スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

たちあおい賞争奪戦&汎神論

2023-02-12 19:09:29 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは吉田に守沢‐成田の北日本,渡辺‐深谷‐郡司‐佐々木の南関東,清水‐松浦の中国。
 スタートを取ったのは成田。吉田の前受けとなり,4番手に渡辺,8番手に清水の周回に。残り3周のバックの入口から清水が上昇。バックでは渡辺に蓋をしました。コーナーで渡辺が引いたので清水が4番手で渡辺が6番手に。成田と清水の車間が開きましたが,ホームで清水が上昇。出口で吉田を叩きました。その外から清水ラインを追って上昇してきた渡辺が発進。ラインの4人で清水を叩いて打鐘。5番手になった清水はホームからすぐに巻き返しにいきましたが,深谷が合わせて番手から発進。このために清水は不発になりました。後方になった吉田がバックから捲ってきたものの,これは最終コーナーで郡司に牽制されて失速。吉田を止めた郡司がそのまま踏み込み,直線で深谷を差して優勝。深谷が4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。失速した吉田から郡司に切り替えた守沢が4分の3車身差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は昨年10月の熊本記念以来の優勝で記念競輪15勝目。静岡記念は初優勝。このレースは渡辺が早めに先行して深谷の番手捲りという展開が濃厚なので,深谷と郡司の争いになるだろうと思っていました。このラインの4番手を回る佐々木はこのレベルでは経験に欠けているので,吉田か清水のどちらかが郡司の後ろには入れるのではないかとみていたのですが,佐々木まで続いての先行になりましたから,深谷と郡司にとってはなおのことよい展開となりました。郡司は捲ってきた吉田を止めていますから,仕事をした上での優勝といえ,これは見事でしょう。5番手の清水がホームから早めに巻き返そうとした分,深谷の発進が少し早めになったことが,深谷と郡司の差になって表れたといえそうです。

 まず,スピノザの哲学が汎神論であるとして,どのような意味で汎神論といわれるべきかということを確認しておきます。一口に汎神論といっても,いくつかのタイプの汎神論がある筈で,スピノザの哲学がどういうタイプに属するかを確認しておくことはとても重要です。
                                   
 第一部公理一は,存在するものはそれ自身のうちにあるesse in seかほかのもののうちにあるかのどちらかであるといっています。このうち,それ自身のうちにあるものは第一部定義三により実体substantiaといわれます。またほかのもののうちにあるものは,第一部定義五により様態modiといわれますが,様態は実体の変状substantiae affectioと同じです。いい換えれば様態的変状modificatioに様態化した実体というのと同じです。したがって,自然Naturaのうちに存在するものは,実体であるか様態すなわち実体の変状あるいは様態的変状に様態化した実体のいずれかであって,それ以外のものは自然のうちには何も存在しません。
 第一部定理一四により,自然のうちに実在する実体はDeusだけです。よって自然のうちに存在するのが実体と様態のいずれかであるとするなら,自然のうちに実在するのは神か,神の変状あるいは様態的変状に様態化した神のいずれかです。したがって,自然のうちに様態として存在するあらゆるもの,とくに有限様態として存在する個物res singularisというのは,その個物という様態的変状に様態化した神なのです。このような意味でスピノザの哲学あるいは思想は汎神論であるということになります。他面からいえば,スピノザの哲学のことを汎神論という場合には,以上の事柄が踏まえられていなければならないのであって,とくに自然のうちに存在するいかなる個物も,様態的変状に様態化した神であるということが,汎神論ということの意味のうちに含まれていなければならないのです。國分が指摘しているように,スピノザの汎神論というのは,宗教的な要素は含まれていないのであって,むしろ自然科学に近似した思想であるといえます。
 『はじめてのスピノザ』では,この種の汎神論が帰結するのは,絶対者としての神という世間の見解opinioを逆手に取ったものだといわれています。ただしスピノザにそういう意図があったかはまた別です。
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