の変遷と住まいとの関係は乖離することなく密着のままにここまで至っているのだろうなと思った。昨日まで何やらイベントが行われていたらしく、それが終わって一息入れているのか、町並みはひっそりとしていた。町並みの中ほどの辺りに「まけきらい稲荷」という妙な名のお稲荷さんがあり、面白半分に行ってみたのだが、急坂にたくさんの朱色の鳥居が連なっているのを見て、上るのは止めて引き返すことにした。まけきらいの由来なども書かれていたが、どうやら相撲取りに化けたおキツネさんが、相撲大会で断トツで勝ち抜いたという話らしい。詳しいことは解らないけど、今の時代負け嫌いにあまりこだわらない方がいいのではないかと思っている。商家の中にはかなり古い建物も混ざって、なかなか見応えのあるものだった。ここの人たちがいったいどんな商売をしていたのかは、今一よく分からなかった。そして現在の商売も。

    

妻入り商家の町並み。武家屋敷とは違った人々の暮らしの場であったことがよくわかる景観である。道幅は6mほどだろうか、両側の建物には往時の人たちの暮らしぶりがぎっしり詰まっているように思えた。

かなり歩いた。万歩計を見ると1万3千歩を超えていた。既に12時近くになっていた。車に戻ることにして城跡の方に向かう。その途中から雨が降り出し、本降りの様相を来してきたので少し慌てた。どうやら濡れるのは免れて車に戻る。一息入れて簡単な昼食を済ます。雨も本格化し出しそうだし、まだ町の探訪には不十分なのだけど、今回は一先ずこれくらいの下見をしたつもりとして、今度来た時にはもっと計画的に探訪することにして、出掛けることにした。

さて、どうするかしばらく検討した結果、相棒が今年のお茶は宇治で買い求めたいというので、明日あたり宇治に行くことを考え、泊りは琵琶湖大橋の袂にある道の駅:びわ湖大橋米プラザか或いは栗東市にある道の駅:アグリの郷りっとうにするか迷う。結果的に栗東の方にすることにして出発。ここからは、京都の亀岡に出て、そこからR9に入り、そのまま道なりに進めばR1からR8に入って、道の駅はすぐに判るはずなので、そのルートを行くことにした。亀岡まではナビのガイドに従うことにした。

亀岡までの道は車の流れは順調で、雨は次第に本降りとなってきたけど、それほどイライラすることもなく走って、やがてR9に入る。そこから先が渋滞の連続で往生した。何しろ今日は今まで歩き過ぎた嫌いがあるので、相棒共々結構疲れが溜まっている。渋滞はその疲れを倍加させる効能があるようだった。間もなく京都市街に入って逆に流れは良くなった。京都の表中心街を素通りするのは勿体ない感じもするけど、自分的には京都のお寺の態度は気にいらないことが多い。拝観料は高いし、駐車料も高い。衆生に功徳を施すのがお寺さんの重要な役割の一つなはずなのに、妙に思いあがっている感じがして、面白くないのである。この気分がいつ解消するのか分からないけど、京都がなくてももっと歴史の古い奈良があるから、ちっとも負い目などないのである。と、まあ勝手に粋がっているのだった。

R1に入って間もなく大津市の郊外を通る。この辺りから一挙に渋滞が膨らみ出して、車はほとんど動かなくなった。この渋滞は、草津市辺りを中心に慢性化しているようで、どうにもならない。相棒はトイレにも行きたいようだし、車を止める場所もなかなか見当たらない。しばらくは我慢するしかない。20分ほどそろそろ走っている内にどうやらピークを越えたらしく、流れは次第に改善されてきた。草津の辺りで王将に寄り餃子を買う。ついでにトイレにも。餃子は今夜のおかずにするつもり。車に戻って出発して、間もなくR8に入って少しゆくと道の駅の看板があり、左折すると少し先に道の駅:アグリの郷りっとうがあった。ここは以前に利用させたもらったことがあるが、その時は場所が判らなくて困惑したのを思い出す。今回はあの時の経験が生きていて、一発での到着だった。(当たり前だ!)

雨の中の到着で、腹は空いているし、疲れも大きくなっているし、早くゆっくり休みたいのだけど、哀しい習性はさっそくパソコンを出して写真を入れたりの作業となる。電気の不要な明るいうちに面倒な作業を済ませておきたいということからなのである。この間に相棒はご飯を炊き終え、餃子を平らげて余裕の回復ぶりだった。こちとらはその後TVのアンテナをセットしようやく餃子にありつける。今夜はずっと雨降りの様である。ここへきて思い出したのだが、この近くを新幹線が走っており、それが通過するたびに風を切る音とともに爆音の破片の様なものが伝わって来て、これが結構眠りの邪魔をするということを。以前悩まされたのを今頃思い出すなんて、時既に遅しである。今夜はあの音に負けないようにしっかり眠ることにしよう。19時過ぎ寝床に入る。雨音を聞きながら一先ず眠りに就く。相棒も間もなく諦めて寝たようだった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする