「文学論」の一部が含まれている『漱石文芸論集』を簡単に紹介しておきます。
岩波文庫から磯田光一編で出版されているもの。出版されたのは1986年5月16日。僕が所有しているのは1991年1月10日に発刊された第6刷で,この間には改編や改刷は行われていません。ただし現時点で発売中のものもそうであるのかは僕には不明です。
全体は四部構成になっています。Ⅰが「文学論」の序,同じく第三編第二章の抄録,文芸の哲学的基礎,創作家の態度の抄録です。Ⅱは写生文,文芸とヒロイック,艇長の遺書と中佐の詩,文芸と芸術の抄録,坪内博士と『ハムレット』,道楽と職業です。Ⅲは予の愛読書,予が文章に裨益せし書籍,戦後文界の趨勢,夏目漱石氏文学談,文学談,余が『草枕』,文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎です。そしてⅣが老子の哲学の抄録,英国詩人の天地山川に対する観念の抄録,『文学評論』第四篇であるスウィフトと厭世文学の抄録です。どういう意図からこのような四部構成になっているのかは書かれていないので分かりません。
この後に付録があって,これは漱石の同時代に作家に対する言及の索引です。これはこの『漱石文芸論集』に収録されているものの索引ではなく,漱石の書簡も含めて岩波文庫から出版されているすべての著作に対する索引です。これでみると漱石が言及しているのは38人。その中でもやはり高浜虚子と正岡子規に対する言及はほかに比べて多くなっていることが分かります。『漱石文芸論集』の注解はこの索引の後に付されていて,これは古川久が担当しています。そして最後に編者である磯田光一の解説があり,この解説はわりと長めです。
漱石の文芸論はこの本でなければ読めないというものではありません。重複しているものもありますが,ほかのものもいずれ紹介します。
第二部定理三九で共通かつ特有といわれるとき,それはある共通概念notiones communesを形成する人間が外部の物体corpusと関係する限りにおいて共通かつ特有といわれるのであって,単に共通かつ特有であるものが共通概念を形成する人間の身体humanum corpusにも外部の物体にも含まれているだけでは,共通するともいえないし,特有であるともいえないのです。いい換えれば,共通であり特有であるものを含んでいるふたつのものあるいは複数のものが関係を有する限りにおいて,それは共通であり特有であるといえるようになるのです。僕が第二部定理三九は,ドゥルーズGille Deleuzeがいっているように共通概念の形成の論理を構成していると解するのは,この事情が関係しています。
福居の主張によれば,第二部定理三九は共通概念の具体的な相を構成するのでした。僕はこのこと自体を否定することはしません。この定理Propositioの様式によって形成される共通概念が具体的なものであることについてはそれを否定する要素はないからです。しかしこの具体的な相というのは,ある特定の共通概念を意味するのではありません。たとえばXがAという人間の身体とBという外部の物体にそれぞれ含まれているなら,AはBと関係を有する限りでXの共通概念を形成することになります。しかしこの関係においてAの精神のうちに発生する共通概念がXの共通概念だけであるかといえば,そうであるかもしれないけれどもそうだと断定することができるわけではありません。Xとは異なったもの,たとえばYもAの身体の中にもBという物体の中にもあるのであれば,Yの共通概念もAの精神のうちで形成されることになるからです。したがって,人間の身体と外部の物体に共通かつ特有であるものというのを,単一のものと解することはできません。
さらにこれは,Aという人間がBという外部の物体と関係をもつ場合のことです。Aという人間がほかの外部の物体たとえばCとは関係をもたないということはできません。よってAがCと関係をもつ限りにおいてもこれと同じことがいえなければならないのであって,もちろんBとCだけでなく,外部の物体と接触するときにはすべからくこのことが成立していなければなりません。
岩波文庫から磯田光一編で出版されているもの。出版されたのは1986年5月16日。僕が所有しているのは1991年1月10日に発刊された第6刷で,この間には改編や改刷は行われていません。ただし現時点で発売中のものもそうであるのかは僕には不明です。
全体は四部構成になっています。Ⅰが「文学論」の序,同じく第三編第二章の抄録,文芸の哲学的基礎,創作家の態度の抄録です。Ⅱは写生文,文芸とヒロイック,艇長の遺書と中佐の詩,文芸と芸術の抄録,坪内博士と『ハムレット』,道楽と職業です。Ⅲは予の愛読書,予が文章に裨益せし書籍,戦後文界の趨勢,夏目漱石氏文学談,文学談,余が『草枕』,文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎です。そしてⅣが老子の哲学の抄録,英国詩人の天地山川に対する観念の抄録,『文学評論』第四篇であるスウィフトと厭世文学の抄録です。どういう意図からこのような四部構成になっているのかは書かれていないので分かりません。
この後に付録があって,これは漱石の同時代に作家に対する言及の索引です。これはこの『漱石文芸論集』に収録されているものの索引ではなく,漱石の書簡も含めて岩波文庫から出版されているすべての著作に対する索引です。これでみると漱石が言及しているのは38人。その中でもやはり高浜虚子と正岡子規に対する言及はほかに比べて多くなっていることが分かります。『漱石文芸論集』の注解はこの索引の後に付されていて,これは古川久が担当しています。そして最後に編者である磯田光一の解説があり,この解説はわりと長めです。
漱石の文芸論はこの本でなければ読めないというものではありません。重複しているものもありますが,ほかのものもいずれ紹介します。
第二部定理三九で共通かつ特有といわれるとき,それはある共通概念notiones communesを形成する人間が外部の物体corpusと関係する限りにおいて共通かつ特有といわれるのであって,単に共通かつ特有であるものが共通概念を形成する人間の身体humanum corpusにも外部の物体にも含まれているだけでは,共通するともいえないし,特有であるともいえないのです。いい換えれば,共通であり特有であるものを含んでいるふたつのものあるいは複数のものが関係を有する限りにおいて,それは共通であり特有であるといえるようになるのです。僕が第二部定理三九は,ドゥルーズGille Deleuzeがいっているように共通概念の形成の論理を構成していると解するのは,この事情が関係しています。
福居の主張によれば,第二部定理三九は共通概念の具体的な相を構成するのでした。僕はこのこと自体を否定することはしません。この定理Propositioの様式によって形成される共通概念が具体的なものであることについてはそれを否定する要素はないからです。しかしこの具体的な相というのは,ある特定の共通概念を意味するのではありません。たとえばXがAという人間の身体とBという外部の物体にそれぞれ含まれているなら,AはBと関係を有する限りでXの共通概念を形成することになります。しかしこの関係においてAの精神のうちに発生する共通概念がXの共通概念だけであるかといえば,そうであるかもしれないけれどもそうだと断定することができるわけではありません。Xとは異なったもの,たとえばYもAの身体の中にもBという物体の中にもあるのであれば,Yの共通概念もAの精神のうちで形成されることになるからです。したがって,人間の身体と外部の物体に共通かつ特有であるものというのを,単一のものと解することはできません。
さらにこれは,Aという人間がBという外部の物体と関係をもつ場合のことです。Aという人間がほかの外部の物体たとえばCとは関係をもたないということはできません。よってAがCと関係をもつ限りにおいてもこれと同じことがいえなければならないのであって,もちろんBとCだけでなく,外部の物体と接触するときにはすべからくこのことが成立していなければなりません。