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未唯への手紙

未唯への手紙

ソ連・フィンランド戦争

2015年12月15日 | 4.歴史
『第二次世界大戦外交史』より ⇒ 第二次世界大戦についての私の興味は、二つの国での戦いです。一つはフィンランド。ロシアとの戦いとドイツの介入に際してのシスの精神。もう一つはギリシャ。イタリアには反撃できたが、ドイツには圧倒された。その時でも内戦に明け暮れた。その二つが、ナチの第六軍とスターンの大祖国戦争に及ぼした影響。そして、ロマンあふれるラップランド戦争。

フィンランドは小国であるが、国民の気力は偉大である。彼らは中世の民族大移動の際、ウラルアルタイ族の先陣をうけたまわってウラルを越え、北の方フィンランドに定着した種族の子孫である。その後スウェーデンの盛時にその座下に入り、北欧の文化を吸収してキリスト教徒となった。従って人種、言語、宗教、文化の上から見て、ギリシャ正教をたずさえて北ロシアに進出したスラヴ人とは全く異なった系列に立つ隣組である。

一九三九年十月五日、フィンランド政府は、至急その代表者をモスコウに派遣するようにとの要請をうけた。いよいよフィンランドの番が来たのである。

ドイツの思いがけない電撃によらてポーランドが壊滅し、ソ連の西方国境はバルチック海から黒海に達する地域にわたって著しく拡大強化された。エストニア、ラトヴィア、リトゥアニアの三国も吸収され、整理中である。次はフィンランド国境において、軍事上有利な線を確保しようとソ連がフィンランドに強圧を加える順序となったのである。

といってもソ連はフィンランドそのものの力を怖れるのではない。しかし近い過去において、ソ連に敵対する強国は、常にフィンランドを作戦の基地として利用した。第一次世界大戦に際して、バルチック海はドイツとの戦争に重大な役割を演じたし、共産革命の初期には、イギリスが北方アルハンゲリスクに兵を上陸させて、それから鉄道によりレーニングラードヘ下る計画をたてた。その後タイムズが書いたように(一九一九年四月十七日)、フィンランドはペトログラードヘの鍵であり、ペトログラードはモスコウヘの鍵たる地位にいるのである。一九二五年にポーランドがバルチック諸国と同盟を結ぶような風評も流れていたし、一九三六年にはナチス・ドイツとフィンランドとの間にソヴィエトに対抗する了解が成立したとも報ぜられた。この時にはフィンランドがドイツとの不可侵条約を拒否したが、同時にソ連から申し出た領土保全の保障も受けいれなかった。これらの背景がついに今回の強圧となって現われたものである。

フィンランド政府は当初からソヅィエトの意図を知っていた。それは正式の交渉が開かれる前に、リトヴィノフ(外務次官)やミコヤン(貿易相)から非公式に話が持ち出されていたからである。フィンランドとしてはソ連の要求が国の安全に関する重大問題であるから、島嶼に関するもの以外は到底受諾し得ないとして、モスコウ交渉の最中に、軍隊を動員し、国境都市から住民を後退させ、万一に備えていた。

十月十一日、モスコウに行って、ソ連の要求文書をうけとる任に当ったのはパーシキヴィと呼ぶ練達の政治家であって、さきに一九二一年にソ連と平和条約の調印を行った経歴の持主であった。

ソ連はもっぱら軍事上の見地からフィンランドに対して次のような要求をつきつけた。

 一、レーニングラードの北方にあるカレリア地峡において領土を割譲すること。これはレーニングラード市とラドガ湖とをつなぐ国境線を三、四十マイル北西方に後退させて、フィンランドの築いたマンネルハイム線を取り除き、相手の長距離砲からレーニングラードを安全にするためである

 二、フィンランド湾にある島嶼の譲渡

 三、フィンランド唯一の不凍港ペツァモ(北氷洋に面す)とその一帯のルイパチ半島の租借

 四、フィンランド湾口を挺するハング港をソ連の海空軍基地として租借権を認めること

以上の要求の中二、四はフィンランド湾を制圧するための手段として要求したものである。これに対しフィンランドは(ング港の重要性に顧み、これをソヴィエトに引渡すことを峻拒した。そして十一月十三日ついに交渉は決裂し、十一月三十日にソ連は国境線の八カ所に攻撃を加えて来た。

フィンランドは独ソ協定によって、フィンランドがソ連の勢力圏と決定されたことを知らないでいたから、ドイツの支持をひそかに期待していた。英仏等が久しきにわたってフィンランドに友好的態度を示したことから、西欧陣営に対しても多少の望みをつないでいたが、しかし、いずれも効果的な援助をうける見込みはなかった。

