スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

悪の確知&成功

2023-02-16 19:25:42 | 哲学
 第四部序言と第四部定義一でいわれていることについて,善の確知については僕がこのブログで確知するcerto scimusということの意味の通りに解釈してよいですし,むしろそのように解釈するのが適切であるといえます。一方,悪malumの確知についても,基本的にはこの路線で解釈して大丈夫です。というのも,第四部序言でも第四部定義二でも,善bonumの否定negatioというような形で規定されているのですから,善についての解釈がそのまま悪についても適用されるといわなければならないからです。とくに,善の妨げになるという点に着目するなら,なおのことそういえるかと思います。
                                    
 ただし,第四部定理八は,悲しみtristitiaの認識cognitioが悪であるといっていますので,こちらに注目する場合は注意が必要になります。とくに僕は,この定理Propositioを利用することによって,善の確知を僕が確知するという意味で解釈してよいとしていますので,この注意はとくに必要であるといえます。
 第三部定理五九から理解することができるように,能動的な喜びlaetitiaというのはあるのですが,能動的な悲しみというのはありません。いい換えれば,善の認識というのは能動actioではあり得るのですが,悪の認識というのは能動ではあり得ず,常に受動passioです。したがって,僕が善を確知するというときは,能動的である限りでは疑い得ないから確知するのであり,また受動的である限りでは単に疑わないというだけです。ところが,悪の認識は常に受動的な認識ということになるので,疑い得ないからそれが悪であると確知するというケースはありません。単に疑わないという意味でそれを確知するのです。喜びと同じように,ある人間が自分の悲しみを意識しているというときにはその人間は事実として悲しんでいるといわなければなりませんが,だからといってそれを悪と認識するとき,それが悪であることを疑い得ないという意味で確知するのではありません。単に疑わないというだけなのです。
 これは不自然に思われるかもしれませんので,なぜそのようなことが生じるのかを後に詳しく説明することにします。

 第一部定理一五は,あるものはすべて神のうちにあるQuicquid est, in Deo estといっています。また,第一部定理一八は,神は内在的原因causa immanensであって超越的原因causa transiensではないといっています。これらふたつは,スピノザの哲学が内在の哲学であることを根本から支える定理Propositioであるといえるでしょう。ただこれらの定理は,第一部定義六のように,神を絶対に無限absolute infinitumと定義さえしてしまえば,必然的にnecessario流出してくる,絶対に無限である神の本性essentiaから必然的に流出してくるような定理です。そしてスピノザが第一部定義六のように神を定義したのは,世間的には神は最高に完全summe perfectumとみなされていて,あるものが最高に完全であるためにはそのものの本性が絶対に無限でなければならないからでした。したがって,それが最高に完全な存在者であるという世間的な神の評価から,内在の哲学が導かれているのであって,これは世間的な神の見方を逆手に取ったものであるといえるのです。なぜならこれは,神に対して一切の超越性を否定するnegareような結論であるからです。
 近藤和敬が『〈内在の哲学〉へ』という著書を出版したように,これはこれで重要な要素です。とくにキリスト教神学との関連においては重要です。というのも,先述したようにこの考え方は,神が超越的であるということを否定する思想だからです。もちろんキリスト教においても,神が最高に完全であるということは否定されません。しかしもしもそれを否定しないのであれば,神が超越的であるということも肯定するaffirmareことはできないのだとスピノザは主張したのであって,スピノザの主張をこのような観点から把握する限り,確かにスピノザは世間的な神の評判を逆手に取ったのだし,また逆手に取ることに成功したのだとさえいえます。後に神学的な観点からスピノザを否定しようとしたヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが,スピノザの論理自体は完全であるから,それは超越論的な視点からしか否定することができないという主旨のことを認めたのは,まさにスピノザの論法が,神学的観点を重視しようとするヤコービに対して説得力をもっていたからであり,そのこと自体が,神は最高に完全であるということを逆手に取ったスピノザの成功であるといえることになるのです。
コメント
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