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なぜ、美しいシリアは、がれきの都市になってしまったの

『わたしは13歳、シリア難民。』より なぜ、美しいシリアは、がれきの都市になってしまったの
21世紀最大の人道危機
 2011年3月以降、シリア紛争での死亡者は少なくとも25万人ともいわれ、家を追われた人びとは1200万人にも上ります。1万人以上の子どもが犠牲になっていると推測され、21世紀最大の人道危機といわれています。
 子どもたちが通っていた学校も、紛争下では攻撃の対象になり、家にじっと息をひそめて閉じこもるしかありませんでした。実際、シリア国内の3分の1の学校が閉鎖されています。空爆で破壊されてしまったり、武装勢力に占拠されたり、避難民の避難所として使われる学校もあります。
 病院も爆撃を受け、その半数が十分に機能していないといわれています。必要な医療品や手術器具が手に入らないのです。
 国連児童基金(UNICEF)の事務局長もたびたび声明を発表しており、子どもたちの生命の維持と健全な成長のための保健医療サービスが崩壊していることを訴えています。暴力が激化した地域では、数カ月の間に、栄養不良に陥った子どもの数が5倍に増えたケースも報告されています。
 国際NGOセーブ・ザ・チルドレンが2017年3月に発表したシリア国内の子どもたちの「メンタルヘルスに関する報告書」では、爆撃や暴力行為に日常的にさらされつづけた結果、子どもたちが示すストレス反応はもっとも危険なレベルに達していると報告されています。
 セーブ・ザ・チルドレンの報告では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状として、夜尿症や言語障害が現れたり、暴力的になったり、薬物乱用や自殺未遂にいたる例なども確認されています。大人も子どもも想像を絶する恐怖とストレスにさらされつづけているのです。
 安全な場所であるべき学校が破壊されたり、肉親や友だちが目の前で殺害されるという悲劇がくり返されています。毎日の爆撃は極度の精神的な傷を子どもたちに与えていますが、子どもたちに対するケアは十分にはおこなわれていません。戦闘が激しい地域には支援団体さえ立ち入れないからです。
 のちほどくわしく紹介しますが、私たちがシリアのとなりの国ヨルダンでおこなう授業に通ってくるシリアの子どもたちが描く絵や作文からも、戦闘がつづく日々がいかに過酷であったかがわかります。
 国外へ脱出する人びと
 2011年3月から7年、紛争以前のシリアの人口の約半数の人びとが住んでいた家を追われ、約660万人が国内避難民になって国内を転々と移動することを余儀なくされ、約550万人の人びとが安全を求めてシリアを脱出し、難民として国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に登録されています。この約550万人のシリア難民が隣国のヨルダンをはじめ、トルコ、レバノン、エジプトなどの周辺諸国に避難し、中にはギリシャヘ渡り、ギリシャからヨーロッパヘ移動した人びともいます。
 簡易なゴムボードに何十人もが乗り込み、危険を承知で地中海を渡る様子は何度もニュースで放映されたので、記憶されている方もいると思います。このように自身や家族の安全を求め、国内避難民となったり、国外に逃れたりする難民があとを絶ちません。
 2015年9月2日早朝、総勢21人のシリア難民が乗っていたギリシャのコス島に渡るボートがトルコのボドルムを出港した直後に高波にのまれて転覆してしまいました。9人が救助されましたが、12人が溺死しました。ボート転覆から数時間後には。海岸に打ち上げられたアイラン・クルディくんの遺体の写真が世界に発信され、難民たちの命の危険をともなう過酷な旅の実態を世界に伝える結果となりました。
