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自動運転という意思決定システム

どうでもいいこと
 日本のある家族の独特の風習
それにしても頭が働かない
 飲んでも食べても、咳が戻そうとする。この一週間で三キロ減った。この際、海外旅行レベルにさせようか
 なぜか今日も夕食なし。
5.5「情報共有環境」
 情報共有を提供するのは企業の役割
 自由ファクターとしての企業。
 次の世界に役立つ企業だけが残る。理念がない、間違っている企業は脱落する。
 メッセージ、コンテンツを扱う企業はあるが、意思決定の企業はまだない。いかにまとめていくか? AI技術に頼るカタチになる。
意思決定システム
 自動運転も最終的に意思決定システム。トロッコ問題もその範疇にある。
コンテンツの判断基準
 コンテンツの判断基準は好き嫌い。Youtubeはある基準で送ってくる。断るときに理由を聞いてくる。おかしいだろう! 送ってきた理由が先だろう。
地域での企業の役割
 売るから使うになることで地域への密着度が増す。地域で生きていく。そのために組織を使っていく。
5.8.1「企業の優位性」
 全体がみえ、先を探る。行政の均一性を超えられる。組織としての行動。

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現存在の解釈

 『ハイデガーの思惟と宗教への問い』より
 『存在と時間』における現存在の解釈
  『存在と時間』はその思惟の革新性のゆえに、二〇世紀の哲学的思惟に強い影響を及ぼした著作である。そしてその革新性は何よりも、存在了解を持つという卓越した人間存在、存在の問いを立てるさいの唯一の通路とされる「現存在」(Dasein)の根本体制が「世界の-内に-あること」とされ、この体制に即して現存在が分析され解釈されたことに由来する。現存在とは、人間が、主観-客観という図式においてではなく、世界のうちですでに人々やものと関わっているというあり方に即して捉えられたもので、世界という場の開けにおいて見られた人間存在である。ここではこの存在者をその根本体制において分析するという仕方で、「存在の問い」が準備的に遂行されているのである。
  そこでまず「現存在」という概念を、『存在と時間』のテクストに即して確認しておこう。現存在という概念は「存在の問い」の連関で出されている。すなわち「存在の問い」において「問われているもの」としての「存在」、「問い出されるもの」としての「存在の意味」に対して、「問いかけられるもの」を確定するという作業において出されているのである。
   〔存在の問いを仕上げるために要求される〕、〔存在に〕注目すること、〔存在の意味を〕理解し概念把握すること、〔範例となる存在者を〕選択すること、〔その存在者に〕近づいていくことは、問うことを構成する態度であって、それら自身、一定の存在者--問う者である私たち自身がおのおのそれである--の存在様態である。存在の問いを仕上げることは、ある存在者--問いつつある存在者--をその存在において透明にすることを意味する。このような問いを問うことは、ある存在者それ自身の存在様態として、この問うことにおいて問われているものから--存在から--本質的に規定されている。私たち自身がおのおのそれであり、とりわけ問うという存在可能性を持つ存在者を、私たちは術語として現存在と名づける。
  この引用から知られるように、存在の問いを明確に打ち立て遂行するためには、存在に注目しその意味を理解し概念把握する、そのための範例となる存在者を選択しそれに近づくといったことが要求されるが、「問う」ということを構成するこれらの態度は、問いを遂行する私たち--存在了解を持つ存在者--自身のさまざまな存在様態という性格を持つ。すなわち、ここで問題となる存在は、さしあたって私たち自身によって了解された存在であり、したがって存在を問うとは「私たち自身が私たち自身に問い掛ける」という構造を持つことになり、存在の問いを仕上げるとは、「私たち自身の存在を透明にする」ということになる。またこの問いの遂行は、この問いにおいて問われている「存在」から規定されるものであり、このように「存在を問う」という視点から見られた私たち自身が、「現存在」と名づけられる卓越した存在者なのである。すなわち私たちは、その存在をみずからの存在として引き受けている存在者であり、存在を問うことが可能な唯一の存在者だとされる。したがって存在を問うことはまず、私たち自身の存在を解釈し明確化する営みとなる。またハイデッガーは、「存在の問い」は、「現存在そのものに属している本質的な存在傾向、すなわち前存在論的な存在理解の徹底化以外の何ものでもない」と言う。ここで「前存在論的な存在了解」とは、人間がすでに持っていながら、まだ自覚化されていない存在理解であり、この存在理解そのものを徹底的に問い抜き、明るみにもたらすことこそが、存在の問いを問うことであり、「現存在の解釈」の目標でもあったのである。
  ところでこの存在理解は、同時に世界理解でもあることに注目されなければならない。というのは現存在には本質的に「世界の内にあること」が属しているからである。『存在と時間』のなかでは、「世界-内-存在はアプリオリに必然的な、現存在の体制である」、あるいは「現存在の存在諸規定は、アプリオリに、私たちが世界-内-存在と名づける存在体制を根拠として見られ理解されなければならない」と言われている。すなわち現存在とは、私の現存在であり、みずからの存在を引き受けている存在者であると同時に、人々やものとの関わりが成り立つ場の開け(Da)が、本質的に、あらゆる経験を待たずして属しているような存在者でもある。この「世界-内-存在」という規定によって、現存在解釈が独我論に陥ることは最初から避けられている。このように、「存在理解の徹底化」は「世界理解の徹底化」として、世界-内-存在という現存在の根本体制そのものを徹底的に問い抜き明らかにすることでもある。そして「現存在の解釈」は、世界-内i存在という根本体制に即した解釈となるのである。
