未唯への手紙
未唯への手紙
シーア派とアリーの関係
シーア派とアリーの関係
遂に見つけたって感じ。シーア派とアリーの関係。まさか『意味の深みへ』井筒俊彦 に入っているとは!
レミゼの『民衆の歌』はきらい
いくちゃんが居るので聴いているが、レミゼの『民衆の歌』はきらいです。フランス革命のその後を考えると悲惨です。
彼らは、ナポレオンによって、ボノジノに連れて行かれた。自由のために。
シーア派イスラーム アリーとの関係
『意味の深みへ』より シーア派イスラーム--シーア的殉教者意識の由来とその演劇性--
カリフの地位をめぐって、二人の有力な候補者が出現いたします。一人は当時シリアの地方長官をしていたムアーウィアという人。この人は大変な野心家で、有能なというより、奸知にたけた政治家で、しかも軍事力は強大というわけで、たまたまこの人は暗殺された第三代カリフのオスマンと同じウマイヤ家の一員でした。この血縁関係を根拠として、彼は自分こそオスマンの跡継ぎたるに一番ふさわしい人物だと名乗りをあげたのであります。
もう一人の後継者が出ました。それは預言者ムハンマドの娘婿で、アリーという人です。アリーの周りには、彼を熱狂的に支持し、むしろほとんど宗教的に崇拝するといったほうがいいほど尊敬し、敬愛する一群の人々が集まっておりました。アリーを取り巻く熱狂的なアリー信者たち。彼らがやがてシーア派となっていくのであります。
アリーはまさしく、シーア派の始祖であります。今日我々は普通シーアとかシーア派とか言っておりますが、「シーア」という言葉はアラビア語では「党派」とか「派閥」とかいう意味なのです。これにアリーという名前を結びつけまして、「シーア・アリー」--アリーの党派--という意味の表現だったのですが、それを省略してシーア、シーアと言っているうちに、一種の固有名詞になってしまった、というわけであります。ですからシーアというのは、もともと、簡単に言ってみれば、アリー党という党派であります。アリーという一人の人物を除いては、その存立を考えることができない特殊なグループです。要するに、アリーとその後継者たちを頭に戴くイスラーム共同体の中での特殊共同体であります。
それでは、アリーというのは一体どんな人だったのか。また、何ゆえに彼があれはどのプレスティージを享有し得たのかという問題でありますが、一番簡単で即物的な理由は、預言者ムハンマドに対する彼の近しさ、他に比べもののない親密な人間関係が考えられます。アリーは預言者ムハンマドの叔父にあたる人の息子でありまして、この叔父が、幼くして両親を失って孤児となった預言者ムハンマドを自分の家に引き取って、我が子のようにかわいがって育てました。ですからアリーは預言者ムハンマドの従兄弟に当たるわけでして、二人の従兄弟は、この叔父の家で本当の兄弟のように親しみ合って育ちました。
ムハンマドがイスラームという宗教を興したとき、アリーはまだ十三歳の少年でしたが、初めから無条件でムハンマドに信頼を示しまして、まだみんなが「ムハンマドは気違いだ」とか、「詐欺漢だ」とか言ってあざ笑っていたころから、最初のイスラーム教徒として、この新しい宗教に入信したのであります。イスラームの最初の信者はアリーを入れてたった三人だったと言われております。しかも、ムハンマドは、自分が二番愛していた娘ファーティマをアリーにめあわせました。つまりアリーは預言者の娘婿になったわけです。
これだけ特別に親密な間柄にあったのですから、それだけでも、アリーこそムハンマドの最も正統な、最も由緒正しい後継者だと言う人が多かったのは当然であります。事実それが、アリー自身のゆるぎない確信でもあったのです。
しかし、事は思い通りにはいきませんでした。さきにもお話しましたように、一代目から三代目のカリフは全部彼の意思に反した人がその地位を占めました。自分こそ唯一の正しい後継者だと信じていたアリーは、じっと我慢してそれを見続けてまいりました。我慢とか、辛抱とか--そこには、自分が不当な扱いを受けている人間であるという意識があります。自分は不当に弾圧され、就くべき位に就かずにじっと身をひそめているという、被抑圧者の意識。苦難の道を行く、あるいは苦難の道を行くことを強制される受難者の意識。こういう意識には、常に一種の悲壮感が纏綿いたします。
悲壮感、この感覚が、アリー一人の心理現象ではなくて、アリーから始まるシーア派の歴史的展開全体にわたって、深い暗い影を落としていきます。それがシーア派イスラームの、一つの顕著な特徴です。明るく陽の当たる人生の表街道を陽気に歩いていく人たちに背を向けて、陽の当たらない裏街道を、あるいは暗い夜の道を、行く人。そういうイメージです。この種のイメージは、いろいろな次元でいろいろな意味に解釈されると思いますが、シーア派の歴史には、確かにそういう否定的な色づけが濃厚に認められます。シーア派独特の受難者意識。その悲劇的性格は、後でお話するアリーの息子ホセインの最も悲痛な殉教において、その頂点に達しまして、それが今日に及んでいるのであります。
