スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ベイサイドナイトドリーム&具体的な相

2023-04-05 19:18:41 | 競輪
 四日市競輪場で争われた昨晩のベイサイドナイトドリームの決勝。並びは新山‐守沢‐成田‐庄子の北日本でここに中田が番手戦,嘉永‐浅井‐渡辺の西日本で諸橋は単騎。
 浅井がスタートを取って嘉永の前受け。4番手に諸橋,5番手に新山で,新山の後ろは中田と守沢で内外が入れ替わりながらの周回。残り2周のホームで新山が発進。このときは守沢がマークしていました。しかし嘉永が突っ張ったので新山は引き,この間に最後尾まで下がっていた中田が再び守沢の横まで追い上げてきました。打鐘から再び新山が発進。後ろが競りになっていたのでふたりともついていくことができず,単騎の捲りに。ホームの出口では新山が叩いたのですが,嘉永が番手に嵌りました。渡辺が連結を外したので,浅井の後ろに諸橋が入り,競りの後ろだった成田が諸橋の後ろに。番手から出た嘉永と嘉永マークの浅井,さらに最終コーナーで内を突いた諸橋の優勝争いとなりましたが,外の浅井が抜け出して優勝。嘉永が1車輪差の2着に残り,諸橋が8分の1車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は1月の別府のFⅠ以来の優勝。GⅢは一昨年9月の松阪記念以来となる優勝で31勝目。四日市では2014年,2015年2月,2015年8月,2018年と記念競輪を制覇しています。このレースは嘉永と新山の二分戦。新山の後ろが競りになりましたが,おそらく後ろからになった場合はこうするという事前の打ち合わせがあったのでしょう,新山が発進するタイミングで守沢が番手を守りました。しかし嘉永が抵抗したために,再び番手が競り合いになりました。守沢がすんなりと番手を回っているということに嘉永が気付いていたわけではないでしょうが,そこで一旦は突っ張ったことで,西日本ラインが優位に立ちました。結果だけでいえば新山は無理矢理にでもすぐに叩きにいった方がよかったということになるでしょう。

 福居は第二部定理三九共通概念notiones communesの具体的な相であるといっていたのでした。このいい方自体は僕は否定しません。ここまでの説明から分かるように,この定理Propositioは明らかに現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに共通概念が形成されるときの具体的な様式を示しているといえるからです。ただし,福居はこれとは違った意味でこの定理は共通概念の具体的な相であるといっているのであって,そのゆえに共通概念には一般性のレベルに差があるわけではないといっているのです。僕は逆に,この定理が第三部定理三八とは関係なしに,共通概念には一般性のレベルがあるということを示す,より正確にいうなら,共通概念に一般性のレベルに差があるということを現実的に存在する人間の精神に教えることを示していると考えています。いい換えれば,具体的ということが何を意味しているのかということが,福居と僕の間で異なっているといえます。福居はドゥルーズGille Deleuzeの共通概念の理論を否定するためにそのようにいっているのに対し,僕はこの定理が共通概念の形成の秩序を示すというドゥルーズの見解opinioには賛成します。その差異は,ここでいう具体的ということの意味の差異に還元することができるのです。
                                   
 福居は第二部定理三八が共通概念の一般的な相を示すのに対して,第二部定理三九は共通概念の具体的な相を示すといっています。そこでいわれているのは,たとえば現実的にAという人間が存在して,このAがBという外部の物体corpusと関係するときに,AにもBにも共通かつ特有であるものは,Aの精神のうちで共通概念として認識されるということです。もう少し強調していうなら,そのことだけなのです。この限りにおいて,共通概念に一般性のレベルに差がないと福居が結論付けることは,誤っているとはいえないと僕は思います。というのは,AとBに共通かつ特有なものはひとつだけであるとは限らず,いくつかあると考えるべきであって,ここでは分かりやすくそれをXとYのふたつに限定するなら,Xの共通概念もYの共通概念もAの精神のうちに形成されるのですが,そこに一般性のレベルに差があるということはAの精神には知られないというべきだからです。
コメント
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