 この事件は世界中のマスコミが報道し、ネットでは海岸に打ち上げられたアイランくんの遺体画像が配信され、シリア難民の置かれた過酷な実情が知られることになりました。
子どもたちが難民になるってどんなことだろう
 子どもたちにとって、難民になるとはどういうことなのでしょうか。住み慣れた家やよく遊んだ公園、大好きだった友だちとの別れ……。なかには、家族全員で避難することができず、離れ離れになることもあるでしょう。たくさんの荷物を持って行けず、お気に入りの洋服やだいじにしていたぬいぐるみ、ゲームなども置いていかなければなりません。
 生まれ育った町や国を去るとき、どんな気持ちだったのでしょうか。安全を求めてシリアを脱出し、やっとの思いでほかの国にたどり着いても、新しい生活環境になじむのはたいへんなことです。
 たとえば、ヨルダンではシリアと同じアラビア語が話されますが、トルコではトルコ語が公用語です。言葉が違う国に来て、一から生活をはじめるのは、大人にとっても子どもにとっても、たいへんな苦労です。
 また、親は避難先で仕事を見つけ、家族を養っていかなければなりません。それは、親にとって大きなストレスになります。
 一方で、爆撃などでけがをした子ども、病気になって働けなくなった親の代わりに働く子どもがいます。ヨルダンでは、難民登臨をしているシリア人家庭の半数が、子どもの収入に頼っているという報告もありまち。
 避難先では、戦闘に巻き込まれる危険はなくなっても、爆撃の恐怖や肉親、友だちの死、つらい避難の体験が子どもたちを苦しめています。また、仕事を求めて、何度も引っ越しをくり返し、その都度、転校することになる子どもたちのストレスは想像以上に大きいものです。
 安定した収入がない状態では、親にも余裕がなく、家庭でも安らぎを感じられず、子どもたちの気持ちも落ち着きません。仕事がなくなって家族を養っていけなくなった家庭では、女の子を10代前半で結婚させてしまうこともありまち。結婚させられた女の子は学校に通うことがむずかしく、教育を受ける機会を逃してしまいます。
 私たち国境なき子どもたち(KnK)が授業をしている学校に通ってくる子どもたちの中でも、他人に攻撃的だったり、無気力な子ども、友人とうまくコミュニケーションがとれない子どもなどを見かけます。このように心に傷を負った子どもが回復するには、長い期間が必要だといわれています。
 紛争が終結し、将来シリアにもどって国を再建していくのは子どもたちです。その子どもたちが、教育の機会を得られず、必要な知識やスキルを身につけられないまま大人になれば、シリアは将来、国を築く礎となる人材を失うという重大な危機に直面します。このような「失われた世代」をつくらないように、世界が彼らを支援していく必要があります。
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出版恐慌 アマソンの躍進

『出版の崩壊とアマゾン』より 出版恐慌
アマゾン・ドットコムは一九九八年九月に「アマゾンジャパン株式会社」を設立、二〇〇〇年十一月にAmazon.comの日本版サイト「Amazon.co.jp」を開設、日本でのネット書店事業に乗り出した。当時、ネット書店の売り上げは七〇~八○億円といわれ、書籍売上の①%にも満たなかった。
二〇〇五年十一月に新物流センター「アマゾン市川FC」を開業、○六年にe託販売サービスを開始するころには売上を急速に伸ばしていた。e託販売サービスは個人や小規模出版社の書籍を直取引で委託販売する事業である。
アマゾンは「地球上で最も豊富な品揃え」と「地球上で最もお客様を大切にする企業であること」という二つの企業理念を唱えている。アマゾンが躍進した理由はさまざまあるが、この理念に沿っていえば、本ではロングテールといわれるあまり売れない専門書など多品種の在庫をかかえ、顧客に喜ばれる豊富な品揃えを実現したことにある。ネット書店はリアル書店に比べればスベースの限界はさはどない。そして、注文された商品を迅速に読者に届けるという、基本的なサービスにあった。