ところで、さっきお話しましたシリアの長官ムアーウィアとアリーとはカリフの候補者として対立することになりますが、一応アリーのほうに人々の支持が多く集まりまして、彼がカリフの位置に推薦されます。形式上は暗殺された第三代カリフ、オスマンの後継者、第四代カリフであります。しかし、もちろんムアーウィアと彼を支持する人々はそれを承認しようとはいたしません。ムアーウィアとその一党の人々は、シリアの都ダマスカスに拠って、激烈な敵対運動を開始いたします。
正式に第四代カリフとして人々の宣誓を受けたアリーは、メソポタミア--今日のイラク--のクーファという町を首府と決めまして、そこを本拠地として、共同体の統治を始めます。ムアーウィアとアリーの対立抗争の過程には様々なことが起こりまして、初期イスラーム史の興味あるI章でありますが、ここでは都合で全部割愛いたします。
とにかく、おそるべき陰謀と戦争の渦中に巻き込まれて、さんざん苦杯をなめさせられたあげく、西暦六六一年、アリーは、敵の回し者、過激思想をもつテロリストに、毒を塗った刀で殺害されます。
こうしてアリーという人は、一生悩み続け、苦しみ続け、受難者として生きながら、悲劇的最期でその生涯の幕を閉じたのであります。彼の一生は、さっきお話いたしました殉教的受難精神、人生の悲劇的感覚において、まさにシーア派そのものの運命の象徴たるにふさわしい生涯でありました。
ところで、アリーには二人の息子がおりました。預言者ムハンマドの孫に当たるわけですが、長男がハサン、次男がホセイン°父親のアリーが暗殺されますと、彼を支持してきた人々は、すぐさま長男ハサンを次代のカリフに推薦し、第五代のカリフといたします。
もちろん、ムアーウィア側がそれを承知するわけはありませんので、ムアーウィアは直ちに六万の大軍を起こして、クーファに向かって進軍を開始します。優勢な軍事力で脅しをかけながら、ムアーウィアはハサンに退位を勧めまして、こんな手紙を送りました。今日に伝わるその有名な書簡の一節に、ムアーウィアはこう書いております。
「イスラームという宗教において、宗教的に私はあなたが私よりも上位におられることを認めるにやぶさかではない。また、あなたの預言者ムハンマドとの親密な間柄も私はよく知っている。だが、イスラーム共同体の主権者ということになると、そんなことは判断の基準にはならない。イスラーム共同体の最高主権者として決定的に重要なことは、何よりもまず実力である。次に政治と行政の能力と経験である」云々。
要するに、カリフになるためには宗教だとか信仰だとかいってもはじまらない、むしろ世俗的、政治能力の問題だということでありまして、ここに初期イスラーム思想史上初めて、政治と宗教の分離という重大な考えがはっきり出てまいります。そして、事実イスラームの表側ともいうべきスンニー派のイスラームは、その歴史的発展において、カリフ制度なるものを、ムアーウィア的イデオロギーに基づいて次第に世俗化してまいります。つまり、カリフは事実上、宗教的最高権威ではなくなってしまうのであります。
これに反してシーア派のほうでは、イスラーム共同体の長たるものは、イスラームの預言者を通じて神に直結する宗教的カリスマを身に体した人物でなくてはならないと考えます。元来イスラーム共同体なるものは、霊性的共同体なのであって、ここでは宗教と政治の分離などということは考えられない。宗教的最高権威が政治を行って初めてイスラーム共同体の真面目が発揮される、という考え方でありまして、この考え方がいかに根強くシーア派を支配してきたかということは、ホメイニー革命後の現在のイランの情勢をごらんになれば、一見して明らかであろうと思います。これこそ、まさにホメイニー体制の政治理念であるのですから。
シーア派イスラーム
『意味の深みへ』より
シーア派イスラーム--シーア的殉教者意識の由来とその演劇性--
つい数年前まで、日本では、シーア派はおろか、イスラームという言葉すら、ほとんど耳にすることもないような状態でございましたが、最近は中近東をめぐる現代史の急流に突き動かされて、わが国でもイスラームについて話されたり書かれたりすることが非常に多くなってまいりました。シーア派などという、普通なら我々に縁遠いはずの名称まで、イラン革命のおかげで、今ではもうジャーナリズムの常識の一部になってしまいましたような次第で。そればかりか、従来、西洋でもほとんど知られていなかったドゥルーズ派--シーア派の異端のイスマーイール派のそのまた異端、一番極端な過激派ですが--のようなものまで、レバノンの政治情勢に関連しまして、新聞の記事などに、よく名前が出てくるようになってまいりました。全く隔世の感がございます。