フィンランド国民はカレリア半島をもって、そのテルモピレーなりと信じていたから、マンネルハイム線を死守する覚悟をきめて戦いに臨んだ。

フィンランド軍は総司令官マンネルハイムの指揮の下に勇敢に戦った。ソ連は兵力量においてフィンランド軍より優勢であったけれども、訓練と素質においてははるかに劣っていたから、一ヵ月余にわたる攻撃をもってしてもマンネルハイム線を突破することができなかった。

この予想外の戦闘は全世界を沸かし、フィンランドに対する同情が高まると同時に、ソ連の実力に対する誤った推算も行われた。

フィンランドの難局に対し国をあげて共感をもったものは、いうまでもなく、古くから因縁の深いスウェーデンであり、またこれと盟邦の契をもつノルウェー、デンマークであった。十月十八日これら三国の国王は、フィンランドの大統領を迎えて対ソ策を協議し、スウェーデンは率先してフィンランド援助を行う旨を声明した。スウェーデンの編成した義勇軍は、十二月二十九日に、その先遣部隊一千名をフィンランド国境に送った。越えて一月リンダー将軍が義勇軍の指揮官として出発し、空軍の一部隊もフィンランド戦線に活躍を始めた。これに対してソヴィエトは、スウェーデン、ノルウェー両国に強硬な抗議を行い、スカンヂナヴィア諸国とソ連との関係はきわめて微妙な動きを示した。

ソ連・フィンランド戦争に対する英仏両国の態度はきわめて微妙なものがあった。弱小国フィンランドに対するソヴィエトの強圧に対し世論が挙げてフィンランドに同情を表したことは人情の自然である。ことにドイツと結託してポーランドを分割したモスコウ政府の手口、沿バルト三国を併呑した事実等がソヴィエトに対する反感をいやが上にもそそったため、フィンランドに援軍を送れとの運動が次第に強くなった。

しかし英仏としてはやがては西部戦場において本格的の攻防戦が展開され、それが最終的に勝敗を決する要因であることを考慮すれば、一発の砲弾といえども他にさし向ける余裕のある筈はない。イギリス政府は、それ故、極カフィンランド救援の運動を抑える方針をとり、義勇兵の募集事務所がロンドンに開かれても、わずか数十台の飛行機が現地に発送される程度にすぎなかった。

フランスにおいては、民論の圧力により政府も援軍をフィンランドに派遣する方針をとらざるを得なかった。そうなればイギリスもまたなんらかの手段をとらざるを得ないのであるが、問題はその援軍をスウェーデンまたはノルウェーを通過させることの可能性である。スウェーデンは物資や義勇兵がフィンランドに入ることは黙認してきたけれども、英仏の軍隊を通過させることは、永年の中立政策を逸脱するものとして、絶対にこれを承認しなかった。

アメリカの世論は一斉にソ連の行動を非難し、国会においても上院外交委員長ピットマンをはじめ多数の議員が米ソ関係の断絶を叫ぶようになった。

ソ連は翌一九四〇年の二月をもってフィンランド正面に重兵器を集め、十日間にわたる大砲撃を続けたのちにヴイボルグの要塞に優勢な地上攻撃を加えた。二月末になってマンネルハイム線が突破され、フィンランド軍は弾薬の欠乏と部隊の疲労とによって、これ以上の抵抗には堪えがたい状態に陥った。マンネルハイムは三月九日に至って和議を求める意向に傾きスウェーデン首相ハンソンも切々フィンランドに停戦を勧告し、ソ連が考えている平和条件についてもフィンランドに通告することを怠らなかった。よってフィンランドはやむなくモスコウに休戦を提議したけれども、この申入れはにべもなく拒否された。そこでフィンランド首相リチーは飛行機を駆って自らモスコウに乗り込み、和平の交渉を懇請し、三月十二日にソ連のいうとおりの条件に従ってついに平和条約に調印することとなった。これによって、カレリア半島の国境は、西北方へ七十マイル後退(住民五十万は移住)し、重要都市ヴイボルグまで割譲することになった。

フィンランド大統領キヨスチ・カリオは条約に署名した刹那に「これに調印を余儀なくされた私の手よ、永えに萎えよ」と悲痛な言葉を吐いた。

ソ連とフィンランドの戦争が始まると、ソヴィエトは多年モスコウのコミンテルンで働いていたフィンランド人クーシネンを押立ててフィンランド政府と称するものを組織したが、もとよりフィンランドの国民に対して何の威力をも振い得るわけはなかった。そして戦闘の休止とともにはかなく姿を消してしまった。

一方、一九三九年十二月十四日、ジュネーヴの国際連盟はソヴィエトを侵略国であると決定し、広く世界に対してフィンランドに援助を与えることを訴えた。そしてソ連は連盟の理事会を脱退することとなった。これは国際連盟が大国に対して重い刑罰を試みた一つの例であったが、その効果は何人も予想したとおり名義上のもので実質的でありえなかった。

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