スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&スピノザの言及

2023-04-28 19:16:22 | 将棋
 26日に姫路ゆめさき川温泉で指された第34期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が23勝,伊藤沙恵女流四段が9勝。
 振駒で伊藤女流四段の先手。すぐに飛車先の歩を伸ばしていったので後手の里見女流王位はノーマル向飛車に。先手の銀冠と後手の高美濃という形から,先手が穴熊に組むところで後手から仕掛け,そこからは戦いになりました。
                                        
 先手が桂馬を取って飛車を成り込んだ局面。ここで後手は☖4五馬と桂馬を取ったのですが,この手は甘かったという感想が残っています。この局面はそこでいわれている☖7九銀のほかに☖6六桂と打つ手もたぶん有力で,そのどちらかであればまだどちらの勝ちかわからない局面が続いたものと思います。
 先手は☗6一龍と寄りました。これは6筋に龍の利きを通す手で,好手のように思えるのですが,実際は一旦は☗5六歩と打って,☖同馬か☖同飛かを選ばせた方がよかったようです。
 実戦は☗6一龍に対して☖6二歩と打ったので,☗6四桂で先手の勝ちになりました。敗着は☖6二歩で,☖5九飛成☗6九金☖5二銀のように進めれば,まだ難しかったようです。
 伊藤女流四段が先勝。第二局は来月16日に指される予定です。

 それでは最後にスピノザが現実的に存在する人間にとっての自由libertas,とくに能動的自由について言及している部分を再確認しておきましょう。それは第四部定理六六備考です。ここでは自由の人homo liberと奴隷が対置されていて,理性ratioに導かれる人間が自由の人といわれるのに対し,感情affectusおよび意見opinioに導かれる人間が奴隷といわれています。前者は人間の能動actioを意味するのに対し,後者は人間の受動passioを意味します。つまり,能動的であることそれ自体が自由であるとされているのです。また,第五部定理四二備考でスピノザが賢者と無知者を対比するとき,この対比は自由の人と奴隷の対比と同様です。そしてここでは賢者は多くのことをなし得るし,優秀であるといわれています。すなわち,自己の本性naturaの必然性necessitasに従って多くのことをなす人が自由の人であって,自由の人はその点で奴隷および無知者より優れているといわれているのです。
 しかしこれは再三にわたって注意していることですが,一方に自由の人がいて他方に奴隷がいるのではありません。同様に一方に賢者がいて他方に無知者がいるというわけでもありません。現実的に存在する同じ人間が,ときに自由の人となりまたときに奴隷となるのです。現実的に存在する人間は常に何らかの働きを受けているということは第四部定理四系でいわれている通りです。この意味では現実的に存在するすべての人間は奴隷でありまた無知者です。ただその人間が,自己の本性の必然性に従って,いい換えれば理性に従っている限りにおいて,自由の人でありまた賢者といわれるようになるのです。この点でも自由の人あるいは賢者にはある条件と制約があるということは明白であるといえるでしょう。その条件と制約の下において,僕たちは自由の人であることができるし賢者であることができるのです。もしも自分は常に自由の人であると思っている人がいたとしたら,その人は自分が働きを受けているということに気が付いていないだけであって,実際には自由の人ではありません。自由の人は,自身が条件と制約の下で自由であるということを知っている人のことをいうのです。
 自由についての考察はここまでにして次の考察に移ります。
コメント
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