『近現代日本史との対話』より 日中戦争 日常化する動員体制
国家の経済への介入--大政翼賛会が唱える「翼賛経済体制の建設」は、計画経済として構想されます。ソ連の第一次五ヵ年計画(一九二八-一九三二年)=計画経済が、国家による経済への介入であることと同様の特徴を有しています。
財界や既成政党はこの介入に反対し、第二次近衛内閣でも、(財界=既成勢力を代表する)小林一三・商工大臣と、(革新官僚である)岸信介・次官との対立が見られました。「計画経済」を「赤化」(=共産主義)と認識するゆえに、一九四一年には、(企画院の調査官である)和田博雄、勝間田清一らが治安維持法違反で逮捕される事件も生じました(企画院事件)。
システムBIは、恐慌に対し、国家が介入--統制する動きであり、世界的な共通性を持ちます。アメリカのニューディールもまた、その一つです。恐慌に対抗する政策--型としての、統制経済に始まる日本型、ソ連型、そしてアメリカ型の国家介入です。
となると、ファシズムとニューディールは、これまで対極に位置づけられてきましたが、むしろ共通性に目がいきます。イデオロギー的に、また政治勢力として、ファシズム、ニューディール、共産主義は対立し、それぞれ敵対していましたが、一九三〇年代の恐慌への対応--経済的対策における型の差異とすることができるでしょう(山之内靖『総カ戦体制』二〇一五年)。
このかんの日本の動きを、世界的な体制の変容のもとでの一つの型として把握したいと思います。システムBIとする理由です。
むろん、大政翼賛会の持つ排他性と独善性、それと表裏する「日本」の強調--ナショナリズムを見逃すことはできません。ただ、アメリカ型、ソ連型にもナショナリズムは組み込まれています。
第二次近衛内閣は一九四〇年七月二六日に「基本国策要綱」を閣議決定しています。「大東亜ノ新秩序」建設のために「国防国家体制」をつくりあげることを目指し「国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳」の「確立」を唱えました。そして、「日満支ヲ一環卜シ大東亜ヲ包容スル皇国ノ自給自足経済」、および「官民協カニヨル計画経済ノ遂行」、とくに、主要物資の「生産、配給、消費ヲ貫ク一元的統制機構」の「整備」をいいます。日本型の構想がここに見て取れます。そのことを前提としたうえで、目を社会に向け、日本社会のありようを探ってみましょう。
詩人の萩原朔太郎は「日本への回帰」(『いのち』一九三七年一二月)を唱えます。これまで「西洋は僕等にとつての故郷」であったが、いまやそれは「現実の東京」のなかにあり、その「現実の故郷」に帰ってきた、と萩原はいいます。
僕等は西洋的なる知性を経て、日本的なものこ作一求に帰って来た。(略)今や再度我々は、西洋からの知性によって、日本の失はれた青春を回復し、古の大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設しようと意志してゐるのだ。
と、近代を達成したゆえの課題として「日本的なものへの回帰」をいうとともに、その営みを旧来の「国粋主義」の動きからも区別します。あらたな選択肢としての「日本への回帰」の認識です。ファシズムが、近代を前提としてその超克をいうとき、近衛新体制-大政翼賛会に至る動き(システムBI)はそれに近似しています。萩原朔太郎の議論も、そのことを感じ取ったうえでのものだったのでしょう。
こうしたなかで、あらたな表現者たちが登場します。既成の文学者ではなく、戦争という現場にいる兵士たちが、文学や美術の領域で活動するのです。戦争の当事者による報告として、かれらの表現は重視されます。さきに紹介した火野葦平は、そうしたあらたな表現者たちの代表的な存在でした。
別のいい方をすれば、システムBIのもとでは、知識人と大衆の差異がごくわずかなところまで縮まるということです。知識人が、表現や認識において、一般の人びとに優位性を持つという「錯覚」は、戦時体制では不可能とされます(橋川文三「ファシズムと抵抗権」『東京新聞』 一九六〇年六月四日-六日、『歴史と感情』 一九七三年)。「国民」と「臣民」の概念の再編成も見られました。いや、双方が局面によって都合よく利用され、主体性を喚起してのあらたな統制が図られます。
「臣民」が日本の固有性と結びついているのに対し、「国民」は普遍的な意味合いを持ちます。戦時においては、まずなによりも「日本国民」としての自覚=主体が強調され、人びとは「日本国民」として動員されます。このとき、「婦人」と「少国民」、そして植民地の人びとは、雑誌などメディアを通じてのキャンペーンと、地域や学校、軍隊などでの運動(実践)によって、ことさらに「国民」としての自覚を促されます。(参政権が与えられないなど)これまで「二流の国民」とされてきた人びとに対して、総動員体制のもとで「国民」に昇格されるかのような幻想が与えられるのです。
他方、「臣民」としての意識の強調は、一九四〇年一一月に「紀元二六〇〇年」の奉祝行事が催されたことに象徴的です。式典が催され、ラジオで実況放送がなされるとともに、展覧会をはじめ数々の催しが開かれました。
「時間」の意識からするとき、人びとは「西暦」と「元号」、それに(神武天皇が即位したとされる年を基準とする)「紀元」という三通りの年の数え方によって、自己を確認することとなります。(システムAI・AⅡのもと)「西暦」と「元号」を用いて近代化を推進してきましたが、(目標が達せられたという認識のもと、システムBIのなかで)「紀元」という時間によって世界の新段階にあらためて向き合おうとします。政府もまたこの時間に合わせ、オリンピックや万国博覧会の招致を図りました。
