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日本の官僚制度 官僚の自律性が凶暴となる

『政治の衰退 下』より
ドイツと同じく、明治維新以降の日本で創設された近代的なウエーバー流の官僚制度は、あまりにも自律性が高かったために、結局国を破滅に追い込んでしまった。1930年代に日本が右傾化してしまった原因は、社会の抱える深刻な諸問題ではなく、この官僚の自律性にあったと考えていい。
日本の「ファシズム」への移行を社会的な条件から説明した著名な一人がバリントン・ムーアである。ムーアは近代に向かう3つの道筋が存在し、それぞれの道筋において農民が重要な役割を果たしたと論じた。1つ目は民主的な道筋で、イギリスとアメリカ北部各州がその例である。イギリスでは、小作中心の農業と封建的な政治制度の組み合わせが強引に商業的な農業に転換させられた。また、アメリカではそもそも小作中心の農業も封建的な政治制度も存在せず、家族中心の農業が主流だった。2つ目の道筋は、農民革命を通じての近代化だ。この道を辿ったのはロシア(ソ連)と中国であった。3つ目の道筋はファシズムに向かうもので、農業分野での抑圧的なシステムが権威主義的国家を生み出す土壌になった。結果、権威主義的国家はその土壌から離れていった。
ムーアはどうして日本では中国やロシアのようなスタイルの農民革命が起きなかったのかについて説得力のある主張をしている。徳川幕藩体制下の税制によって、明治維新が起きる前の1世紀の間に農業の生産性は向上した。農民たちも豊かになっていった。更には、税金の評価と徴税も共同体単位で行われ、政府の徴税事務は比較的中立公平であった。そのため、村落レベルで共同体の強い連帯感や社会資本を生み出した。これは中国の状況とは全く対照的であった。中国では、農民に対する徴税は、厳しい取り立てをする民間の徴税請負人たちに任された。また、自己の家族中心の個人主義は農民たちの間に互いに不信感を生み出した。清朝時代の中国においては、明治期の日本よりも、農民たちの不満や怒りが高まっていた。この農民の怒りを動員し、利用したのが中国共産党であった。他方、日本では明治維新の前後に農業の商業化が進展し、それに伴って農民たちの反乱も起きたが、国全体を巻き込む反乱を生み出す段階には至らなかった。
ムーアは農村の土地所有制度と1930年代に台頭した軍国主義とを結び付けているが、こちらはあまり説得力を持たない。彼は日本とプロイセンとの間に共通性を見つけ出したいと考えていた。プロイセンの場合は、16世紀から続く抑圧的な農地所有制度と軍事力の増強との間には関係があった。プロイセン軍の将校団は、ユンカー階級から選んだ人々で構成されていた。彼らは軍務についていない時には、所有する土地で小作人を抑圧していた。しかし、日本では、封建的な土地所有は、19世紀末に生まれた自由な借地と商業的な農業の進展に置き換わっていた。日本では1940年代後半にアメリカの指導で土地改革が行われるまで大地主が存続し、保守政党の支持基盤となった。しかし、彼らは、第一次世界大戦前のドイツにおけるユンカーや1930年にクーデターが起きた時点でのアルゼンチンの大規模土地所有者ほどには、保守派の中で重要な位置を占めてはいなかった。むしろ勃興する軍事国家内の官僚たちによって敵視されていたのである。
自律して勝手に動く軍部がなければ、日本がイギリス型の民主政体に向かって発展したという、別の歴史を想定してみることは十分可能である。日本は第一次世界大戦に巻き込まれることはなかったために、この時期に経済は飛躍的に成長した。その結果、都市部における中間層が急速に膨らみ、国民の教育レベル全体が上がった。好景気は1920年に突然終わった。ヨーロッパ列強がアジア市場に戻って来たからだ。その後の長期にわたる景気後退によって、労働組合数と労働争議が増加し、様々なマルクス主義などの左翼団体も増え、日本の巨大な企業集団である財閥による産業資本主義の強化が起きた。こうした展開は民主主義政治にとって必ずしも致命的なものではなかった。こうしたことは、当時のイギリス、フランス、アメリカでも起きていたからだ。こうして新たに出現した集団が帝国議会で権力を争う政党の協力を得て政治に参加できていたら、1930年代の日本で民主主義が確立されていたことだろう。
