新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

『青天を衝け』・・・・川路聖謨のエピソード

2021年04月05日 | テレビ番組
いよいよ井伊大老が登場。将軍家定から取り立てられた井伊直弼。その大役に最初は戸惑うところは人間味が出ていました。
大老の地位を得れば、あとはその力は雪達磨のように膨らんでいきます。意を決して大声で「びっちゅーう」と備中守堀田正睦を睨み付けると、老中たちがビックリして萎縮したところから自信が出たような・・・。井伊直弼のエンジン全開です。

ついに目の上のたん瘤、一橋派の弾圧が始まりました。それは先ず、「慶喜を将軍に」と建白した川路聖謨(としあきら)に及びます。
(私は「としあきら」と少し字余りの名前が好きでした)


聖謨は西之丸留守居役への格下げをたまわります。処分は志士よりも先ずは幕閣から始めました。安政の大獄へと向かう「暗政」の始まりです。

畏まって「ははーっ」とこれで終わり。大老の一言には何も申せません。

余話・・・数年前、古文書サークルで、ペリーよりひと月遅れてプチャーチンが長崎来航するところを読みました。ここで川路聖謨(かわじとしあきら)はキーワードです。大河ドラマで活躍の場面を期待していましたが、やはりペリーの存在感は大きく交渉の顛末はこちらに分がありました。
聖謨は日田の小役人の息子に生まれ、後に旗本の養子になり、その才能を認められどんどん出世していきます。奉行時代には貧民救済など地元民にも慕われていました。
なんといってもハイライトは1853年に長崎に来航したプチャーチンが開国通商を求めたときのこと。聖謨は幕府の代表として交渉を始めます。プチャーチンはその人柄を「ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物」として高く評価しました。
翌年、日本側全権川路聖謨とプチャーチンの間で日露和親条約が結ばれます。この条約には国境確定があり、エトロフ島とウルップ島との間を国境に定めました。
ロシアはエトロフもロシアのものだと主張しましたが、開拓し住んでいるのは日本人だと強く主張してそれが認められたのです。列強から軍事的にも攻撃を受けてはならないという緊張感の中で行われました。

聖謨はこの実力をもってしても将軍問題で一橋派に属したために留守居役の閑職になり、のち隠居差し控えになりました。
5年後には再び外国奉行を拝命しますが、思い描いた役割とは程遠く半年で辞任。その後幕末の政局に関わることはありませんでした。
1868年、江戸開城を目前に、武士の作法に乗っ取り、中風の体で居宅のまま自決します。》


留守居役を仰せつかり、雨の中を歩く聖謨役の平田満の姿が目について離れません。
コメント