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スネフェル王の赤ピラミッド

『世界のピラミッド大事典』より
階段ピラミッドから真正ピラミッドヘの形態変化は、第4王朝初代のスネフェル王の治世に始まるとされている。スネフェル王はメイドゥムに最初階段ピラミッドを建設したが、続いてダハシュールに外壁の途中から角度が緩やかになるいわゆる屈折ピラミッドを建設した。最終的にスネフェル王は、そのダハシュールの屈折ピラミッドから北へ約4キロメートルの場所に当時「スネフェルは輝く」と呼ばれ、後の時代に「赤ピラミッド」と呼ばれることとなる傾斜角度が約43度と緩やかな真正ピラミッドを完成させたのである(つまり屈折ピラミッドの上部構造の上半分と同じ角度)。赤ピラミッドという呼び名は、外装の石材がはぎ取られた後の内部の赤みがかった石灰岩製石材の色に由来する。そしてその後、メイドゥムに造られた最初の階段ピラミッドの真正ピラミッドヘの改築に取りかかったと考えられているのだ。この試みは結果的にピラミッドの崩壊という結末を迎えたと想像されているが、彼の志は次王のクフエに引き継がれた。つまり、単なる原始的な穴による埋葬から始まった古代エジプト人たちの墓形態は、下部構造を持つ墓へと進歩し、続いて台形型の上部構造を持つマスタバ墓となり、階段ピラミッドを経て、最終的に四角錐の真正ピラミッドとなったのである。ピラミッドの発展過程はしばしばこのように説明されている。しかしながら、我々は上で述べられたようなある種の単系進化論的な考えをそのまま受け入れても良いのであろうか。それは大いに疑問である。その疑問の解をみつけるには、スネフェル王がどのような順番で彼の三つの巨大なピラミッドを建造したのかを知る必要がある。それは間違いなく今後の大きな検討課題であろうが、まずはダハシュールに建造されたスネフェル王の赤ピラミッドの構造を確認しておきたい。
この赤ピラミッドの入口は、地表から約28メートルの高さの北側に位置している。約63メートルにもおよぶ通路を下降して、高さ約12メートルの持ち送り積み式の天井部を持つ前室へと至る。ほぼ同じ構造の第2の前室を抜けて、そこからさらに8メートル高い位置に造られた水平の通路を通り、高さ約15メートルの持ち送り積み式の天井部を持つ玄室にたどり着くのである。二つの前室は南北軸を向き地表面と平行に造られていたが、玄室は東西軸を持っていた。玄室が東西軸であり、地表よりも上に造られている点は、後のクフ王の大ピラミッドを彷彿とさせる特徴である。
さらにピラミッドの玄室の方向軸に注目するならば、第3王朝の階段ピラミッドの伝統を引き継いでいたスネフェル王の崩れピラミッドと屈折ピラミッドが南北軸を持っていたのに対して、赤ピラミッドがギザのピラミッドのように玄室が東西軸を向いていたことがわかるのである。赤ピラミッドは、幸運なことに石灰岩製のキャップストーンは発見されているが、玄室は明らかに盗掘を受けていた。 しかしながら、この玄室からはミイラの断片(骨片)が出土している。ただし誰のものかは不明である。しかしドッドソンのように、このミイラをスネフェル王のものと考えている研究者もいる。この赤ピラミッド本体は周壁で取り囲まれており、また付属して存在する構造物として葬祭神殿が知られている。葬祭神殿はピラミッド東側に位置している。現在はかなり大規模に破壊されているが、至聖所とそれを挟むようにある二つの礼拝所、そしてその前方に中庭があったことが確認されている。このピラミッドの河岸神殿の場所も知られているが、いまだ詳細な調査はなされていない。それゆえこれら二つの神殿をつなぐ参道が現存するかどうかもわかっていない状況なのである。窯を持つ工房跡が確認されていたり、偽扉の断片とスネフェル王が描かれた石灰岩のレリーフの断片などが発見されているが、衛星ピラミッドは発見されていない。先述したように一部未確認ではあるが、スネフェル王によるダハシュールの二つのピラミッドは、双方ともに葬祭神殿から延びる参道とその先にある河岸神殿を備えていた可能性が高い。これらの特徴は第4王朝へと引き継がれ、真正ピラミッド・コンプレックス(複合体)の基本要素となるものである。また赤ピラミッドの北東には、第4王朝頃に建造が開始されたと考えられているレプシウス第50(L)号と名づけられたピラミッドの基礎部分が残っている。後ほど述べるペピ1世の勅令には、メンカウホル王のピラミッドにも触れられていることから、レプシウス第50(L)号がそれに相当するのかもしれないし、今後ダハシュールで新たなピラミッドが発見されるかもしれない。