陸軍主導で、その名も「国民服」と定められた服が半強制的に浸透するのも、同じく一九四〇年のことでした。子どもたちは「少国民」となり、小学校も一九四一年四月から国民学校として再編されます。国民学校は、「国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的としました。じわじわと、しかし身動きできないように、参加=統制が身体化され、内面化されていきます。システムBIが、日常化していくのです。
『信濃毎日新聞』主筆で、軍部に対する批判的な記事を書いて退社した言論人・桐生悠々は、主宰する個人誌『他山の石』(一九四〇年三月二〇日)に、
革新派は革旧派たることが多い。現状打破は動もすれば、旧状回復となり易い。この頃の革新派は議会主義を打破して、中世紀の暗黒時代に復原せんとしてゐる。
と記しました(「雑音騒音」)。「革新」を標榜する革新官僚や統制派の軍人たち--あらたなシステムBIを批判し続けます。そのため桐生は軍部から抑圧されますが、それ以上に、人びとから孤立させられていきます。これまで既成の秩序に抑えっけられていた人びとは、統制による息苦しさを感じつつ、「革新」--改革の幻想を振りまく、あらたな動き(システムBI)に期待を寄せていったのです。
また、植民地では、すでに「国民」概念の対抗が見られます。一九三六年のベルリンオリンピックで、朝鮮人の孫基禎がマラソンで金メダルを獲得します。しかし、孫基禎は日本の選手として出場しており、日の丸のゼッケンをつけていました。これに対し、『東亜日報』が胸の日の丸を塗りつぶして報道しました(山本典人『日の丸抹消事件を授業する』一九九四年)。(日本は)植民地の人びとに「日本」を強制し、それに対して(朝鮮は)「日本」を消し孫基禎の快挙をたたえました。帝国主義/植民地という非対称的な関係が続くなか、朝鮮はシステムBIに対抗して、システムAの理念(「民族」)で対抗しています。あらためて、「国民」が焦点となるのです。
統制経済--システムBIは、満州国でも進行します。満州国では、生産力を拡充していくために「満洲産業開発五年計画綱要」(一九三七年)が制定され、実業部次長であった岸信介らによって実践されます。この計画は、「重要産業統制法」とセットになっており、国防に重要な産業として、鉄鋼や石炭とともに、自動車や航空機産業の育成が国家主導で図られます。有事を想定し、鉱工業から農業・畜産、交通・通信などの生産力を増強し、満州国内での「自給自足」と、日本で不足する資源の「供給」が方針とされました。
日本と満州を一体とした体制のもとで「日満経済ブロック」の形成を目指しており、外部を取り込み拡大していくシステムBIの具現化です。
同時に、満州における統制経済に携わった軍人-実業家―革新官僚たちが、人脈をつくりあげました。東條英機、岸信介をはじめ、(満州の国務院総務長官)星野直樹、(日産コンツェルン総帥)鮎川義介、あるいは(南満州鉄道株式会社〈満鉄〉総裁)松岡洋右らの名前が取りざたされます。満州での人脈が、戦後日本の保守政治にも影響力を持ったことは見逃せません。
植民地での統治--動員は、「内鮮一体」を提唱し、朝鮮人を「臣民」としようとする皇民化政策として進行します。一九三〇年代後半から四〇年代にかけて、植民地では人びとの皇民化(皇国臣民化)が図られ、神社参拝、日本語の使用が強制されました。それに先立って、一九二五年に朝鮮神宮が建てられています。
国民精神総動員朝鮮連盟の愛国班により、宮城遥拝、「皇国臣民ノ誓詞」斉唱が強制され、一九四〇年二月には、朝鮮民事令の改正によって創氏改名が実施されるに至ります。「創氏」は、宗族(血族集団)による朝鮮の家族制度を、日本のような家族制度とすることであり、朝鮮社会の破壊ということになります。同化政策であるとともに、血族集団を優位とする習慣が、天皇家の絶対性と置是をきたすという理由によっているといいます(水。
あわせて、「内鮮結婚」が奨励されました。一九三五年に二五〇組であった、朝鮮内での朝鮮人と日本人との結婚は、一九三九年には二四〇五組と激増しています。一九三八年八月に、朝鮮総督府に時局対策調査会が設置され、「内鮮人ノ通婚ヲ奨励スル適当ナル処置」を講ずることがいわれ、「模範的な」夫婦を表彰しました。夫(朝鮮人)--妻(日本人)の夫婦が強調されます。
日中戦争が進展すると、朝鮮人を兵士として動員しようとします。一九三八年二月、陸軍特別志願兵制度が実施され、三月には朝鮮教育令の改正がなされました。日本語教育を徹底化することと、兵士としての参加を重ね合わせ、普通学校(朝鮮人学校)で日本語を教え込みます。七月には、総督府から『支那事変と半島同胞』という「美談集」も刊行されます。のちに見る、アジア・太平洋戦争のときのような兵士不足による動員ではなく、皇民化の推進として行われたといいます。
他方、朝鮮から日本への渡航は一九三〇年代前半以降、抑えられていましたが、一九三九年に変化しました。この年から、朝鮮から日本への労働者の移出が始まり、一九四〇年ごろからは強制的な要員確保が行われます。一九四四年八月の閣議決定を受け、翌九月からは朝鮮人の徴用の実施、強制連行を伴う動員が始まり、炭鉱などでの重労働が課されました。