スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大楠賞争奪戦&条件

2023-04-25 19:07:54 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐内藤の北日本,脇本に大川,伊藤‐山田‐橋本‐湊の西国。
 新山がスタートを取って前受け。4番手に伊藤,8番手に脇本で周回。残り2周のホームから伊藤が発進。そのまま新山を叩き,バックに入ると5番手に新山,8番手に脇本という隊列に変化。このまま打鐘。4番手の湊と5番手の新山,7番手の内藤と8番手の脇本との車間がそれぞれ開きました。ホームから新山が発進。バックで山田が番手から出ていきましたが,新山とマークの佐藤はそれを乗り越え,山田は3番手にスイッチする形に。8番手からの捲りになった脇本は直線の入口ではまだ山田の後ろの外でしたが,直線は外から差し切って完全優勝。新山が4分の3車身差の2着に粘り,佐藤が8分の1車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は豊橋記念を完全優勝して以来の優勝で記念競輪13勝目。武雄記念は初優勝。このレースは脇本は8番手になるでしょうから,新山が先行することがあるのかそれとも5番手からの捲りを狙うのかということが展開上の最大の焦点。前受けはいつもの戦法で,伊藤が来たときに無抵抗に引きましたので,出させて5番手からというのが当初からの作戦だったのでしょう。そこから捲って山田の番手捲りを乗り越え,なおかつ佐藤にも差されなかったのですから,作戦としては成功だったと思います。ただ脇本が強すぎたということでしょう。伊藤はすんなり出させてもらったのですから,もう少しペースに緩急をつけてもよかったのではないかという気がします。

 僕たちの現実的本性actualis essentiaが,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行することを希求し,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行することを忌避するのだとしても,それは僕たち自身に与えられた条件なり制約なりを超越することを希求し,またその条件なり制約なりに隷属することを忌避することを意味するのではないということを,國分は次のような例示で説明しています。
 ここにある人間が現実的に存在しているとして,この人間には2本の腕があってまた2本の脚があると仮定します。これは現実的に存在するすべての人間に妥当する例ではありませんが,あくまでも一例であると理解してください。この人間は2本の腕も2本の脚も動かすことができる,いい換えればこの人間の腕も脚も運動motusをなすのですが,単に2本の腕とか2本の脚とかいう場合には,それがどのような性能を有しているかということは無関係なのであって,腕が2本で脚が2本ということ以上の何かを意味することはできません。これがこの現実的に存在する人間にとっての条件に該当します。そしてこの条件は変化することがありません。つまりこの人間がより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することともより大なる完全性からより小なる完全性へと移行することとも関係ないのです。もちろんこの条件の下に,この人間が1本の腕を失うということが生じるとすれば,この人間は大なる完全性から小なる完全性へと移行したのだということが可能ですが,こうしたことは外部の物体corpusから働きを受けるpatiことによって生じるのであって,この人間をこの人間としてだけ見たなら与えられた条件であることは変わりません。いい換えればこの人間をこの人間としてだけみたなら,1本の腕を失うことを忌避するということはできませんし,もう1本の腕を希求するということもできないのです。前もっていっておいたように,この場合の腕とか脚というのは一例にすぎないのであって,この種の条件は現実的に存在する人間にはもっとたくさんあります。最も単純にいえば,人間の身体humanum corpusというのは現実的に存在するその人間にとっての所与の条件であるといってもいいでしょう。
コメント
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