昨晩の第59回東京記念。御神本騎手が精神的に不安定と判断され,フレッチャビアンカは今野騎手に変更。
サトノプライムは立ち上がって1馬身の不利。シュプレノンとパストーソが並んで逃げるようなレースから,シュプレノンが単独のハナへ。3番手にランリョウオーで4番手にホーリーブレイズ。5番手併走のエメリミットとストライクイーグルまでは一団。2馬身差でセイカメテオポリス。3馬身差でフレッチャビアンカ。2馬身差でウラノメトリア。5馬身差でブラヴール。11番手にマンガン。12番手にロードマイウェイ。13番手にドスハーツ。6馬身差の最後尾にサトノプライム。最初の1000mは64秒8のスローペース。
3コーナー前からシュプレノンは手が動き出し,コーナーに差し掛かるところではパストーソが先頭に。2番手にランリョウオーが上がり,一時的にこの後ろが3馬身くらい開きました。差を詰めてきたのはセイカメテオポリスでさらにフレッチャビアンカ。直線に入るとすぐにランリョウオーが先頭に立ち,外からセイカメテオポリスとフレッチャビアンカ。この後ろは差が開いてしまい3頭の争い。フレッチャビアンカは脱落。セイカメテオポリスはランリョウオーに迫りましたが届かず,直線先頭のランリョウオーが優勝。セイカメテオポリスが4分の3馬身差で2着。フレッチャビアンカが1馬身4分の3差で3着。
優勝したランリョウオーはここが大井記念以来のレースで南関東重賞3勝目。このレースは出走馬の半数以上は勝ってもおかしくないと思えるメンバー構成で大混戦。距離に不安はなく3連勝中のこの馬が最もチャンスはありそうでしたが,休養明けの長距離戦でどうかというところはありました。接戦となった2着馬も休養明けでしたから,その分の不安が出たという結果ではなく,能力的にさほど差はないということなのだと思います。母の父はシンボリクリスエス。祖母はファビラスラフイン。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞28勝目。第50回,52回に続き7年ぶりの東京記念3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞56勝目。第55回以来となる4年ぶりの東京記念2勝目。
理性ratioに従う限りでは,つまり能動的である限りでは,すべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致します。よってこの限りでは現実的に存在するすべての人間の自然権jus naturaeが一致します。なので,現実的に存在する諸個人の自然権が異なるのは,それら各々の人間が働きを受けるpati限りにおいてです。したがって,ある人間Aの自然権が,別の人間Bより大きな自然権を有するとすれば,それは現実的に存在する人間Aが,人間Bよりも多く働きを受けているということを意味します。後に示すように,僕はそのときに,確かにAはBより大きな自然権を有するということを認めるのですが,AがBよりも大きな力potentiaを有していることは認めません。というのは,たとえば第四部定義八から明らかなように,人間が十全な原因causa adaequataとなって,いい換えれば能動的に何事かをなすならば,それはその人間の力とみなせるのですが,人間が働きを受ける場合には,つまり受動的である場合には,それはその人間の力を表現するexprimereのではなく,無力impotentiaを表現するからです。ですから極端にいえば,ある人間がより多くの自然権を有するということは,その人間の無力を多く表しているということになるのです。
人間のコナトゥスconatusは,その人間が能動的であろうと受動的であろうと働くagereので,僕は受動的である限りにおいて人間がなすこともその人間の自然権に含めます。しかしこの点については疑問をもつ人もいるでしょうし,否定的な考えをもつ人もいると思います。僕はそういう見解opinioも理解はできますので,そうした見解の根拠についても説明しておきましょう。
第三部定理五九から分かるように,人間は能動的である限りにおいては,基本感情affectus primariiのうち欲望cupiditasと喜びlaetitiaを感じることはありますが,悲しみtristitiaを感じることはありません。つまり人間が悲しみを感じるということは,その人間が受動的である,働きを受けている場合に限られるのです。よってある人間が,別の人間よりも多く受動passioに隷属しているのであれば,その人間は別の人間よりも大きな悲しみ,これは数多くの悲しみという意味でありまた深い悲しみという意味でもありますが,大きな悲しみを感じることが多くなるであろうということが容易に帰結します。