アマゾンの躍進の影響は、まず大学生協を襲い、書店とりわけ大型書店に波及し、そして取次店を襲った。
大学生協は、学生の消費生活協同組合という性格から、他の協同組合、共済組合などと同様に独占禁止法二十三条5にもとづき独禁法の適用除外となっていて、出版社などの再販事業者の再販価格指示に従う必要がない。大学生協は値引き販売がおおっぴらにでき、このため大学近隣の書店が相当数廃業した。
しかしアマゾンが上陸すると、ロングテールや洋書などの特徴から、大学の研究者が研究室からネット注文するスタイルが浸透し、大学生協の書籍販売を脅かしていき、「Amazon Student」の出現で決定的となった。大学生協の書籍売上は、二〇〇二年当時、約五〇〇億円(大学生協の売上構成比二五%)であったのが、○三年ごろから下降しはじめ、○三年四一八億円(同二〇・七%)、一六年には三三一億円(同一八%)まで減少した。書店事業から撤退する大学生協もでてきた。大学生協を訪れても学生・教職員がほとんどいない売場もめずらしくない。
アマゾンは二〇一〇年十一月から、全商品の通常配送料を完全無料にした。受注販売で返品ロスも少ないので、出版社、取次店からも歓迎された。ネット販売の普及と共に急速に売上を仲ばし、無視し得ない存在となっていた。
二〇二一年のアマゾンの日本における売上高は、前期比一八・六%増の七八億ドル、一三年売上高は前期比二・一減の七六億三九〇〇万ドルだった。
ここからはデータが公表されていないので推測となるが、雑誌を除く書籍の売上の割合が二割から二五%といわれるので、当時のレートが一ドル=一〇〇円なので、二〇一三年の書籍売上は一五二七億円から一九〇九億円の範囲ということになる。『週刊東洋経済』二〇一二年十二月一日号によると、一一年のアマゾンの日本における本の売上を一九二〇億円(同誌二〇一七年六月二十四日号「アマゾン膨張」では一五〇〇億円としている)と推計しているので、書店売上第一位となる。
こうした動きがあった二〇一一年現在の小売書店の売上順位は次のとおりである。
 一位 アマゾン 一九二〇億円(二〇一一年『週刊東洋経済』推計による書籍雑誌売上推計)二位 DNPグループ 一五六九億円(内訳/丸善CHIHDのジュンク堂書店五一一億円=書店売上五位、丸善書店二八一億円=一二位、図書館流通センター四二二億円、DNP連結子会社の文教堂三五五億円=一〇位)
 三位 紀伊國屋書店 一〇九八億円
 四位 TSUTAYABOOKS 一〇四七億円(「TSUTAYA」「蔦屋書店」)
 五位 ブックオフ 七五七億円
小売書籍売上の二〇%以上、書籍雑誌全体の売上のI〇%以上をアマゾンが売り上げていることになる。
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エミー・ネーター 1882-1935 数学者・ドイツ人

『世界と科学を変えた52人の女性たち』より エミー・ネーター 1882-1935 数学者・ドイツ人
アルバート・アインシュタインは完全にお手上げだった。彼は一般相対性理論を研究していたが、対応しなければならない数学の問題に手を焼いていたのである。そこでアイン 2018/12/15 5:06 午後ュタインは相対性理論を公式化するために、ゲッティンゲン大学からダフィット・ヒルベルトとフェリックス・クライン率いる専門家チームを引っ張り込んだ。二人は数学的不変量への貢献できわめて高く評価されていた数学者だ。しかし彼らが遺したものはこれだけではない。ゲッティンゲン大学で、彼らは学者コミュニティを育んだ。このコミュニティのおかげで、ゲッティンゲン大学は世界で最も評判が高い数学教育機関の一つに成長することができたのである。二人は才能ある数学者をスカウトした。このアインシュタイン・プロジェクトにとって、エミー・ネーターは彼らのドラフト指名選手だった。