ダハシュールは屈折ピラミッドと赤ピラミッドの二つのピラミッドが建造された場所であると考えるのではなく、それら二つのピラミッドを包含する一つの空間として理解すべきである。そのことは、ダハシュール出土の第6王朝の王ペピ1世による井戸に関する税免除について記された勅令のなかでダハシュールのスネフェルエのピラミッド都市を「二つのピラミッドの都市」と呼び、ピラミッドを表わす文字が二つ重ねて記されていることからも明らかである。ダハシュールに居を構え、二つの巨大なピラミッドを建造したスネフェルであったが、晩年には最初に建造に着手したと考えられている彼の巨大な階段ピラミッドを真正ピラミッドヘと仕上げるために、再びメイドゥムヘと舞い戻ったと考えられている。彼の権力の大きさはこれら複数のピラミッドから十分に明らかであるが、それ以外の史料からも確認することができる。
古代エジプト最古の年代記の一つであるパレルモ・ストーンの記述によれば、スネフェル王は、南方のヌビアと西方のリビアに遠征隊を派遣し、戦利品として大量の捕虜と家畜を獲得している。さらにシナイ半島のトルコ石鉱山や銅山に採掘のための遠征隊を派遣したとも記されている。また大型の建材加エジプトでは不足していたため、レバノン杉を求めて現在のレバノンにあるビブロスにまで遠征隊を派遣したことでも知られているのである。スネフェル王はその強大な権力を背景に対外戦略を開始した王でもあったのである。
この歴代の古代エジプト王たちのなかでもかなり強力な権力を持っていたと想像できるスネフェル王は、後世に語られる文学作品のなかにしばしば登場する人物でもあった。例えば「ネフェルティの予言」という物語のなかにもスネフェル王は登場する。この「ネフェルティの予言」という物語は、後の中王国時代の第12王朝に編まれたとされているが、そのなかで描かれている舞台は、時代設定が古王国時代第4王朝のスネフェル王の治世になっている。
その話の冒頭は、「上下エジプトの王、声正しきものスネフェル王がこの国の慈愛深き王だった頃のことです……」で始まる。ここから我々は、第12王朝の時期になってもスネフェル王はエジプトの人々にものすごく良いイメージの人物と考えられていたという事実を知るのである。また原型は第5王朝にまで遡るが、第二中間期にパピルスに書き写されと考えられている「ウェストカー・パピルスの物語」のなかで、スネフェル王は日々の生活が退屈なので、暇つぶしに魔術師を呼びつけて何か楽しいことはないかと尋ねたり、少女たちを舟遊びさせて、それを楽しそうに眺めたりする場面が描かれている。このことから後の第二中間期になってもスネフェル王がひじょうに親しみ深い身近な人物として人々に知られていたことが読み取れるのである。この「ネフェルティの予言」や「ウェストカー・パピルスの物語」に述べられているように、スネフェル王は、偉大な慈悲深い王として庶民に絶大な人気を誇り、後世に語り継がれていく人物なのである。中王国時代までには神格化され神となるほどであった。スネフェル王が複数のピラミッドを建設することができた理由は、その当時のエジプト王国が国家として強大な力を保持していたのみならず、王個人に対する庶民からの人気が背景にあり、それを政に巧みに利用したからであったのかもしれない。スネフェル王こそは真のカリスマであった。彼であったからこそ、第3王朝から建造されてきた階段ピラミッドのような単純に石材を階段状に積み上げた巨大な人工の岩山以上の概念=完璧なる「四角錘」をピラミッドに与えることができたのである。
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