日本がこのような道筋を進むことを妨げたのは、日本国内ではなく、日本帝国の海外領土に駐屯していた軍部のとった決断である。ある意味で、日本の権威主義が生まれたのは東京や日本の地方ではなく、満州であった。日本海軍は1930年のロンドン海軍軍縮会議においてイギリス、アメリカと妥協した打撃から癒えていなかった。陸軍の一部は満州に自分たちの国を作り出したいと考えていた。関東軍の下級将校たちは中国東北部を拠点とする軍閥の長であった張作霖を1928年6月に暗殺し、1931年9月に発生した満州事変を利用して、満州南部のほとんどを手に入れた。東京の文民政府は分裂し、関東軍の動きに対して適切に対処できなかった。明治憲法は選挙で選ばれた文民からなる政府に対して、軍を直接統制できる権限を与えていなかった。第一次世界大戦前のドイツの皇帝以上に、天皇は軍の最高司令官というよりも、軍の囚われ人であった。テロがはびこる時代が始まった。軍部と右翼の狂信者たちが、天皇の名のもとに、文民政治家たちを暗殺し始めた。1930年には浜口雄幸、1932年には犬養毅と、総理大臣2人が暗殺された。急進的な将校たちは1936年にクーデターを試みた。この試みは阻止されたが、文民政府は萎縮し、1937年に関東軍が起こした盧溝橋事件を阻止できず、日本は中国に対する全面的侵攻に突っ込んでいった。
ドイツとイタリアのファシズムと異なり、日本の軍国主義は大衆政党と結びついていなかった。日本軍は民間の様々な右翼団体と協力関係にあったが、ドイツ軍が持っていたような強力な社会的基盤を持っていなかった。満州事変を画策した石原莞爾のような日本陸軍の実働部隊の若い将校たちが日本の軍国主義を生み出した。石原莞爾は旅行や研究を通じて、列強間の「総力戦」が起きるという考えに行き着いた。日本軍は独自に反資本主義的な国家主義イデオロギーを生み出した。このイデオロギーは産業社会の物質主義と自己中心主義を嘆き、想像上の過去の農本社会にノスタルジアを持ってあこがれた。しかし、このイデオロギーが賞賛していたのは農民生活よりも、古い武士階級の名誉を重んじる倫理であった。軍隊内における官僚的な自律性は「地方の司令官たちは緊急事態において作戦を遂行する場合には中央の司令部からの直接の命令を待たなくてもよいという昔ながらの権利」が存在したために、特に強力であった。
1930年代を通じて、エージェント(代理人)がプリンシパル(主体)に変身することに成功したのである。
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スネフェル王の赤ピラミッド

『世界のピラミッド大事典』より
階段ピラミッドから真正ピラミッドヘの形態変化は、第4王朝初代のスネフェル王の治世に始まるとされている。スネフェル王はメイドゥムに最初階段ピラミッドを建設したが、続いてダハシュールに外壁の途中から角度が緩やかになるいわゆる屈折ピラミッドを建設した。最終的にスネフェル王は、そのダハシュールの屈折ピラミッドから北へ約4キロメートルの場所に当時「スネフェルは輝く」と呼ばれ、後の時代に「赤ピラミッド」と呼ばれることとなる傾斜角度が約43度と緩やかな真正ピラミッドを完成させたのである(つまり屈折ピラミッドの上部構造の上半分と同じ角度)。赤ピラミッドという呼び名は、外装の石材がはぎ取られた後の内部の赤みがかった石灰岩製石材の色に由来する。そしてその後、メイドゥムに造られた最初の階段ピラミッドの真正ピラミッドヘの改築に取りかかったと考えられているのだ。この試みは結果的にピラミッドの崩壊という結末を迎えたと想像されているが、彼の志は次王のクフエに引き継がれた。つまり、単なる原始的な穴による埋葬から始まった古代エジプト人たちの墓形態は、下部構造を持つ墓へと進歩し、続いて台形型の上部構造を持つマスタバ墓となり、階段ピラミッドを経て、最終的に四角錐の真正ピラミッドとなったのである。ピラミッドの発展過程はしばしばこのように説明されている。しかしながら、我々は上で述べられたようなある種の単系進化論的な考えをそのまま受け入れても良いのであろうか。それは大いに疑問である。その疑問の解をみつけるには、スネフェル王がどのような順番で彼の三つの巨大なピラミッドを建造したのかを知る必要がある。それは間違いなく今後の大きな検討課題であろうが、まずはダハシュールに建造されたスネフェル王の赤ピラミッドの構造を確認しておきたい。