ネーターは着実に名声を積み上げてきた。それまでの八年間、彼女は給与も役職もなしにエルランゲン大学で働いていた。ゲッティンゲン大学に転職するまで、彼女は六本ほどの論文を発表し、海外で講義を行い、博士課程の学生に指導し、エルラングン大学の数学教授で健康が悪化していた父、マックス・ネーターの代講を務めている。
当時のネーターの専門は不変量、つまり回転や線対象移動といった変換をしても変わらない構成要素だった。一般相対性理論にとって、彼女の知識基盤は不可欠だった。ネーターはアインシュタインが必要とした連結方程式を生み出すのを手伝った。彼女の公式はエレガントで、その思考プロセスと想像力は研究に光をもたらした。アインシュタインはネーターの仕事を高く評価し、こう書いている。「ネーターは私の研究に絶えず助言をくれます。そして・・・私がこのテーマで傑出した存在になれたのも、本当に彼女のおかげなのです」
近しい同僚たちは、ただちにネーターは優秀な数学者で、常勤教職員になるべき特別な価値のある人だと認識した。しかしネーターは激しい反発に直面していた。ネーターを講師にしようと支援した人々の多くは、彼女は特例であり、一般に女性は大学で教えることを許されるべきではないとも信じていたのである。大学に認可を与えるプロイセンの宗務教育局は、「フランクフルト大学だろうがゲッティンゲン大学だろうが、どこであれ女性が講師になることは許されない」とネーターの任命を退けた。
政情の変化は、ついにアカデミアの女性を支配する堅苦しい規制を打ち破った。ドイツが第一次世界大戦で敗北すると、社会主義者が政権を奪取し、女性に選挙権を与えた。ネーターを教職員にしようとする内々の動きはまだ続いており、アインシュタインは彼女を推奨することを申し出た。「ネーターから新しい研究報告を受け取って、改めて彼女が公式に講義できないことは甚だしく不公正なことだと実感しました」と彼は手紙で書いている。ネーターが教えていたにも関わらず、書類の上では彼女の講義はダフィット・ヒルベルトのものになっていた。ようやくネーターは大学で正式の役職に就くことを許されたが、その肩書は小説のタイトルのようだった。「非公式特別教授」であるエミー ・ネーターは無給だった。同僚たちは肩書についてこんなジョークを言った。「特別教授」は普通のことを何も知らないし、「普通教授」は特別なことを何も知らない、と。ネーターはようやく給料をもらえるようになっても、ゲッティンゲン大学職員の中で最も薄給だった。
有給であれ無給であれ、ゲッティンゲン大学でネーターは成功した。現代では「ネーターの定理」と呼ばれる研究が、いかに物理学に深い影響を与えたかは、『ニューヨーク・タイムズ』紙に引用された物理学者の言葉に示されている。「彼女の定理は、現代物理学のすべてを支える背骨であると強く主張してもよいくらいだ」。そしてネーターは数学においても進展をもたらした。彼女は抽象代数の創始者である。一九二一年に発表された論文「環のイデアル論」には、数、公式、具体例が一切ない。それらの代わりに、ネーターは概念を比較した。科学ライターのシャロン・バーチュ・マグレインはこれについて「建物の特徴、たとえば高さ、強度、有用性、サイズを、建物そのものに言及することなく描写し、比較するようなもの」と説明している。ネーターはズームアウトして全体を見ることで、時間とエネルギー保存といったこれまで科学者や数学者たちが無関係だと思っていた概念同士の関連性を見出したのである。
ネーターは数学についての議論で興奮するあまり、昼食時に食べ物をこぼそうが、おだんごヘアから一房の髪が飛び出そうが、一瞬たりとも話すスピードをゆるめることはなかった。ネーターは大声で熱を込めて話し、アインシュタイン同様、服装を気にするのはそれが快適さに関わる場合のみだった。アインシュタインはウールが流行しているときでも、グレーのコットントレーナーを愛用していた。ネーターはゆったりしたロングワンピースを着て、ショートカットが流行する前に髪をショートにした。アインシュタインであれば、このようなふるまいは心ここにあらずな天才にありかちな癖だと受け流される。ネーターの場合、ダブルスタンダードがあった。彼女の体重や容姿は、陰で絶えずからかいや雑談の格好の題材になった。肩書、賃金、政治がささいな悩みの種でしかなかったようにネーターはこうした論評を気にかけることはなかった。学生たちは特に情熱的な講義の休憩中に、ゆるんだヘアピンを交換しようとしたり、ブラウスをまっすぐに整えようとしたりしたが、ネーターはそんな学生たちを追い払った。ヘアスタイルや衣服が変化しようとも、ネーターにとって、数学は不変なのである。
