スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

香港国際競走&思考の習慣

2022-12-12 18:51:00 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で行われた昨日の香港国際競走には,14頭の日本馬が遠征。1頭が出走取消となり,4レースに13頭が出走しました。
 香港ヴァーズGⅠ芝2400m。
 ウインマリリンは発馬後は2番手の外。グローリーヴェイズは5番手。ウインマリリンは道中で徐々に位置取りを下げ,内のグローリーヴェイズの外で併走という形。向正面ではグローリーヴェイズの方が前になりました。グローリーヴェイズは内にいたのでそのまま内を回り,後方2番手まで下がっていたウインマリリンは大外へ。外を回ったウインマリリンはよく伸び,直線で先頭に立つとそのまま優勝。グローリーヴェイズは内目から伸びてウインマリリンからは1馬身4分の3差で3着。
                                   
 優勝したウインマリリンは昨年のオールカマー以来の勝利。重賞は4勝目で大レースは初勝利。父はスクリーンヒーロー
 日本馬による海外GⅠ制覇はドバイシーマクラシック以来。香港では昨年の香港カップ以来。香港ヴァーズは昨年からの連覇で5勝目。騎乗したオーストラリアのダミアン・レーン騎手はマイルチャンピオンシップ以来の日本馬に騎乗しての大レース8勝目。管理している手塚貴久調教師は昨年のオークス以来の大レース10勝目。海外重賞は初勝利。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。
 メイケイエールは道中で外を進出して3番手。レシステンシアは内の5番手。ナランフレグは9番手の内。ジャンダルムは11番手からのレース。このレースは直線で4頭とも目立った脚がなく,最も前にいたメイケイエールが勝ち馬から1馬身半差の5着。ナランフレグが4馬身差で10着。ジャンダルムが5馬身差で12着。レシステンシアは一杯になって6馬身4分の1差の13着。
 香港マイルGⅠ芝1600m。
 シュネルマイスターもダノンスコーピオンも発馬が悪く1馬身の不利。シュネルマイスターは巻き返して6番手の内。ダノンスコーピオンは最後尾の内を追走。2頭とも3コーナーを回ると前から離され始めました。ダノンスコーピオンが勝ち馬から8馬身半差の6着。シュネルマイスターは勝ち馬から14馬身4分の1差で最下位となる9着。
 香港カップGⅠ芝2000m。
 パンサラッサは押して1コーナーでは先頭に。レイパパレが4番手の内。ジャックドールが5番手の内。ジオグリフが7番手でダノンザキッドが8番手の外。このレースは勝ち馬が圧倒する結果。馬群を割って伸びたダノンザキッドが4馬身半差で2着。ジオグリフが6馬身4分の3差で6着。ジャックドールが7馬身4分の1差で7着。レイパパレは9馬身4分の3差で9着。一杯になったパンサラッサは14馬身4分の1差で10着。

 現代社会を支える形而上学がデカルトRené Descartesの思想に基づいたものであるのは必然です。ですからスピノザの形而上学に支えられる現代は,あり得たかもしれないもうひとつの現代ではなく,あり得なかった,あることができなかった現代であると,スピノザの哲学に基づく限りではいわなければなりません。現代社会を支えている形而上学がデカルトの形而上学である必然性necessitas,すなわちそういった現代社会が出現した原因causaについては,これであるというように特定することはできませんが,僕が前に説明した,社会societasを支える形而上学は,その社会で生じる出来事について,過不足なく簡潔に説明することができるのであれば,真理veritasではなくても構わないというようなことは,原因のひとつを構成しているといえるでしょう。
 ですから『はじめてのスピノザ』で,スピノザの形而上学が,あり得たかもしれないもうひとつの現代というように紹介されているのは,それ自体がデカルトの形而上学に基づくような発想です。この説明は多くの人に自然なものと受け止められると僕は推測しますが,それは僕たちがデカルトの形而上学の下で考えるということを習慣にしていて,確かにデカルトの哲学に基づけば,過去のある時点において人間は未来を変更することができるということになっているからです。最も単純にいうと,人間があるときにAをなしたとすると,スピノザの哲学ではその人間は必然的にnecessarioAをなしたということになり,したがってAをなさなかったりA以外のことたとえばBをなすということは不可能であったということになりますが,デカルトの哲学に基づけば,その人間は自由意志voluntas liberaによってAをなしたので,AをなさないこともできたしA以外のBをなすこともできたというように解されるのです。こうしたことの積み重ねによって,デカルトの哲学では現在の社会は現にあるのとは異なった社会であり得たということになり,僕たちはそうした形而上学の下で考えることを習慣としていますから,現にあるのとは異なった,スピノザの思想によって支えられる現代もあり得たというような言明を自然に感じるのです。いい換えればそこに虚偽falsitasがあるとは気づきにくいのです。
コメント
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