このように、シーア派という名前は、皆様がよく耳にされるようにはなりましたけれど、それではシーア派とは、一体どんなものなのか。特にシーア派イスラームといってスンニー派イスラームと区別する理由はどこにあるのか。一体どんな違いがあってシーア派イスラームとスンニー派イスラームとが対立しているのか、などということになりますと、ご存じない方が非常に多いと思います。シーア派という言葉を使っていらっしゃる方ご自身も、「シーア派とは何だ」と言われると、ちょっと困るというようなことではないかと思います。今日は、そのシーア派イスラームにつきまして、私の知っておりますことを、いささかお話してみたいと思います。
シーア派というのは、どんなふうにしてできあがってきた派なのか。つまりシーア派の形成の過程。また、シーア派の形成過程の特殊性から、シーア派にどんな根本的な特徴が出てくるのか。いわゆるスンニー派とどんなふうに違うのか、というようなことが、いくらかでもおわかりいただければと思っております。
元来私は、イスラームと中しましても、イスラームの古典哲学を東洋哲学の一部として研究している者でございまして、余り切実な現代性をもったテーマをもちあわせておりません。しかしシーア派イスラームというものは、いわゆるイスラーム革命以後のイランを支配している宗教でありますし、現に中近東に起こりつつあるいろいろな事件について、シーア派とスンニー派との対立というようなことが、すぐ問題になってきますので、イスラーム教徒のなかで特にシーア派と呼ばれる人々は一体どんなことを考えているのかということがおわかり願えれば、今日私がお話申し上げることにも、まあ何とか現代性があるといいますか、現代とのつながりがあると見ていただけるのではないかと思っております。
早速ですけれども、一体どこから、何を手がかりにしてシーア派イスラームなるものを分析し、理解したらいいかということになりますが、いろいろ入り口は考えられますけれども、私どもの立場から申しますと、さしあたり「代理人」という概念を導入することによって、それを手がかりにして考え始めるのが一番よろしいのではないかと存じます。代理人、つまり代表者といいますか、本人自身ではなくて、本人に代わってだれかのために何かをする人。
代理人などと申しますと、何となく平凡でとるに足りないことのように思われるかもしれませんが、実はそこからシーア派のすべてが始まると言ってもいいほど、重要な概念でございます。ただし、代理人といいましても、この場合には特に、だれがだれの代理をして何をするのかということが決め手になります。
元来、代理人という概念はシーア派だけではなくて、イスラーム一般におきまして非常に重要な働きを歴史的に担ってきた概念でございます。イスラーム文化、イスラーム思想の全歴史過程を通じて、いろいろなところに、いろいろな次元で、いろいろな形で姿をあらわしてまいります。
一番根本的な次元では、聖典『コーラン』が「人間は地上における神の代理人である」とはっきり規定していることです。代理人のことを『コーラン』ではハリーファと申します。皆様「カリフ」という言葉をご存じだと思います。「カリフ」とはもともと、「ハリーファ」というアラビア語がヨーロッパ語的になまったものです。「神のハリーファ」--神の代理人--というのは、きわめて特徴的な『コーラン』の人間観でございます。
我々はよく、「人間は万物の霊長」などと申しますけれども、それを『コーラン』では人間は生あるもの一切の代表者であって、生あるもの一切を代表するものとして地上に君臨する、と考えます。
しかし、このように神の代理人である人間そのもの、人類全体をさらに代表するたった一人の人間がいる。それが、預言者ムハンマドという人であります。ついでながら、ムハンマドのことを俗にマホメットと申します。マホメットというのは、「ムハンマド」がヨーロッパ語化されて非常に崩れた形でございますが、それがそのまま日本に入りまして、つい最近まで我々もマホメットと言っておりました。しかし近頃ではムハンマドという、より原語に近い形がよく使われるようになってまいりました。
それはとにかく、預言者ムハンマドが人類全体を代表しまして、みんなの代わりになって神の前に立つ。みんなの代わりになって一人で神の言葉を聞く。それが「預言者」ということの意味です。預言者というのは、未来を予言するという意味は一つもございません。神の言葉を受け取って、それを自分の心の中にとめておく人という意味です。