ネーターのようにめまぐるしく働く頭脳を持っていると、本人ですら自分自身の考えに追いつくことは難しかった。講義中にアイデアが降臨すると、黒板いっぱいに書き込んでは消し、また書き込んでは消しを繰り返した。新しいアイデアに行き詰ったとき、ネーターがチョークを床に投げつけて踏みつけたために粉が彼女の周りに舞い上がり、爆破の粉塵のように見えたことを学生たちは覚えている。ネーターはやすやすと、その問題を従来の方法でやり直すことができた。
ネーターはアイデアを気前よく人々に分け与えたので、彼女の知性に刺激されて数多くの重要な論文が発表された。彼女の署名こそなかったが、それらは彼女の恩恵である。実際に、教科書『現代代数学』第二版のほとんどの部分に、ネーターの影響を見ることができる。
ドイツの政治情勢が再び彼女のキャリアに影響をもたらした。ネーターは二〇世紀最大の数学的知性の一人としての業績を確立したが、ナチスは左翼に傾倒していること、ユダヤの血をひいていることのみで彼女を判断した。一九三三年五月、ネーターはゲッティンゲン大学でまっさきに解雇されたユダヤ系教授の一人になった。ネーターはあからさまな差別に直面してもなお、おそらくは素朴に、何よりも数学を優先した。ネーターは大学で教えられなくなっても、違法と知りつつ質素なアパートの自室で学生たちを教えた。アパートで教えを受けた学生の中には、軍服に身を包んだナチスの軍人もいた。ネーターは起きていることに賛同していたわけではなかったが、ひたむきな学生のためにそうした感情を払いのけた。「彼女の心に恨みの感情はなかった」(こと同僚の友人は思い返す。「彼女は邪悪なるものの存在を信じなかった--男たちと違い、邪悪なるものは決して彼女の心に入り込まなかった」。
ネーターの寛大さゆえに、友人たちは全面的に彼女のために尽力した。彼女がドイツにとどまり続ければ深刻な危険にさらされることになるとわかると、友人たちは一九三三年に、ネーターが米国のブリンマー・カレッジで職を得られるように手配した。それは名のある教育機関に落ち着くまでの一時的な仕事のはずだった。しかし米国に到着してからわずか二年後、ネーターは卵巣嚢胞の手術からの回復中に帰らぬ人となった。五三歳だった。ネーターの死後、アインシュタインは『ニューヨークータイムズ』紙に手紙を寄せた。「ネーターは、女子高等教育が始まってから生み出されてきた才人の中でも、最も大きな影響を与え、創造性に富んだ数学的天才でした」。現代の科学者の中には、他者の著作の署名とタイトルの下に隠れたネーターの貢献は、頌歌の作者にも勝ると信じる者も少なくない。
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ヘッド320のキーワード

ヘッド320のキーワード
 地域 12
  地域が自立 9.8.1.
  地域が変わる 4.7.1.
  地域で対応 9.2.2.
  地域と国家 4.8.3.
  地域と超国家 4.8.2.
  地域にあう図書館 6.4.3.
  地域に拡げる 6.5.2.
  地域の課題 8.3.4.
  地域をまとめる 5.7.3.
  地域をまとめる 6.5.4.
  地域を定義 3.7.1.
  地域を定義 8.3.1.
  地域支配 4.2.1.
 個 10
  個=超の平等 2.8.4.
  個=超の変革 2.8.2.
  個から変革 3.5.4.
  個と全体の数学 7.8.1.
