スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理六六備考&オカルトと誤謬

2021-12-10 19:35:25 | 哲学
 人間的自由とは何かを考えるにあたっては,自由のヒントを考慮する必要があります。そしてそれによれば,人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなすなら,そのことについては人間的自由の範疇に含めるべきだという結論になるでしょう。つまり,第一部定義七の意味で自由libertasを解するなら,人間に自由はない,あるいは人間は自由ではないということになるのですが,だからといって人間について自由を語ることができないといえばそういうわけではないということです。
                                   
 人間が十全な原因となってあることをなすということのうち,代表的なものは人間が理性ratioによって何事かを認識するcognoscereということです。これは,理性による認識cognitioが,人間の精神mens humanaが十全な原因として何事かを認識するという思惟作用であるということから明白でしょう。よって,もし人間について自由という概念notioを導入しようとするのであれば,まずは理性的な認識を第一のものと理解しなければなりません。
 スピノザがそのように考えているということは,第四部定理六六備考から明らかにすることができます。この備考Scholiumでは感情affectusないしは意見opinioに導かれる人間と理性に導かれる人間の相違が主題となっているのですが,前者は自分のなすところを無知でやっているとされた上で,後者については次のようにいわれています。
 「自己以外の何びとにも従わず,また人生において最も重大であると認識する事柄,そしてそのため自己の最も欲する事柄,のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷,後者を自由人と名づける」。
 スピノザが自由の人homo liberについて,それがどんな人かを語っているのがこの部分です。つまりスピノザは理性に導かれる人間のことを自由の人といっているのであり,よって人間について自由という概念を用いるのなら,理性に導かれる人間のことを自由というべきであるということになるのです。

 これはオカルトの発生と関係するわけではありませんが,哲学的な観点からは次のこともいっておきます。僕はスピノザの哲学では虚偽と誤謬を厳密に分けて解するべきだと考えていますが,この部分はそれと大いに関連しているからです。
 僕が虚偽falsitasというとき,それは混乱した観念idea inadaequataを意味します。そして僕が誤謬errorというとき,それは虚偽が虚偽であることを認識していないということを意味します。他面からいえば,虚偽であるものを真理veritasであると思い込むことをいいます。そこでこれをオカルトに当て嵌めれば,オカルトはそれ自体では虚偽であるといわなければなりません。すなわち,オカルトに依拠して打つプレイヤーの精神mensのうちには,何らかの虚偽が含まれていることになります。しかし,だからといってそのプレイヤーが誤謬を犯しているということにはなりません。なぜなら,そのプレイヤーが自分はオカルトに依拠して打っているということを知っているなら,それは虚偽であるものを虚偽であると認識しているというのと同じことなので,そのプレイヤーは虚偽に依拠して打っているけれど誤謬は犯していないということになるからです。すでに示したように,あるプレイヤーの精神のうちにデジタルな打ち方に関する認識cognitio,これは虚偽に対していえば真理ということになりますが,そうした真理が認識されているにしても,それと同じことについての虚偽が発生することは妨げられないのです。したがって,オカルトに依拠して打つプレイヤーが,デジタルな打ち方を認識した上で,オカルト要素を上乗せした打ち方を認識し,後者に依拠して打つということは現にあり得るわけで,とくにこの場合は真理と虚偽とがあるときに虚偽に依拠して打っているということになるのですから,それが虚偽であるという認識が確かにあるといわなければなりません。第二部定理四三から分かるように,デジタルな認識があればそれがデジタルな認識であるということを同時に理解するのであり,第二部定理四二により,同時にオカルトをオカルトと理解することになるからです。
 つまり,オカルトに依拠するプレイヤーが,誤謬を犯していると断定することはできません。
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