スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

北条早雲杯争奪戦&第三部定理九備考

2016-08-24 19:04:14 | 競輪
 準決勝が台風の影響で順延となったため決勝も今日に延期された被災地支援の小田原記念。並びは高橋‐佐藤の青森,山中‐郡司‐武田の南関東,稲垣‐椎木尾の近畿で吉田と原田が単騎。
 椎木尾が勢いよく飛び出して稲垣の前受け。3番手に山中,6番手に原田,7番手に高橋,最後尾に吉田の周回に。残り3周半くらいから高橋が吉田まで連れて上昇。ホームで原田が吉田の後ろにスイッチ。バックに入って原田まで稲垣を叩きました。今度は外を山中が上昇。高橋を叩くと吉田が武田の後ろにスイッチ。引いた稲垣が早くも発進。バックから山中もスピードアップし打鐘で稲垣は郡司の外まで上昇。そのまま稲垣がかまして前に。郡司が椎木尾を捌いて稲垣の番手に。武田と吉田も続きました。バックで吉田が捲っていくと郡司も稲垣の後ろから番手捲りの形。吉田は武田の牽制もあって一杯。後ろから迫る選手がなくなり郡司が優勝。武田も半車身差の2着に続いて地元のワンツー。吉田の後ろから最終コーナーで内に切り込み,直線で武田の外に出た高橋が1車身差の3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は1月の和歌山記念以来の記念競輪2勝目。新田と武田豊樹が脱落したものの,楽なメンバーにはなりませんでした。ただ,山中という好目標を得て,その山中も準決勝は地元の和田の先行策で決勝進出を果たしていましたから,今日は地元勢を引き立てるレースをすることが予想され,最も有利だろうと思っていました。稲垣の巻き返しが意外なほどに早かったため,思い描いていたようなレースにはならなかったのではないかと思うのですが,うまく捌いて番手を奪い,よい展開に持ち込めました。昨日もイン粘りで番手を奪って1着。こういう競走ができてくるようならもっと活躍が見込めるかもしれません。番手の武田もいい仕事をしたと思います。

 『スピノザ哲学研究』から最後にもうひとつ考えておきたいことがあります。
                                     
 17章の中で工藤は,スピノザの哲学に含まれているある矛盾を指摘しています。工藤はそれを個物res singularisの現実的本性actualis essentiaと類型としての完全性perfectioという観点から考えています。ですが僕は工藤の指摘をそのような観点からは考えません。第四部定義一第四部定義二,すなわち善bonumと悪malumに関係する矛盾として考察します。工藤が指摘しているような観点から先にこの問題の性質を簡潔に述べておけば,スピノザは善悪を異なったふたつの視点から説明しています。しかしその異なった観点からの説明は一致せず,むしろ解消することが困難な矛盾を生み出しているのです。
 まず,ふたつの視点がどのようなものであるかをみておく必要があるでしょう。第一の視点を代表するのは第三部定理九証明の直後の備考Scholiumの最後の部分でスピノザが善悪に言及する場合です。工藤自身も代表的な例としてこの部分を示しています。
 「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのでなくて,反対に,あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する」。
 実際にはスピノザは善だけについて記述しているのであり,悪については何も語っていません。ですがあるものを肯定することと善が関連付けられているのですから,あるものを否定するならそれは悪と関連づけることができるのは明白です。つまり我々はたとえば悪と判断するからそれを回避することに向かうのではなく,回避することに向かっているからそれを悪と判断するともここでは語られていると解してよいでしょう。
 スピノザが第四部定理八で善悪について述べている部分も,この視点と同様であると僕は解します。たとえば喜びlaetitiaは第三部諸感情の定義二によりより大なる完全性への移行transitioです。これは第三部定理七から,個物の現実的本性に合致します。いい換えれば第三部諸感情の定義一により現実的に存在する個物が欲望することです。その認識が善なら,欲望するからそれを善と判断するということと合致するでしょう。悪の場合も同様に説明できます。
コメント
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