スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

本性としての善&力の変化

2023-04-19 19:20:22 | 哲学
 僕たちがあるもの,たとえばXをmalumであると認識するcognoscereとしても,それはXの本性essentiaに属するわけではない,いい換えれば事物に固有の本性としての悪はないと僕はいいました。そして僕はこのことを,悪の確知は疑わないということなのであって,疑い得ないということではないということと関連して説明しました。しかしこの説明からは,次のような疑問が生じてくるのではないかと思います。もしもこのふたつのことが関係してくるのであれば,Xが善bonumであるという認識cognitioが疑い得ないということであり得るのならば,善であることがXの本性に属していなければならないのではないか,他面からいえば本性としての善であるものが存在しなければならないのではないかというものです。
                                   
 先に答えだけいっておけば,本性としての悪がないように,本性としての善もありません。あるもの,たとえばXが善であるのは,Xを善と認識する人が,Xによって喜びlaetitiaを齎されるからなのであって,それはXの本性に属するというわけではなく.あくまでもその人とXとの関係において生じる事柄だからです。しかし,善の確知というのは,単にそれを疑わないというだけではなく,疑い得ないという場合も生じ得るのです。このふたつが両立するのは,たとえ善であるということがXの本性に属するのではないとしても,ある人間とXとの関係については,その人は十全に認識することができる,他面からいえば,Xが自分に喜びを齎すということを,Xは自分自身の本性のみによって認識することができるからです。つまり,Xが自分に悲しみを齎すという認識は,自分とXの双方の本性からその人の精神mensのうちに生じる認識であるのに対し,Xが自分に喜びを齎すという認識は,自分とXの双方の本性からその人の精神のうちに生じる場合もあれば,単にその人の本性のみによってその人の精神のうちに生じる場合もあるのです。このとき,前者の場合はその人はXが善であるということを単に疑っていないというだけなのですが,後者の場合はXが善であるということを疑い得ないのです。つまりこのことは,Xの本性に何が属するのかということは重要ではなく,その認識が認識する人間の能動actioであるか受動passioであるかということが重要なのです。
 本性としての悪はありません。それと同様に,本性としての善もないのです。ある事物が善であるか悪であるかは,その事物の本性に属するのではなく,その事物と関係を有する人の認識のうちにあるのです。

 スピノザの哲学では本性essentiaを力potentiaという観点からみたときには実在性realitasとみなされます。つまり現実的にAという人間が存在しているときの本性,Aの現実的本性actualis essentiaを力という観点からみたときには,Aの実在性,いわばAの現実的実在性とみられるのです。ですからAの力が変化するということは,Aの実在性が変化するということです。このとき,Aの実在性は力からみられたときのAの現実的本性ではあるので,Aの実在性が変化するということを,Aの現実的本性が変化することであるというように解釈しても,間違いであるとはいえないのです。ただそれは,Aという現実的本性がBという現実的本性になる,つまりAという人間がそれとは別のBという人間になるというわけではなく,現実的本性が変化しつつAはAであり続ける,他面からいえば,Aという人間が,このようなAからあのようなAになり,また別のそのようなAになるというように,時々刻々と変化するということなのです。
 現実的に存在するAという人間が,あるときはBという人間を愛し,その後にはBという同じ人間を憎むようになるということが現実的に生じ得るということは理解することができるかと思います。この事象はそれ自体でみれば,あたかもBを愛していたAという人間が,Bを憎む別人のようになったと規定することができます。このような意味でAの現実的本性は確かに変化しているのであって,それはAの実在性,力という観点からみたときのAの現実的本性が変化しているということなのです。人間の現実的本性が時々刻々と変化しつつ,各々の状態で欲望cupiditasとして作用するというのは,具体的にはこのようなことだと解するべきです。この事例は愛amorと憎しみodiumという感情affectusによって説明していて,それは欲望ではないのですが,AがBを愛しているときにBに対して抱く欲望と,AがBを憎んでいるときにBに対して抱く欲望が異なるということはとくに説明するまでもなく理解できると思います。したがってこのような変化,Bを愛しているところから憎むようになるときには,AのBに対する欲望は変化するのであり,これがAの現実的本性の変化であって,実在性の変化なのです。

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