goo

知識青年たちの内モンゴル

『内モンゴルを知るための60章』より

知識青年とは、およそ1950年代から1980年代初期までの間に都会から辺鄙な農村や牧畜地域に下放され、田舎の人々と生活を共にした中国の若者の総称である。その名称のうち「知識」というのは彼らの学歴を指し、「青年」とは彼らの年齢を指す。しかし、「知識」の名を冠している彼らの学歴も通学歴が10年未満の者が多い。毛沢東の呼び掛けによって行なわれたこの知識青年の下放運動は1950年代に始まり、1960年代末にピークに達し、1980年代初期に改革開放が始まると同時にほぼ終息したと見られており、また自分の故郷に下放された青年たちを「帰郷知識青年」とし、他の地域に下放された青年たちを「下郷知識青年」と分類して呼ぶ場合がある。

こうしたなかで、内モンゴル各地にも多くの知識青年たちが下放されてきた。北京、天津、上海、河北、江蘇、山東、山西、四川、浙江などの地域を出身とする彼らの第一陣は1967年10月9日に内モンゴルに到着した。1967年10月18日の『シリンゴル日報』には「偉大な領袖毛沢東から革命的な知識青年たちに教えてくれた光り輝く道--労働者や農民大衆に密着する路線--にしたがって北京の一部の中学校、高等学校の小さな革命戦士たちが10月9日に内モンゴル自治区シリンゴル盟の西ウジュムチン旗にやってきて人民公社の社員や一般牧民になった」と報じられている。この第一陣の知識青年は10名だったようだが、内モンゴルの代表的な牧畜地帯で北京から来た知識青年を受け入れたという象徴的な意味合いは大きい。これ以後同年の11月29日に第二陣として374人の知識青年が同じシリンゴル盟にやってきた。このように、とくに1968年12月22日に公表された「知識青年は農村に行って、貧しい農民に再教育を受けることが重要だ」とする毛沢東の呼びかけ以後、内モンゴルに下放してきた各種の知識青年は30万人に達し、シリンゴル盟だけでも約4000人の知識青年を受け入れたという。

当時、内モンゴルに下放されてくるこれらの知識青年たちは農村地域や牧畜地域そして北京軍区管轄下にあった各地の「内蒙古建設兵団」に属していった。牧畜地域に下放された知識青年たちは単独、あるいは2、3人のグループに分けられ牧民のゲルに泊まることになった。下放中、彼らは農作業や放牧に従事したり、一部の知識青年は人民公社の下部組織である大隊長や小隊長をつとめたり、教師や医者、獣医、会計、トラクター運転手になったりした。また一部の知識青年は「造反派」にもなり、文化大革命に参加した。彼らの多くは1980年代初期に帰郷を果たしたが、少数の知識青年は現在も下放した田舎に生活している。彼らのなかには、周恩来総理の養女のような高級幹部の子弟もいれば「右派」として弾圧された人々の子女もいた。

1980年代初期に帰郷を果たして彼らの知識青年たちは工場労働者になったり、大学に進学したりして改革開放の時代の波のなかでさまざまな道に進んだ。

2007年の夏、シリンゴル盟は干ばつに襲われたが、「草原の恋」合唱団は「中国社会工作協会甘泉基金」という組織と合同で「あの緑の土地を残そう」と題するボランティア公演を北京で組織し、50万元の寄付金を集め、現地で井戸を掘ることに当てた。彼らはまた温家宝首相に手紙を送り、被災状況を報告し、温家宝首相から緊急対策をとるように関係機関に指示を下したという。また、この団体のメンバーは下放したシリンゴル地域のモンゴル族の重病少女を北京に連れて行って、元知識青年たちに寄付金を募って治療をした。シリンゴル盟で沙漠化防止のために多年草の牧草地をつくるなど「草原の恋」合唱団によるボランティア活動はマスコミに多く報道された。これらの活動は少なくとも知識青年たちがその「第二の故郷」--内モンゴルを忘れていなかったということを意味する。これらの支援活動に対して、東ウジュムチン旗政府から「草原の母たちの愛は無駄ではなかった」と書かれた表彰状を送ると、彼らは「子供のように喜んだ」という。