この赤ピラミッドの入口は、地表から約28メートルの高さの北側に位置している。約63メートルにもおよぶ通路を下降して、高さ約12メートルの持ち送り積み式の天井部を持つ前室へと至る。ほぼ同じ構造の第2の前室を抜けて、そこからさらに8メートル高い位置に造られた水平の通路を通り、高さ約15メートルの持ち送り積み式の天井部を持つ玄室にたどり着くのである。二つの前室は南北軸を向き地表面と平行に造られていたが、玄室は東西軸を持っていた。玄室が東西軸であり、地表よりも上に造られている点は、後のクフ王の大ピラミッドを彷彿とさせる特徴である。
さらにピラミッドの玄室の方向軸に注目するならば、第3王朝の階段ピラミッドの伝統を引き継いでいたスネフェル王の崩れピラミッドと屈折ピラミッドが南北軸を持っていたのに対して、赤ピラミッドがギザのピラミッドのように玄室が東西軸を向いていたことがわかるのである。赤ピラミッドは、幸運なことに石灰岩製のキャップストーンは発見されているが、玄室は明らかに盗掘を受けていた。 しかしながら、この玄室からはミイラの断片(骨片)が出土している。ただし誰のものかは不明である。しかしドッドソンのように、このミイラをスネフェル王のものと考えている研究者もいる。この赤ピラミッド本体は周壁で取り囲まれており、また付属して存在する構造物として葬祭神殿が知られている。葬祭神殿はピラミッド東側に位置している。現在はかなり大規模に破壊されているが、至聖所とそれを挟むようにある二つの礼拝所、そしてその前方に中庭があったことが確認されている。このピラミッドの河岸神殿の場所も知られているが、いまだ詳細な調査はなされていない。それゆえこれら二つの神殿をつなぐ参道が現存するかどうかもわかっていない状況なのである。窯を持つ工房跡が確認されていたり、偽扉の断片とスネフェル王が描かれた石灰岩のレリーフの断片などが発見されているが、衛星ピラミッドは発見されていない。先述したように一部未確認ではあるが、スネフェル王によるダハシュールの二つのピラミッドは、双方ともに葬祭神殿から延びる参道とその先にある河岸神殿を備えていた可能性が高い。これらの特徴は第4王朝へと引き継がれ、真正ピラミッド・コンプレックス(複合体)の基本要素となるものである。また赤ピラミッドの北東には、第4王朝頃に建造が開始されたと考えられているレプシウス第50(L)号と名づけられたピラミッドの基礎部分が残っている。後ほど述べるペピ1世の勅令には、メンカウホル王のピラミッドにも触れられていることから、レプシウス第50(L)号がそれに相当するのかもしれないし、今後ダハシュールで新たなピラミッドが発見されるかもしれない。
ダハシュールは屈折ピラミッドと赤ピラミッドの二つのピラミッドが建造された場所であると考えるのではなく、それら二つのピラミッドを包含する一つの空間として理解すべきである。そのことは、ダハシュール出土の第6王朝の王ペピ1世による井戸に関する税免除について記された勅令のなかでダハシュールのスネフェルエのピラミッド都市を「二つのピラミッドの都市」と呼び、ピラミッドを表わす文字が二つ重ねて記されていることからも明らかである。ダハシュールに居を構え、二つの巨大なピラミッドを建造したスネフェルであったが、晩年には最初に建造に着手したと考えられている彼の巨大な階段ピラミッドを真正ピラミッドヘと仕上げるために、再びメイドゥムヘと舞い戻ったと考えられている。彼の権力の大きさはこれら複数のピラミッドから十分に明らかであるが、それ以外の史料からも確認することができる。
古代エジプト最古の年代記の一つであるパレルモ・ストーンの記述によれば、スネフェル王は、南方のヌビアと西方のリビアに遠征隊を派遣し、戦利品として大量の捕虜と家畜を獲得している。さらにシナイ半島のトルコ石鉱山や銅山に採掘のための遠征隊を派遣したとも記されている。また大型の建材加エジプトでは不足していたため、レバノン杉を求めて現在のレバノンにあるビブロスにまで遠征隊を派遣したことでも知られているのである。スネフェル王はその強大な権力を背景に対外戦略を開始した王でもあったのである。