サトノプライムは立ち上がって1馬身の不利。シュプレノンとパストーソが並んで逃げるようなレースから,シュプレノンが単独のハナへ。3番手にランリョウオーで4番手にホーリーブレイズ。5番手併走のエメリミットとストライクイーグルまでは一団。2馬身差でセイカメテオポリス。3馬身差でフレッチャビアンカ。2馬身差でウラノメトリア。5馬身差でブラヴール。11番手にマンガン。12番手にロードマイウェイ。13番手にドスハーツ。6馬身差の最後尾にサトノプライム。最初の1000mは64秒8のスローペース。
3コーナー前からシュプレノンは手が動き出し,コーナーに差し掛かるところではパストーソが先頭に。2番手にランリョウオーが上がり,一時的にこの後ろが3馬身くらい開きました。差を詰めてきたのはセイカメテオポリスでさらにフレッチャビアンカ。直線に入るとすぐにランリョウオーが先頭に立ち,外からセイカメテオポリスとフレッチャビアンカ。この後ろは差が開いてしまい3頭の争い。フレッチャビアンカは脱落。セイカメテオポリスはランリョウオーに迫りましたが届かず,直線先頭のランリョウオーが優勝。セイカメテオポリスが4分の3馬身差で2着。フレッチャビアンカが1馬身4分の3差で3着。
優勝したランリョウオーはここが大井記念以来のレースで南関東重賞3勝目。このレースは出走馬の半数以上は勝ってもおかしくないと思えるメンバー構成で大混戦。距離に不安はなく3連勝中のこの馬が最もチャンスはありそうでしたが,休養明けの長距離戦でどうかというところはありました。接戦となった2着馬も休養明けでしたから,その分の不安が出たという結果ではなく,能力的にさほど差はないということなのだと思います。母の父はシンボリクリスエス。祖母はファビラスラフイン。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞28勝目。第50回,52回に続き7年ぶりの東京記念3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞56勝目。第55回以来となる4年ぶりの東京記念2勝目。
理性ratioに従う限りでは,つまり能動的である限りでは,すべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致します。よってこの限りでは現実的に存在するすべての人間の自然権jus naturaeが一致します。なので,現実的に存在する諸個人の自然権が異なるのは,それら各々の人間が働きを受けるpati限りにおいてです。したがって,ある人間Aの自然権が,別の人間Bより大きな自然権を有するとすれば,それは現実的に存在する人間Aが,人間Bよりも多く働きを受けているということを意味します。後に示すように,僕はそのときに,確かにAはBより大きな自然権を有するということを認めるのですが,AがBよりも大きな力potentiaを有していることは認めません。というのは,たとえば第四部定義八から明らかなように,人間が十全な原因causa adaequataとなって,いい換えれば能動的に何事かをなすならば,それはその人間の力とみなせるのですが,人間が働きを受ける場合には,つまり受動的である場合には,それはその人間の力を表現するexprimereのではなく,無力impotentiaを表現するからです。ですから極端にいえば,ある人間がより多くの自然権を有するということは,その人間の無力を多く表しているということになるのです。
人間のコナトゥスconatusは,その人間が能動的であろうと受動的であろうと働くagereので,僕は受動的である限りにおいて人間がなすこともその人間の自然権に含めます。しかしこの点については疑問をもつ人もいるでしょうし,否定的な考えをもつ人もいると思います。僕はそういう見解opinioも理解はできますので,そうした見解の根拠についても説明しておきましょう。
第三部定理五九から分かるように,人間は能動的である限りにおいては,基本感情affectus primariiのうち欲望cupiditasと喜びlaetitiaを感じることはありますが,悲しみtristitiaを感じることはありません。つまり人間が悲しみを感じるということは,その人間が受動的である,働きを受けている場合に限られるのです。よってある人間が,別の人間よりも多く受動passioに隷属しているのであれば,その人間は別の人間よりも大きな悲しみ,これは数多くの悲しみという意味でありまた深い悲しみという意味でもありますが,大きな悲しみを感じることが多くなるであろうということが容易に帰結します。