スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大熊元司&第三部諸感情の定義二

2016-09-08 19:14:24 | NOAH
 悪役商会の中心選手は永源遥だったと思いますが,このチームを語る上で欠かせないもうひとりのレスラーに大熊元司がいます。
 馬場が日本プロレスを退社して全日本プロレスを旗揚げしたのは1972年10月。このとき,馬場についてきた日本人レスラーが4人いました。そのうちのひとりは佐藤昭雄で,大熊もこの4人のうちのひとりです。佐藤は当初から馬場にかわいがられていたことが明らかになっています。大熊にとってはこれといった資料がないのですが,馬場は試合後の食事のおりなどに大熊はヒレ酒を飲むことが多かったという主旨のことを語っています。これはおそらく馬場が大熊を連れて食事をする,というのはつまり御馳走するということでしょうが,そういう機会が多かったということだと推定できます。大熊が全日本プロレス旗揚げ時の所属メンバーになったのは,そういう理由からだったと思います。
 僕のプロレスキャリアが始まった頃はグレート・小鹿と組んでアジアタッグを争う中心チームのひとつでした。小鹿は後に全日本を辞めています。馬場は経営者として定期的に中堅レスラーをリストラしていたと僕は考えていますが,小鹿はその対象だったかもしれません。大熊は現役のまま1992年の暮れに急死してしまうのですが,最後まで悪役商会のメンバーとして仕事を与えられました。そのことに早い時期からの馬場との個人的関係が影響していた可能性はあったと思います。
 石川敬士と同様に,対抗戦時代には上の方の試合にも駆り出されました。ジャンボ・鶴田とか天龍源一郎といった選手と組む機会はかなり少なかった選手だったと思いますが,そのほとんどはこの時代の試合であったのではないでしょうか。でも僕は大熊が最も光り輝いていたのは,後ろの方で試合をすることが多かったその頃やアジアタッグの王者になっていた頃より,最後に悪役商会の一員として戦っていた時代であったと思っています。

 ジャレットCharles Jarrettがいっているように,現実的に存在する人間が自身の欲望cupiditasを認識しない限り,善bonumも悪malumも存在し得ないものと解する必要があります。欲望は人間の現実的本性actualis essentiaであり,第三部定理一二第三部定理一三から,人間の現実的本性は喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようになっているので,希求するものを善と認識するcognoscereというのは喜びを齎すものを善と認識するという意味と同じで,忌避するものを悪と認識するというのは悲しみを与えるものを悪と認識するというのと同じです。これが第三部定理九備考および第四部定理八でいわれている善と悪なのであり,スピノザの哲学における善と悪の基調をなすものでなければなりません。
                                     
 ただ,注意しなければいけないのは,現実的に存在する人間はある欲望を単独で認識するとは限らないということです。あるいは喜びや悲しみについても単独で認識するとは限らないということです。たとえば僕たちはAとBを同時に表象するimaginariということがあり得ます。このときAもBも僕たちが欲望するもの,いい換えれば僕たちに喜びを齎すものとして表象されたとしましょう。この場合,AもBも喜びを齎すという意味では同じですが,同じように喜びを齎すという意味では相違がある可能性が残ります。たとえばAもBも喜びを齎すけれども,Aによって齎される喜びはBによって齎される喜びより大きい場合があり得るでしょう。それがあり得るということは,実は喜びの定義Definitioである第三部諸感情の定義二から明らかなのです。もう一度,この定義を検証してみます。
 「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである」。
 一読して明らかなように,より大なる完全性perfectioが喜びなのではありません。ある完全性への移行transitioが喜びといわれるのです。したがってAによる移行の方がBによる移行よりも大なる移行であるとしたら,AはBよりもより大きな喜びを僕たちに齎すことになるでしょう。そして人間の現実的本性が喜びを希求し悲しみを忌避するようになっているということに注意するなら,僕たちはAもBも欲望しますが,Aに対する欲望はBに対する欲望より大きいということになるでしょう。
コメント
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