スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ちぎり賞争奪戦&必要なこと

2023-01-29 19:06:08 | 競輪
 豊橋記念の決勝。並びは坂井‐久木原の関東,山口‐小堺の中部,脇本‐古性の近畿,片岡‐岩津‐池田の中四国。
 かなりの牽制になった後,古性が誘導を追って脇本の前受け。3番手に坂井,5番手に片岡,8番手に山口で周回。この隊列のままだれも動かずに残り2周のホームを通過。山口が内を上がって片岡の位置を取りにいこうとし,これは取れなかったのですが池田が連結を外したので,6番手以降は山口‐小堺‐池田の順に変化。打鐘を迎えてもまだスローペースで,脇本の成り行き先行のようなレースになりました。古性が少しだけ車間を開けて待ち構えましたが,捲ってくる選手はなし。直線から踏み込んだ古性が脇本の横まではいきましたが差すには至らず。逃げ切った脇本が優勝。マークの古性が8分の1車輪差の2着で近畿のワンツー。先に踏んだ坂井が古性の外から1車輪差の3着まで迫りました。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の和歌山記念から連続の完全優勝。連勝を11として記念競輪12勝目。GⅢは13勝目。豊橋記念は2010年以来となる12年ぶりの2勝目。このレースは脇本の脚力が上位なので,これほど楽な先行になってしまえば後ろの自力タイプは手も足も出なくなるのが必然で,古性との直線勝負です。古性も牽制の意味もあったでしょうが,自分が踏み出しやすいくらいの車間を開けていましたので,その差し脚を封じた脇本が強かったといえるでしょう。牽制の末に脇本に前を取らせたほかの選手たちには何か意図があったと思うのですが,このような単調なレース人ってしまうとそれが何であったのかも分かりにくいです。脇本にとっても古性にとっても拍子抜けのようなレースだったのではないでしょうか。

 第二部定理八系でいわれているDeusの無限な観念ideaを,無限知性intellectus infinitusと同一視することができるというのであれば,なぜそれらを同一視することができるのかということの根拠を明確に説明することができるのでなければなりません。一方,それらが同一視することができないという場合には,同一視することができないことの根拠を示すと同時に,ここでいわれている神の無限な観念が何を意味するのかも説明することができるのでなければいけません。
 僕自身は,かつてはこの神の無限な観念を,無限知性と同一視してよいと判断していました。しかし現在は,同一視することができないのではないかという見解opinioに傾いています。傾いているというのは,断定することができるというほどではない,いい換えればそう断定できるほどの根拠を持ち合わせているわけではないという意味であり,同時にしかしそれは同一視することができないという可能性がきわめて高いだろうとみているという意味でもあります。この点に関して詳しい論考を行っているものとしては,『スピノザーナ10号』に収録されている,柏葉武秀の「存在しないものの存在論」があります。この論考は無限知性と神の無限な観念は同一視することができないという立場からのものですが,このことを考える上では間違いなく参考になります。
 もうひとつはっきりとさせておかなければならない点は,第二部定理九系および第二部定理一二で,対象ideatumの中に起こるすべてのこと,といわれているとき,中に起こること,とは何であるのかということについて,はっきりとした見解を示すことです。僕にとってこの点のヒントとなったのは『堕天使の倫理』で,僕はそこで佐藤拓司がいっているように,Xの中に起こることというのは,Xの本性essentiaならびに形相formaに何らかの変化を齎すことというように解しています。そしてこの僕の解釈からは次のことが帰結します。
 無限知性は書簡六十四で明確にされているように,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。よってそれは第一部定理二一により永遠aeterunusです。つまり無限知性の本性ならびに形相は,永遠から永遠にわたって存在するのであって,変化が齎されることはありません。
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