何故内モンゴルに下放された知識青年たちが離れて30年以上も経つ内モンゴルをこれほど懐かしみ、色々な手段を通して内モンゴルヘの思いを伝えようとしているのか。それはまず彼らの回想録に綴られている人情味に溢れた下放当時の生活体験に由来するようである。たとえば、「草原の恋」の創立者馬暁力は牧畜地域に下放されてきた最初のころ、普通の靴を履いたことによって一回酷く落馬したものの下宿先の牧民に言わずいたが、数日後牧民は落馬防止のためにと彼に革製の長靴を送ったという。当時一足の革製の長靴は26元で、牧民の1ヵ月の収入にも相当するものであった。別の女性知識青年の回想によると、彼女は吹雪の日、ロブサンというモンゴル人と旗政府所在地に仕事で行った帰りに凍死寸前まで凍えていたところ、通りかかったモンゴル人のお婆ちやんに救われたうえ、同行のロブサンは「北京から来た知識青年を大事にせねば」と怒ったという。このような厳寒の内モンゴルで冬を過ごす際に出会った「草原エージ/母」の暖かさは、数多くの人情溢れたシーンとして回想録や文学作品にドラマチックに描かれている。内モンゴルで過ごした彼らの記憶に印象深く残っているのは自然や風景ではなく、人々の温かさであったという。

その暖かさについて次のような描写がある。「草原は美しいのだが、それよりも美しいのは草原の人々の心だ。私たちが下放した最初のころは階級闘争運動の最中にあり、緊張した雰囲気に包まれていたが、牧民たちは私たちを孤児のように愛しんでくれた。よく「わが息子よ、わが娘よ」と言ってくれた。彼らには差別するという概念はなく、人間を階級や等級に分けたりはしない。何故なら彼らはそもそも命を大切にする人々であるからだ。私たちのなかには母の愛をはじめて体験した人々もいた。偉大なる母性愛は草原にあった。何故なら私たちの両親は右派となり、捕まって行ったから母の愛を受けられなかった。牧民はこの偉大なものを私たちに自然とくれたのである」。とにかく知識青年たちの回想録には母を指す「エージ」というモンゴル語が多く現れる。内モンゴルに下放された知識青年たちはモンゴル人の母から「母の愛」を多くもらったことにより内モンゴルを「第二の故郷」とまで位置づけたと理解することができよう。

「文化大革命」という特殊な時代に、毛沢東の一声によって「知識青年」という特殊なコミュニティーを生み出した。「勉強する青春時代を荒原で費やした不幸な人々」と彼らを憐れむ声もあるが、しかし、何故か内モンゴルに下放された知識青年たちは、省内の近場で下放された知識青年たちに比べると自分たちが「恵まれた」と見がちであり、辺鄙な内モンゴルに下放されたことに「悔いはない」という。内モンゴルに下放された知識青年たちは現在も自分たちのことを「知識青年」という特殊な用語で社会に積極的に紹介し続けている。彼らは現在も内モンゴルの牧民たちと連絡を取り、草原の牧民たちの文化を十数億人もいる漢民族社会に紹介する独特なチャンネルとなっている。彼らの回想録や文学作品を通して内モンゴルに行ったことのない人々が「内モンゴル」を知り、「モンゴル文化」を知るという役割を果たしていることは確かであろう。現在内モンゴル各地に「セゲーテン/知識青年広場」や「第二の故郷」といった知識青年たちのことをモチーフにした記念物が多く建てられており、知識青年たちの歴史的足跡を刻んでいる。

周知のように、近年内モンゴルでは環境悪化が深刻化している。知識青年たちは国家環境保護局に手紙を送り、東ウジュムチン旗に進出した汚染企業--製紙工場を追い出すことに成功した。またシリンゴル草原で開発されている鉱山企業に対しても牧民の権利を守るような活動を展開している。あるもと知識青年のブログには「中華人民共和国草原法」、「環境保護法」、「村民委員会組織法」、「鉱山開発法」など関連法案がモンゴル語に訳されてモンゴル人牧民に届けられているという。元知識青年出身のある研究者は著書のなかで、内モンゴル地域の沙漠化の原因を定住化によるものと指摘し、政府による対内モンゴル政策を暗に批判している。このように、知識青年たちと内モンゴルの関係は中国の急激な社会変容に対応しながら今後も続いていくことであろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« スキルを変え... 地元に女性を... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。