  以上のように「現存在の解釈」は少なくともハイデッガーにとっては、「存在そのもの」を問うことが可能となる唯一の方法であった。現存在の解釈という独特な方法論は、『存在と時間』において、ヨーロッパの哲学の歴史、とりわけ存在論の歴史を究明する過程で見えてきた問題性、すなわち「存在そのもの」・が問われていないという問題性を克服するためのものである。しかし現存在の解釈というハイデッガー独自のユニークな思惟が出されてきた過程には、紆余曲折が見られる。私たちはつぎに煩雑になることを承知で、『存在と時間』が成立した過程に即して、「現存在の解釈学」が持つ意味について考察してみたい。
 世界-内-存在としての現存在
  一九二三・二四年冬学期から一九二八年夏学期まで五年に及ぶマールブルク時代のハイデッガーは、まずフッサールから一定の距離をとることによってフッサールの現象学と正面から向き合うこととなり、それとの対決を通して「現象学」をみずからの方法としてそのあり方を追求していった。またR・ブルトマン等のプロテスタント神学者だちとの交わりは、ハイデッガーに彼独自の思惟を練り上げる環境を与えた。そしてそれらは『存在と時間』というエポックメイキングな思惟へと展開した。とりわけ「現存在」と「世界―内-存在」という根本概念に関しては、一九二四年の講演「時間の概念」において、「現存在は世界-内-存在として性格づけられる存在者である」と明確に規定されるに至った。
  ところでマールブルクヘの移動後から「時間の概念」に至るまで、世界-内-存在を根本性格とする現存在に関して、つぎのような思惟が展開されている。
   ①ハイデッガーはフッサールの意識の現象学に関して、意識のあり方を、「意識がそのうちにある気遣い」において問題とする。この気遣いは認識作用そのものに、「認識された認識」に向けられたものであり、「見る」という働きである。この見えるということは、被発見性とも言い換えられて、「ある世界の内部にあるという意昧での存在にともに属し」、「人間の存在の(現存在の)いずれの様態においても--現存在の根本様態である気遣いにおいても--現にある」とされる。すなわち、見えるということ、発見されてあるということが、世界の内にあるということであり、人間存在の根本のあり方である。気遣うとは、配慮的に気遣われたものに目を遣るという仕方で見ることであり、このような見ること、見えることが世界の内にある人間の根本のあり方である。したがって「ある世界の内にあること(内にあること)として現存在は開示する存在である」のであり、見るという「根本体制を遂行する者」として、 現存在の根本体制は「世界の内にある」ということになるのである。
   ②ところでこの認識された認識への気遣いは、「最終的に保証された地盤から証示され証示可能となる」という仕方でなされており、この気遣いが今日の哲学的な問いを支配している。この保証はギリシア哲学における「theoreinの絶対的優位」に一つの根拠を持つとされるが、認識にとって肝要なことは、存在者のなかで「安らいでいること」、「くつろいでいること」であり、この安らぎ、くつろぎが認識にさらなる保証を与えている。しかしこのような仕方で現存在は、認識された認識への気遣いによって「自己自身から逃避し、徹底的に自己を見つめ把握する可能性を放棄する」ことになる。このとき現存在は、みずからがあることそのものに内在する「脅威」、「不気味さ」から「世界の内での慣れ親しみ」へと逃避している。このことからさらに、現存在は開示するものであると同時に覆い隠すものでもあることが見られていく。このように現存在のあり方が、本来のあり方からの「逃避」であると洞察されることにより、この逃避の解消が、本来性への戻り行きが模索されることになる。そしてこの帰還の可能性は、みずからの死というもっとも固有な可能性によって与えられることになる。
   ③逃避から本来性への戻り行きの可能性として「死」が注目されることになる。「事実的生-死-時間性」という連関はすでに一九二二年の就職応募原稿「アリストテレスについての現象学的解釈」において十分展開されない形で出されてはいたが、「死」が人間の在り方に決定的に関わるものとされたみは、一九二四年の講演「時間の概念」からであろう。「死」という、「何時」ということに関しては不確定であるが、確実にやってくる、人間の生を無にする可能性、そのような死に思いを潜めるとき人間存在は「第二次的に可能存在」であることが見えうるようになる。「死」というもっとも極端な可能性において把握されるとき、「現存在」は「時間そのもの」であることが明らかになる。このような仕方で「現存在の存在」を「死に向けられた存在」と見ることによって、「現存在の存在の意味は時同性である」というテーゼが出されてくることになったのである。
  以上のような三つの過程を経て「時の概念」において、「現存在」に関して一応の結論が見いだせたと考えられる。「世界-内-存在」が人間の根本的なあり方を表す概念として定着するのも同じ年の夏学期の講義においてである。そこでは「現存在」に関して八つの定式の形で「現存在そのものの根本構造」がまとめられている。
  「時の概念」において『存在と時間』の骨組みが出来上がったと考えてよいであろう。そして二五年の講義『時間概念の歴史への序説』でそれは完成に近づいたと見なしうる。しかしそこにはまだ「超越」の問題は出されていない。この講義の後、おそらくは『存在と時間』の第一部第三編「時間と存在」の論考を進める過程で、「超越」が決定的な意味を持ち始めたのであろう。この問題をつぎに考えてみよう。

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