この歴代の古代エジプト王たちのなかでもかなり強力な権力を持っていたと想像できるスネフェル王は、後世に語られる文学作品のなかにしばしば登場する人物でもあった。例えば「ネフェルティの予言」という物語のなかにもスネフェル王は登場する。この「ネフェルティの予言」という物語は、後の中王国時代の第12王朝に編まれたとされているが、そのなかで描かれている舞台は、時代設定が古王国時代第4王朝のスネフェル王の治世になっている。
その話の冒頭は、「上下エジプトの王、声正しきものスネフェル王がこの国の慈愛深き王だった頃のことです……」で始まる。ここから我々は、第12王朝の時期になってもスネフェル王はエジプトの人々にものすごく良いイメージの人物と考えられていたという事実を知るのである。また原型は第5王朝にまで遡るが、第二中間期にパピルスに書き写されと考えられている「ウェストカー・パピルスの物語」のなかで、スネフェル王は日々の生活が退屈なので、暇つぶしに魔術師を呼びつけて何か楽しいことはないかと尋ねたり、少女たちを舟遊びさせて、それを楽しそうに眺めたりする場面が描かれている。このことから後の第二中間期になってもスネフェル王がひじょうに親しみ深い身近な人物として人々に知られていたことが読み取れるのである。この「ネフェルティの予言」や「ウェストカー・パピルスの物語」に述べられているように、スネフェル王は、偉大な慈悲深い王として庶民に絶大な人気を誇り、後世に語り継がれていく人物なのである。中王国時代までには神格化され神となるほどであった。スネフェル王が複数のピラミッドを建設することができた理由は、その当時のエジプト王国が国家として強大な力を保持していたのみならず、王個人に対する庶民からの人気が背景にあり、それを政に巧みに利用したからであったのかもしれない。スネフェル王こそは真のカリスマであった。彼であったからこそ、第3王朝から建造されてきた階段ピラミッドのような単純に石材を階段状に積み上げた巨大な人工の岩山以上の概念=完璧なる「四角錘」をピラミッドに与えることができたのである。
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豊田市図書館の30冊

329『国際法』
209『人類5000年史Ⅱ』紀元元年~1000年
596.65『旅するパティシエの世界のおやつ』
222.6『モンゴルの歴史』遊牧民の誕生からモンゴル国まで
361『デンマーク幸福研究所が教える「幸せ」の定義』
498.3『はたらく女性のコンディショニング事典』疲れ知らずのカラダ・ココロ・アタマをつくる
933.7『ケイレブ』ハーバードのネイティブ・アメリカン
202.5『世界のピラミッド大事典』
209『旅と冒険の人類史大図鑑』
364.04『未来の再建--暮らし・仕事・社会保障のグランドデザイン』
361.85『アンダークラス--新たな下層階級の出現』
134.96『存在と時間5』
365.3『東京格差--浮かぶ街・沈む街』
313『政治の衰退 下』フランス革命から民主主義の未来へ
361.45『フェイクニュースを科学する』拡散するデマ、陰謀論、プロパガンダのしくみ
366.2『AIと日本の雇用』
675.3『アナログの逆襲』「ポストデジタル経済」へ、ビジネスや発想はこう変わる
681.6『運輸業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』グローバル・IT化時代の業界の現状を解説!
596『ミシュランガイド東京2019』
361.43『高校生からのリーダーシップ入門
369.27『なぜ人と人は支え合うのか』「障害」から考える
140.4『この脳の謎、説明してください!』知らないと後悔する 脳にまつわる40の話
361.45『図説 日本のメディア』伝統メディアはネットでどう変わるか
332.19『未来経済都市 沖縄』
141.5『RE:THINK 答は過去にある』
159.6『ハイヒールは、いらない レディ・レッスン SEASON2』
230.5『静寂と沈黙の歴史』ルネサンスから現代まで
238.07『プーチンとロシア革命--百年の蹉跌』
292.37『キラキラかわいい街 バンコクへ』
379.9『男の子を伸ばす母親が10歳までにしていること』東大合格者日本一 開成の校長先生が教える
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