神の言葉を聞き、神の指示を受けることによって、預言者ムハンマドは、今度は逆に神の特別な代理人という資格を帯びまして、その資格で他の人間の支配者、指導者となります。ですからこの場合ムハンマドは、代理人といいましても、その代理人性は、上にある神と下にある一般人との関連において、一種の二重構造を示す。ですから、同じ代理人でも、なかなか複雑で、非常に特殊な代理人です。
ところで、いま私は「人間」とか「人類」とか申しましたけれども、それはもちろん理論上のことでありまして、実際はイスラーム教徒、イスラーム信仰者たちの世界、いわゆるイスラーム共同体の支配者ということでございます。それを神の代理人として、預言者ムハンマドが宗教的、政治的に支配するということであります。
ご承知のように、ムハンマドが神の言葉を聞き始めまして、いわゆる預言者となったのは西暦六一〇年、彼が四十歳のころですが、その後約十年にして彼の周りには強力な信者の集団ができあがります。それをイスラームの共同体と申します。アラビア語ではウンマといいます。
ウンマとは、『コーフン』の教えに基づき、神によみされ、神に承認された、神聖な信仰共同体を意味します。しかし歴史的現実としては、宗教的共同体であるばかりでなくて、政治的軍事的共同体でもあったのです。ということは、すなわち、このような性格をもつイスラーム共同体の最高主権者としての預言者ムハンマドは、宗教的ばかりでなく、政治的にも最高権威であるということであります。つまり、来世のことばかりでなくて、現世の生活のことまで指導する人、という意味を帯びてまいります。
しかし、『コーフン』に基づくイスラームそのものの理念といたしましては、この世を治めるのは、世界そのものを無から創造した神ただ一人であるはずでありまして、預言者ムハンマドがいくら偉い人であっても、要するに彼は神の地上経綸の代理人--ハリーファ--であるにすぎない。つまり神に代わって世を治める、ということであります。
そしてこの点だけは、あらゆるイスラーム教徒が、異議なく、無条件に認めるところでありまして、ここまではスンニー派もシーア派も区別がございません。『コーラン』の根本的思想として、だれでも、例外なしに、認めることであります。むしろ本当の問題は、次の段階での代理人の資格をめぐって起こってくるのです。次の段階での代理人をめぐって、全イスラーム界は分裂し、スンニー派とシーア派の根本的な対立が、早くもイスラームの歴史の最初期に、未曽有の危機をはらむ問題として生起してまいります。
「次の段階」といま申しましたが、具体的にはそれは預言者ムハンマドが死んだ時であります。彼は西暦六三二年に他界しますが、彼の死によって、イスラームの内部に突如としてあらわれた大きな、取り返しのつかないほど大きな空白状態をだれが埋めるのかという問題にイスラーム共同体が突然直面するのであります。
もう少し具体的に申しますと、いままでは預言者ムハンマドが神に代わって、神の代理人として共同体を宗教的、政治的に治めてきた。預言者なきいま、だれがどういう資格で今度はムハンマドに代わって、ムハンマドの代理人として共同体の最高主権者の位置に就くべきか、ということなのであります。これがイスラームの死活にかかわる、由々しき問題として生起してまいりました。
この危機的状態において、まさにこの問題をめぐって、共同体内部に激烈な意見の相違が起こり、共同体自身が真っ二つに割れてしまうのであります。
常識的には問題はむしろ単純で、いままでの主権者が死んだ、その後継者にだれがなるかという、いつでも、どこでも起こり得る、いわば平凡な問題なのでありますが、イスラームの特殊な思想コンテクストにおいては、そこに、さっきからお話しておりますような預言者の代理人、そして特に神の代理人という問題が起こってまいりますので複雑になります。
預言者の後継者とは、ここでは預言者の代理人ということであり、預言者の代理人になるということは、間接的に神そのものの代理人になるということなのですから、事は重大です。神の世界経綸の直接の代理人である預言者は死んでもはやこの世にはいない。その後を継いで、それに代わって仮に世を治めていく。それこそ文字通りハリーファ--代理人--でありまして、この意味でムハンマドの後継者は、ハリーファ--西洋でいわゆる「カリフ」--と呼ばれるのであります。
こう申しますと、それなら次の預言者の出現を待って、その人を共同体の最高主権者の位置に据えたらいいじゃないかとお考えになるかもしれませんが、絶対にそうはいかない。と申しますのは、イスラームの最も根本的な思想の一部として、ムハンマドはこの世にあらわれる最後の預言者、預言者の打止めであるという重要な考えが、すでに『コーラン』の段階で確立されているからです。最後の預言者、『コーラン』ではそれを「すべての預言者たちの封絨」と呼んでおります。