スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&固有の視点

2023-04-24 19:13:42 | 将棋
 名古屋で指された昨日の第8期叡王戦五番勝負第二局。
 菅井竜也八段の先手でノーマル三間飛車からの振飛車穴熊。後手の藤井聡太叡王も居飛車穴熊に組んでの相穴熊戦になりました。この将棋は序盤から中盤の先手の指し手が冴えわたりました。
                                        
 差し当って7四の歩を守らなければならない局面。☗6八角と引きました。5九ではなく6八に引くのは狙いがあったからです。
 後手は☖5五歩☗6七銀と引かせておいて☖7二飛と寄りました。これは☗7四歩からの歩の交換を受けるための一手。ここで先手は☗9六歩と突いたのですが,これも狙いを持った一着でした。
 後手は☖4三金と上がりました。固めるなら☖4二金寄もありますが,それだとすぐに4二に角を引くことができなくなってしまいます。ただ,疑問手という類の手ではなかったのですが,この後の展開からするとここでは別の手を選択しておいた方がよかったのかもしれません。
 ここで☗7九角と引いたのが,角を6八に引き,9筋の歩を突いておいた効果です。
                                        
 第2図となって形勢に差がついたというわけではありません。ただこの局面は後手が互角を維持していくのは大変な局面で,そのために一方的に時間を使わざるを得なくなりました。戦型に対する経験による理解度の差が顕著に出た一局だったように思います。
 菅井八段が勝って1勝1敗。第三局は来月6日に指される予定です。

 第三部定理七が自由論の起点となるというのは,意外に思えるかもしれません。あるいはこれは國分に固有の視点といえるかもしれません。ですが自由libertasについて考えるために,確かにこのことは踏まえておかなければならないのです。
 第三部定理七がいっているのは,コナトゥスconatusが個物res singularisの現実的本性actualis essentiaであるということです。この現実的本性は,力potentiaとしてみることができます。したがって,自己の有esseに固執するperseverareというのは,自己の力をより小なる状態からより大なる状態へと移行させるように希求すること,あるいは逆に,自己の力がより大なる状態からより小なる状態に移行するのを忌避することというのを含みます。このことは主には感情論と関係するのであって,このために僕たちは喜びlaetitiaを希求し悲しみtristitiaを忌避するようになっています。そしてこのことからこれは善悪論とも関係するのであって,僕たちは僕たちが希求するもののことを善bonumと認識し,僕たちが忌避するものを悪malumと認識するcognoscereようになるのです。
 このことが自由論と関係してくるのは,この力の移行transitioに関連する部分です。僕たちはより小なる力からより大なる力へと移行すること,実際にはこの力は実在性realitasを意味し,実在性は完全性perfectioと同じ意味ですから,より小なる完全性からより大なる完全性へと移行することを希求するのですが,この力の移行というのは,僕たちに与えられている条件なり制約なりを超越するということを意味するのではありません。これは自由論の起点のひとつめと関連しているのであって,現実的に存在する人間にまったく制約がないという状態はあり得ないので,もしも単に制約がないということが自由を意味するのであるとすれば,人間は自由ではないという結論しか出てきません。するとこのことから,自由であるとは与えられた制約なり条件なりを超越することを意味するように思われるかもしれないのですが,そういうわけではないのです。より小なる力を有する状態からより大なる力を有する状態へと移行することを希求するのは僕たちの現実的本性なのですが,この現実的本性は常にある制約なり条件を被っているのであって,それを超越することを力というのではありません。
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