  個にヘッドを設定 10.1.4.
  個に全体を含む 10.5.4.
  個の力 4.6.4.
  個人に目的あり 5.2.1.
  個人の意識 10.3.4.
  個-全体-超 2.6.4.
 国 8
  国は対応できない 9.2.1.
  国を超える 9.3.1.
  国家と国民 4.2.3.
  国家の方向 4.7.3.
  国家意識 4.3.1.
  国家連合への道 9.3.4.
  国民の状態 4.2.4.
  国民国家の論理 4.1.4.
 市民 8
  市民が主体 9.7.1.
  市民が主役 3.4.3.
  市民が主役 9.2.3.
  市民との関係 3.3.2.
  市民と国家 4.8.1.
  市民と超国家 4.8.4.
  市民は動かない 3.2.2.
  市民へ働き掛ける 5.7.2.
 私 7
  私のためにある 5.1.1.
  私のための本 6.1.1.
  私の世界 10.7.1.
  私は私の世界 1.4.2.
  私は私の世界 7.2.3.
  私は諦めない 1.3.4.
  私は予言する 1.8.3.
 他者 9
  他者がいる 10.1.1.
  他者との境界 1.4.3.
  他者との接点 1.5.1.
  他者と接する 9.5.2.
  他者に干渉 1.7.1.
  他者の考え 6.3.3.
  他者はいない 7.4.2.
  他者は外 7.7.3.
  他者を取り込む 1.4.4.
 宇宙 6
  宇宙に展開 10.7.2.
  宇宙に飛び出す 10.6.2.
  宇宙に戻る 1.7.4.
  宇宙の旅人 1.3.2.
  宇宙の旅人 10.8.2.
  宇宙の歴史 10.4.4.
 歴史 6
  歴史の<今> 10.4.3.
  歴史の意思の力 10.4.1.
  歴史の解釈 10.4.2.
  歴史の分岐点 7.8.3.
  歴史の目的 4.4.1.
  歴史哲学 10.2.2.
 全て 5
  全てとは 1.8.1.
  全てを求めて 7.7.2.
  全てを残す 6.7.4.
  全てを知りたい 10.7.3.
  全てを知る 6.8.2.
 組織 5
  組織から抜け出す 8.4.1.
  組織が変わる 4.7.2.
  組織に干渉 1.7.2.
  組織の時代 4.6.2.
  組織の終焉 4.3.4.
 存在 5
  存在と無 1.1.1.
  存在の無 10.8.3.
  存在の無 2.8.1.
  存在の無 7.8.4.
  存在は無 10.3.1.
 知 5
  知ってどうする 10.7.4.
  知で武装する 6.6.3.
  知の世界 9.8.4.
  知るとは 1.8.2.
  知をまとめる 1.7.3.
 クルマ 4
  クルマで実験 5.8.3.
  クルマを使う 8.2.3.
  クルマ社会 5.7.4.
  クルマ社会 8.8.4.
 循環 4
  循環 2.3.2.
  循環 9.4.2.
  循環エネルギー 5.3.4.
  循環させる 9.1.3.
 図書館 4
  図書館がある 6.1.3.
  図書館を支える 6.1.4.
  図書館を守る 6.4.4.
  図書館を配置する 6.5.1.
 中間 4
  中間から発信 8.1.2.
  中間の存在 3.6.1.
  中間の役割 8.1.1.
  中間を見つける 2.7.1.
 部分 4
  部分から全体 2.4.3.
  部分で行動 5.3.2.
  部分と全体 2.2.3.
  部分は全体を含む 2.4.4.
 平等 4
  平等という課題 9.1.1.
  平等な空間 2.6.1.
  平等の意識 3.8.4.
  平等を求める 4.5.2.
 未唯空間 4
  未唯空間 7.6.1.
  未唯空間から拡張 10.5.3.
  未唯空間をつくる 10.5.2.
  未唯空間をつくる 2.5.1.
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