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未唯への手紙

未唯への手紙

ルサンチマンと道徳(F・W・ニーチエ)

2012年08月13日 | 1.私
『命題コレクション 社会学』より

キリスト教道徳の起源は,抑圧された弱者の抱くルサンチマン(怨恨)にある。弱者は,その無力さのゆえに,自分たちのルサンチマンを報復行動に移すことができないので,ただ「想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつける」。換言すれば,「恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式に対する逆倒を敢行し,最も深刻な憎悪(無力の憎悪)の歯ぎしりをしながら,この逆倒を固持した」弱者たちによってキリスト教道徳は形成された。この意味で,それは「道徳上の奴隷一揆」の所産にほかならない。

19世紀後半における「ヨーロッパ的人間の倭小化と均一化」に「時代の危機」をみたニーチ)は,西欧近代社会の中核的な価値観に対するラジカルな批判者として知られている。彼の批判は,たとえば「客観性」を標榜する科学主義,「進歩」を自明視する歴史観,「奴隷の道徳」としてのキリスト教道徳などに向けられ,さらには「凡俗な弱者の政体」としての民主主義にも及んだ。

キリスト教批判は,ニーチエの思想において中心的な位置を占めるテーマの一つであるが,キリスト教道徳の起源を弱者のルサンチマンに求める上記の命題は,とりわけ『道徳の系譜』(1887)のなかでくわしく展開されている。

強者による抑圧を受けて強いルサンチマンを抱きながらも,行為によって報復することのできない弱者は,「価値の根本的な転倒」という「精神的な復讐」の手段をあみだし,それによって「圧制者に対する腹いせ」を試みるほかない。このとき,「ルサンチマンそのものが創造的になり価値を生むもの」となって,奴隷の反乱がはじまる。「すべての貴族道徳が勝ち誇った自己肯定から生じるのに対し,奴隷道徳はく外なるもの〉,〈他なるもの〉,〈自己ならざるもの〉を頭から否定する。そして,この否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのである」。こうして,一方では,自分たちが求めて手にしえない富や権力などの価値が否定され,他方では,自分たちの「弱さ」が価値あるものとして正当化される。つまり,「惨めなる者のみが善き者である。貧しき者,力なき者,卑しき者のみが善き者である。悩める者,乏しき者,病める者,醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり,唯一の神に幸いなる者であって,彼らのためにのみ至福はある」とされ,また「報復をしない無力さが〈善良さ〉となり,臆病な卑劣さが〈謙虚〉となり,憎んでいる当の相手に対する屈従が〈恭順〉(とりわけ,この服従を命じる者だと彼らがいっているものーすなわち,彼らが神と呼ぶものーに対する〈恭順〉)となる。弱者の事なかれ主義,弱者がたっぷりもっている臆病さ,戸口に立ってぐずぐずと入るのをためらわざるをえない態度,そういうものがここでは〈忍耐〉という立派な名前を与えられ,徳とも呼ばれるようである。〈復讐ができない〉ことかく復讐を欲しない〉ことだといわれ,おそらくは寛恕とさえ呼ばれる。そのうえ,〈おのれの敵に対する愛〉まで説かれるー汗だくで説かれる」。

こうしたニーチエの議論は,敬虔なキリスト教信者にとってはきわめてショッキングで不快な考え方であったにちがいないが,それだけに社会学的な命題としてみると,独創的な面白さに富み,切れ味も鋭い。そこには,多くの人びとがほとんど自明のものとして受けいれてきた価値を疑い,それを鮮かにつき崩してみせる面白さがあり,一種の知的爽快さがある。

キリスト教道徳という価値をつき崩すために,ニーチエは,その「価値」をルサンチマンという「現実」に還元してみせるという方法をとった。それは,「偉大なもの」や「高尚なもの」を「卑小なもの」に,「聖なるもの」を「俗なるもの」に還元するという方法である。この点で,ニーチエのルサンチマン論は,「われわれの美徳は,ほとんど常に,仮装した悪徳にすぎない」という観点に立つラ・ロシュフコーの『識言J (1665)などに通じるシニカルな価値剥奪の面白さをもっている。あるいは,もっと素朴なレペルで現代のジャーナリズムにしばしばみられる現実暴露の面白さに近いもの,といってもよい。しかし,ニーチエの試みは,より大がかりで体系的なものであった。なにしろそれは,ほぼ2千年間にわたってヨーロッパ文化の中核をなしてきたキリスト教を相手どっての,壮大な現実暴露と価値剥奪の試みなのだから。

『道徳の系譜jのなかでニーチエは,自明視されてきた道徳的諸価値を疑い,批判すること,つまり「道徳的諸価値の価値それ自体をまずもって問題とすること」が今や要求されているとし,そのためには「これらの諸価値を発生させ,発展させ,推移させてきた諸種の条件と事情についての知識」が必要であると述べている。そして,本書では「地上でどんなふうにして理想が製造されるかという秘密」を明らかにするのだという。この発想のなかには,今日「知識社会学」と呼ばれている分野を基礎づけている考え方にたいへん近いものがふくまれている。今日の知識社会学は,ニーチェのいう「道徳的諸価値」だけでなく,もっと広い意味での観念や知識(さらには人間の認知的活動一般)を扱っているけれども,その基本的な発想においては,ニーチェからそれほど遠くへだたっているわけではない。だからこそ,知識社会学の先駆者の一人として,K・H・マルクスやE・デュルケムとともに しばしばニーチェの名があげられるのである。


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